仏教で『禅定』とは
「禅」は「しずめる」
「定」も「定める」こと。
散乱する自分の心を
しずめ、さだめることをいいます。
人のことばかり
「あいつ悪い」と非難する心をしずめる。
そして自分はどうか、とふり返る、ことです。
【間違っていると知れば直す。】
幼稚園で習うことですが、大人でもできません。
「悪いことしたら
"ごめんなさい"って
言うんだゾ。
幼稚園ではみんな
そうするゾ。」
とクレヨンしんちゃんに言われて
大の大人が赤面する場面は
印象的でした。
幼稚園児から大の大人まで
どんな優れた人でも
【率直に自分の問題を認めて反省する。】
死ぬまでその繰り返しでしょう。
これで完璧、など
人間にあるはずがないのですから。
■人から受けた注意を
「おのれ、批判された」
と、腹を立てていては
とても大成できません。
自分を間違いの無い者のようにうぬぼれているから
腹が立ってくる。
腹を立てる元はうぬぼれ心にある、といえましょう。
完璧な人間、どころか
むしろ欠点だらけだから、
ごまんとある欠点の一つ二つでも直せば
その分一歩、二歩、向上できるのです。
■自分では欠点を気づかないから
毒をまき知らしてしまいます。
他人にはその毒がよく分かるものだから
親切な人が知らせてくれているのに、
指摘されて腹立てたり、
うらんだり、憎んだりしたら
これは大人とはいえません。
人の注意はけっして気持ちよくはないけど、
『磨かれている』ということです。
「ゴシゴシやられて、痛い。
指摘はいやだ。」
その痛みが磨かれていく過程です。
「それでいいぞ。」
それで、どうしてそれ以上伸びるだろう?
「完璧だよ。」
それでどうして向上するのだろう?
【至言は耳に逆らう】
なかなか自分の良くないところを指摘してくれる人はいないものです。
たいていは影で中傷非難、
あるいはもの笑いの種にされるだけです。
言ってくれる人は大事な人です。
【己を磨いてくれる人】といえましょう。
ところがわたしたちは磨いてくれる人を嫌うものです。
手厳しい指摘を受け入れていけるか、
はねつけるか、
それで人間の器は分かれるのでしょう。
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