親鸞に学ぶ幸福論

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会者定離の意味とは。仏教の教えからひもとく

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【会者定離(1)】

 


仏教に「会者定離」という言葉があります。

“会った人とは、いつか必ず別れねばならない”という意味です。

 

いうまでもなく、人生とは出会いと別れの連続です。

「はじめまして」と挨拶したあの時は、

まさかこの人とこんなことになるとはなぁ、と

しみじみと感じ入る、そんな出会いがあります。

 

「どうしてあの時、あそこで、あの人と会えたのだろう、

ああ、もしあの人と会えなかったら、

今ごろ自分はどうなっていたことだろう」と

感謝の念いあふれる出会いもあるでしょう。

 

逆に「なんであの時、あそこで、

あんな奴と出会ってしまったんだろう、

あれがもしなかったら、今ごろこんなことには

絶対なっていなかったのに」

と悔やんでも悔やみきれない出会いもあるかもしれません。

 

大切な人との出会い、嫌いな人との出会い、

人生にはいろいろありますが、

いずれにせよ、出会った人とは、いずれ別れるときがあります。

大切な人とは、いつまでも一緒にいたいからといっても、

それは通りません。

会者定離の世の中、必ず別れがあります。

嫌いな人ともずっとこのまま続くことはありません。

しばらくの間です。

 

人生の出会いと別れは、ちょうど電車の旅に例えられましょう、

電車で旅する時、ある駅で自分が乗り込んだ車両には

すでに多くの人が乗っています。

一駅一駅着く度にドアが開き、何人かが降り、

何人かが乗ってきます。

駅で乗り降りが繰り返され、

最初に車両に乗っていた人はだいぶ降りていき、

乗客の顔ぶれもずいぶん変わっていきます。

やがて自分の降りる駅に着きます。

自分が降りた後も、今まで乗っていた車両は

たくさんの乗客を乗せて、

わいわいがやがやと去って行きます。

 

さて、この電車の旅は、どう人生を例えているのでしょうか。

私たちが生まれた時が、電車に乗り込んだときです。

その時、すでに人生の車両に乗っていたのが、

両親であり、祖父母、あるいは兄や姉です。

 

入学式、卒業式、入社や転職、引越しなどのたびに

私たちは出会いと別れを繰り返します。

ある駅で生涯の伴侶となる人が乗ってきます。

それから数駅行くと、ある駅で自分の子供が乗ってきます。

「こんにちは、赤ちゃん、私がママよ」という時が、

子供が自分の車両に乗り込んできたときです。

 

どこかで自分の両親も降りていきます。

「わしら、もうこの辺で降りなければならないから。

あとはお前たち、しっかりやってくれ」

このように、いつまでも一緒にいたい人も、

降りる時がきたら、降りていきます。

 

いつかは【自分自身】が降りねばならない駅に着きます。

自分が駅に降りた後も、車両の中に子や孫を乗せて

次の駅にと向かっていくのです。

 

このように、どんなに大好きな人でも、嫌いな人でも

人生という電車の何区間かを共にした、ということであって、

ずーっと一緒に居続けられる人、というのは一人もいないのです。

いつか必ず別れがあります。

このように人生は出会いと別れの連続なのです。

これを「会者定離」といいます。

 

 

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