親鸞に学ぶ幸福論

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死ぬと肉体はなくなるが、問題は「私」がどうなるか、だろう

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【生死の一大事(1)】


「生あるものは必ず死に帰す」

誰でも知っていることです。

死という壁にいつか必ずぶつかるということ。

私たちは死の壁に向かって

目隠しして走っているようなものといえましょう。

 

ではその壁にぶつかった、その向こう側は

どうなっているのでしょう。

【人間死んだらどうなるか】

あなたは考えられたことありますか。

 

オカルトでも話し出そうとしているのではありません。

冷やかしでもありません。

正真正銘、自分の将来に関わる大事な問題ではないでしょうか。

 

以下は友人が、お父さんを看取ったときに

言っていた言葉です。


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肉体はまだきれいにあるのに、

幾ら見つめていても全く動かない、動く気配もない、

これから先も二度と動くことはないと分かりました。

抜け殻同然でした。

 

しかし、ちょっと前まで動いて生きていました。

どんなに病状が悪化し、昏睡状態になっても抜け殻などと思わず、

確かに父はそこにいました。

 

今生は【父】という仮の姿をしていましたが、

【本当の父】は仮の姿を置いて、どこへ行ってしまったのか。

肉体は動かなくなっても、父が消えたとは思えませんでした。

 

周りを見れば、皆動いていて、

それを「生きている」といわれますが、

その肉体を動かしているものは何であるか。

 

自分の肉体もまた仮の姿で、必ず尽きる時がやってきます。

それを「死ぬ」といわれますが、

死ぬとそれまで肉体を動かしてきた〝本当の自分〟はどうなるのか。

そもそも〝本当の自分〟といわれる実体は何であるのか。

考えれば考えるほど分からず、

奇妙な感覚に陥ります。」


=======


生まれて、生きて、死ぬのは、肉体の問題。

仏教で問題にされているのは肉体ではなく、

過去・現在・未来を貫く【本当の自分】とは何か、です。

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弁円の恨みとねたみが、懺悔と転じて明法房となる

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【愚痴(4)】


「釈迦にダイバ、親鸞聖人に弁円」という言葉があります。

釈迦や親鸞聖人のような徳の高い方でも、

誰もが尊敬したのではない、

中にはお釈迦さまを害せんと画策したダイバ、

親鸞聖人の命を付け狙った弁円のような者もありました。

 

ダイバにしても、弁円にしても、彼らの殺害動機は

「まさるを妬む心」でした。

愚痴、まさるを妬む心の恐ろしさについて

何回か回数を重ねましたが、

最後に、弁円という人を通してお話しいたします。

 

親鸞聖人が関東の稲田(今の茨城県)に草庵を構えられ、

布教を始められたのは40歳過ぎでした。

親鸞聖人が来られる前の関東では、

仏教は、家内安全や病気治しなどの

厄よけの祈祷だと思われており、

その当時、関東一円に巨大な勢力を誇っていたのが

弁円率いる修験道の一派でした。

弁円は厳しい修行の末、孔雀明王の威神力を体得したと言い、

その力で加持祈祷すればどんな病気も治る、どんな願いもかなう、

これぞまことの仏教と公言していました。

 

弁円は、末寺三十五、門弟百余人を擁したといわれます。

関八州(関東全域)の山伏の総司となり、

民衆の尊敬を一身に集めていました。

「権勢国中を風靡せり」と記録にあります。

まさに弁円は関東の輝ける星であり、修験道の最大の実力者でした。

 

親鸞聖人が、関東でご布教を始められた当初は、

弁円も「親鸞は比叡山の修行がつらくて、逃げ出した男」

「越後に流された罪人」「肉食妻帯の堕落坊主」とバカにし、

全ての人がそのままの姿で救われる阿弥陀仏の本願を

「軽薄な教え」と信者に注意するくらいでしたが、

聖人のご説法を聞き求める人々が徐々に増えていき、

弁円に祈祷を頼みに来る者が減ってくると、

内心、苛立ちと焦燥感に悶々とするようになります。

 

日が経つにつれ、信者が自分から離れ、自分の寺が閑散となり、

親鸞聖人の御法話に多くの人で賑わうようになり、

弁円の腹の底では、うらみ、ねたみの心がとぐろを巻き、

どす黒い怒気がたまっていくのでした。

 

その弁円の忍耐もついに耐えがたき事件がおきました。

弁円の元から15、6人の弟子が抜け出して、

親鸞聖人の教えを聞くようになったのです。

「おのれ親鸞、もう許せん」と怒り狂った弁円は、刀を抜いて、

親鸞聖人のおられる稲田の草庵へ駆け込みます。

悔しさと怒りで血走った目をむき、

「御仏に代わってオレが成敗してくれる」と叫ぶ語気は

火を噴くように烈しいものでした。

 

ところが弁円の尊さが私たちの胸を打つのは、この後です。

弁円は親鸞聖人と初めて会われ、すぐに自己の恐ろしい誤りを知らされ、

その場で懺悔したのです。

「稲田の繁栄を妬み、己の衰退をただ御身のせいだと憎み、

お命を狙っていたとは」と熱い悔恨の涙が、

弁円の眼からとめどもなくあふれ出るのでした。

その場で親鸞聖人のお弟子となり、

親鸞聖人のお弟子の中でも特に知られている二十四輩の一人、

「明法房」として、今に名を残しています。

 

普通はこのように自己を反省できないものです。

恨んでいる人は自分が恨んでいると気がつきませんし、

ねたんでいる人は、自分がねたんでいることを知りません。

この時の弁円の心もそうでした。

「仏教を破壊する悪魔を御仏に変わって成敗する」

という彼の言葉にも表れているように、

自分の正義を信じて疑っていません。

 

そんな弁円が、今の運命はすべて己のまいた種であった、

と自己の誤りを知らされ、

親鸞聖人のせいにして恨んでいたとは、なんと馬鹿だったのか

と己の姿を懺悔したのです。

ずっとそういう気持ちになれないまま、

恨みとねたみで虚しい一生を終えていく人ばかりの中、

弁円の深い仏縁にただただ頭が下がります。

 

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旧約聖書にあるカインとアベルの話を仏説から紐解いてみる

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【愚痴(3)】


仏教で三毒の煩悩 の一つに数えられる愚痴(ねたみ、そねみの心)

について話を続けています。

先回、ねたみの心は身近な人に対して起きる、と話しをしましたが、

そういう点からすると、兄弟は物心つくときに最初に感じる

ねたみ、そねみの対象かもしれません。

兄弟が仲違いするのも、その原因の多くは「ねたみ」です。

親は兄ばかりかわいがって、妹ばかりかわいがって、と

嫉妬で兄弟仲が悪くなる例はよくあります。

今日はその一例で、カインとアベルの兄弟の話を紹介しましょう。

 

キリスト教の聖書に書かれる人類初の殺人は、

アダムとイブの間に生まれた兄弟、

兄カインによる弟アベルの殺害です。

事のいきさつですが、ある日二人が神ヤーヴェに捧げ物をした。

農夫であるカインは収穫物を、羊飼いのアベルは子羊を捧げたが、

ヤーヴェはアベルの供物を喜び、カインの供物を無視した。

「なんであいつばかりが評価されるのか、

オレだって苦労したのに」

と嫉妬にかられたカインは、アベルを殺してしまいます。

このことを知った神は大変怒り、

苦難の地にカインを追放した、という話です。

 

この話を子供の時に聞いて、子供心にも

「ずいぶんお粗末な神だな」と思ったものです。

自分の子供が親の誕生日に手作りのプレゼントをくれた時、

たとえ兄のプレゼントは、下手で貧弱なもので、

弟のプレゼントは親にとってもうれしいものだったとしても、

二人の心を思えば、兄にも弟にも感謝の言葉をかけ、

うれしさを表わさなければならないでしょう。

二人とも一生懸命作ったのだから。

親の評価を何よりも子供にとって明かりなのだから。

それが当然であり、そうするのが普通の親です。

弟のプレゼントだけ喜んで受取って、

兄のプレゼントは無視して受取らないとなれば

親としてあまりにお粗末だと誰しも思うでしょう。

こういう親の心ない言動が、

子供を非行に走らせたりするのでしょう。

 

さらにそんなカインを神が追放したというのは、

ちょうど兄の非行に激高した親が

「お前なんかうちの子じゃない、出てけ!」

と怒鳴り散らすようなものです。

神には、カインの殺人の動機となった嫉妬の原因は

自分の浅ましい言動にあったという自己反省はないものか、

ただ腹を立てて追放したというその尊敬できない対処に

首をかしげます。

 

このカインとアベルの話から学べる教訓は

愚痴の心の恐ろしさ、です。

聖書が事実だと信じる心は私にはありませんが、

「まさるを妬む心」の恐ろしさがよくわかる話です。

これはカインだけでなく、誰の心にもあり、しかもそれは

肉親でも殺してしまうほど激しいものである、ということです。

お釈迦さまが、うらみ、ねたみの愚痴を、

最も悪を造る三毒の煩悩の一つに数えられていることが

よく首肯させられます。

 

そしてさらに学べる教訓として、

私たちは、特に人の上に立った時、

自分の接する人たちは皆このような、

理屈では精算できない、ある意味人間らしい、

ドロドロとした情を抱えていることをよく踏まえた上で、

ほめたり、叱ったりしなければならない、ということです。

 

歴史に名を残す、多くの人を惹きつけてやまない人物は

こういう人間の情を察知することに長けていた人なんでしょうね。

 

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「ねたみ」や「嫉妬」で悶々としたときに思い出したいブッダの智慧とは

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【愚痴(2)】


先回に引き続き、「愚痴」についてお話しします。

「愚痴」とは、仏教に説かれる108ある煩悩の中でも

特に私たちを苦しめ、悩ませる三毒の煩悩の一つに数えられます。

「うらみ」「ねたみ」「嫉妬心」のことです。

幸せそうな人を見て、苦々しく思う心のことです。

 

友人や同僚に、昇進や結婚などの慶事があれば、

なんとなく不愉快な気持ちが出てくる。

よかったなあ、と近寄って祝福する笑顔が強ばっていないか、

気になる。

友人なのに、同僚なのに、何でこんな醜いことを思うんだろう

と嫌な自分の心が見え隠れします。

 

ところが実は友人だからこそ、同僚だからこそ、

そんな気持ちが起きているともいえます。

ことわざにも「隣に蔵が建つと腹が立つ」とか

「隣の貧乏、雁の味」といわれるように、

身近で何かと意識しあう仲だからこそ、

ねたみの心も出じるのです。

 

イチローが世界中で賞賛されるのを、

「ちくしょーイチローめ、何であいつばかりが」

とねたむ人はないでしょう。

自分とかけ離れている存在だと、

その人の幸福や成功も、おだやかに祝福できます。

イチローをねたむとしたら、

ピート・ローズのような人くらいです。

 

私たちがねたみの心で苦しむ時のことを振り返ってみてください。

たいてい身近な人の幸運や成功です。

同僚で職場でも切磋琢磨してきた仲間が昇進したとか、

同じアパートで同じ生活水準の近所仲間が高収入になったとか、

そんな時です。

 

そういう我々のねたみの実態と知ると、こんなことで苦しむのは

器が小さいというか、視野が狭いというか、

考えがセコいというか。。。

世界中にはいろいろな人がいるのに、

たまたま近くにいた人の幸運などに

必要以上に振りまわされている浅ましさを思うと、

人生の貴重な時間とエネルギーをこんなことに費やしてる場合か、

と苦笑させられます。

 

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人間関係のいざこざの多くはこれが原因

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【愚痴(1)】


愚痴」とは仏教の言葉ですが、

今日の日本でも、普段よく使われる言葉です。

「あいつ、また愚痴ってる」とか

「あんたの言うこと愚痴ばかりじゃない」というように、

しゃべることとして使っていますが、

元来の意味は、「うらみ」「ねたみ」の心のことです。

幸せな人を見ると面白くない、なんとなく不愉快になる心です。

 

仏教に説かれる108の煩悩の中でも

特に私たちを苦しめ、悩ませるのが「愚痴」の心だと

説かれています。

私たちはこの愚痴により、人とぶつかり、傷つき、苦しんでいます。


兄弟が仲違いするのも、その原因の多くは「ねたみ」です。

親は兄ばかりかわいがって、妹ばかりかわいがって、と

嫉妬で兄弟仲が悪くなり、

大人になってからもその思いを引きづる人も少なくありません。

 

会社の人間関係のいざこざも、

愚痴が端を発していることが多いようです。

「上司はあいつばかり引き立てやがって」

「なんで向こうの方が評価されるんだ」と

もやもやしている思いがあるのですが、

それをそのまま言うと醜いので、

もっともらしい理由を言い並べているだけです。

「あのやり方では長期的に見れば成功しない」とか

「こんなことではこれからの会社が心配だ」とか言いますが、

これら実は全部、後講釈です。

そう言わせている本当の原因は「ねたみ」です。

言っている本人自身が、自分の意見の根っ子に

「ねたみ」があると認めていないことが多いのですが、

よくよく心を見つめてみると分かります。

心の底に醜いものが見え隠れしています。

 

会社の派閥、クラスでの不仲、兄弟同士のケンカなど、

人間関係のいざこざの多くは、

ねたみやそねみが原因になっているようです。

 

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出家せずとも救われる道をひらかれた親鸞聖人

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【出家(4)】


親鸞聖人は9歳の時、出家され、比叡山に入られました。

ところが清らかな山だと思われた比叡山は、

すでに俗世と変わらぬ、煩悩に穢れた「穢土」でした。

見栄えのいい叡山の金堂宝塔も、その中では派閥争いが繰り返され、

難行苦行を掲げながらもそれは形だけで、

僧たちの個人生活には無数の醜が隠されているのを知られたのです。

 

周りが不真面目だと、「朱に交われば赤くなる」で、

自分だけ真面目に修行しているのがばかばかしくなり、

いつしか怠惰で楽を覚えていくのが私たちの常ですが、

親鸞聖人はそういう方ではなかったようです。

煩悩にまみれた僧侶を反面教師に、

「オレだけでも戒律を守り抜いてみせる」

「煩悩を克服してみせる」と、

一人固く誓われ、修行学問に励まれるのでした。

 

その誰よりも真摯な学問修行から、

やがて親鸞聖人は、叡山の麒麟児(きりんじ)

と呼ばれるようになりました。

 

ところが親鸞聖人は、ご自身の心を真面目に見つめられ、

こう仰っています。

「こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり」

「親鸞の心の中には、醜い蛇やサソリがうごめいている」

と告白懺悔されています。

蛇やサソリを見た時、背筋がぞっと寒くなるような、

気持ち悪い感じがしますが、

この蛇やサソリの心とは、他人の幸せを妬んだり、

他人の不幸をくすくす笑っている心のことです。

わが身ながら、なんて醜い心だろうとぞっとする心です。

親鸞聖人は、妬み嫉みの心がとぐろを巻いている

ご自身の心に驚かれたのです。

醜悪さを隠蔽している比叡山を責めるお気持ちの親鸞聖人でしたが、

それ以上に醜悪な心を隠しているのが、

他ならぬ私の実態ではないか、と愕然とされたのでした。

 

どうしたら、この煩悩の火を消すことができるのか、

決死の修行に取り組まれるものの、

どうにもならないご自分の醜い煩悩に苦しまれ、

こんな心のまま死んだらいったいどうなるのか、

不安な心に居ても立ってもおれなくなり、

ついに比叡山を下りられたのでした。

9歳で出家されてから、20年の月日が流れていました。

 

その後間もなく法然上人とお遇いされ、

煩悩の塊のまま救われる本当の仏教を知られた親鸞聖人の喜びは

余人の想像を絶するものだったでしょう。

「もし法然上人にお会いできなかったら、

せっかく人間に生を受けながら、二度とないチャンスを失い、 

永遠に苦しんでいたにちがいない。

親鸞、危ないところを法然上人に救われた」

と感泣されているお言葉が残されています。

ここに「出家」せずとも、

「在家」のままで救われる大道がひらかれたのです。

 

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出家の僧が集う聖なる比叡山の実態とは

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【出家(3)】


私たちが住む「この世」のことを、仏教では「穢土」といいます。

「穢土」とは、穢れた世界、「煩悩」に穢れた世界ということです。

常に私たちは収入や名声や容姿など人と競い、争い、

結果として劣等感で苦しんだり、慢心で驕ったり、

嫉妬に身を焦がしたりしていますが、

そのような心を「煩悩」といいます。

 

煩悩によって常に苦しみ悩む人類は

煩悩を抑えるにはどうしたらいいか、常に思索してきましたし、

今も書店に行けば、煩悩をコントロールするにはどうしたらいいか

を指南する本が並びます。

 

親鸞聖人も、煩悩を克服するために

9歳で出家され、比叡山で修行に励まれました。

今でこそ比叡山は観光の名所ですが、当時は女人禁制の地。

世俗の権力も立ち入ることも禁じられていました。

地位や名誉、財産、家族など近くにある環境だと、

愛欲や名利の心で執着が生じ、怒りや恨みも起き、

争いになるので、それらを遠ざけるために

修行の山に入られたのです。

木や石しか周りにない環境なら、心かき乱されることなく、

一途に仏道修行に打ち込めるようになるだろう

と思われてのことでした。

 

ところが清らかな山であるべき比叡山は

すでに乱れに乱れて、この世のことに染まりきっていたのでした。

僧侶は公家や貴族に取り入るために、

元来仏教の教えにない加持祈祷に奔走し、

庶民からは税を搾り取るだけで相手にしません。

また自分たちの権益を通そうと、

道理の通らぬ強訴を繰り返していました。

きらびやかで見栄えのいい寺院や堂塔も、

その中は絶えず醜い派閥争いが繰り返されていました。

難行苦行を掲げているのも形だけで、

僧たちの生活は乱れきっていました。

 

そんな当時の僧侶の実態を知られ、

親鸞聖人はこうも仰っています。

「この世の本寺・本山のいみじき僧ともうすも、法師ともうすも、

うきことなり」

“この世で名門とされる大きな寺の名僧高僧などといわれるものは、

私にはイヤでたまらぬ連中である”

よほどうんざりする思いをされたのでしょう。

 

たとえ出家して、僧の衣に身を包み、頭を丸めていても、

人間は例外なく皆、煩悩の塊ですから、

「穢土」でないところはないのです。

いつの時代も、どこへ行っても、

この世に「穢土」でないところはありません。

修行の山もそこはやはり「穢土」だったのです。

 

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