親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

生きる意味が感じられないままでいいのかと問う森鴎外

 

 

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【出世本懐(1)】

 

以下の文章は明治の文豪、森鴎外の言葉です。

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一体日本人は生きるということを知っているだろうか。

小学校の門を潜〔くぐ〕ってからというものは、

一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。

その先きには生活があると思うのである。

学校というものを離れて職業にあり附くと、

その職業を為〔な〕し遂げてしまおうとする。

その先きには生活があると思うのである。

そしてその先には生活はないのである。

現在は過去と未来との間に劃〔かく〕した一線である。

この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。

ーーーーーーーーー

 


学生時代は「これがオレの本当の人生だ」とは思えません。

やりたくないレポートを出して、一応の単位をそろえて、

まずは卒業しなきゃと目先のことで精一杯です。

今は知識と経験を積む時代と心得、

あるいは遊ぶためのモラトリアム期間だと受け止め、

社会に出てからが本当の人生だと思う人が多いです。

 


ところが社会に出るとどうでしょう。

まずは仕事を覚えるのが精一杯になります。

ミスをしないよう、ノルマを達成できるよう、目先に追われます。

これが本当の人生だと思う人はいません。

仕事を覚え、何かのプロジェクトを任され、

一人前に取り組めるようになれば、そこからが本当の人生だと思います。

 


ところが、それから本当の人生が始まるのかというと、そうでもないのです。

ある程度の地位や役職につくということは、責任を負うということです。

「楽は下にあり」

周りからも厳しく見られる立場であり、組織の派閥にも組み込まれ、

ますます自分の好きなように行動できません。

 


そこである程度の地位や役職についた人は、

社会的責任を果たし終えてから、

好きなことができる本当の人生を歩もう、と思うのです。

 


では、老後が本当の人生なのでしょうか。

65歳になった初老の人が、

大学に入学したての新入生のところにやってきて、

「入学おめでとう。おれにもそんな時期があったんだ。

でもこれだけは知っておいてくれ、

いいか本当の人生はな、老後からなんだよ」

と言われたら、どうです?

なんか、聞いている方が悲しくなってくる。

「じゃあ、65歳になるまであんた何やってたんですか」

と新入生に言われるでしょう。

 


鴎外の締めの言葉は強烈です。

【本当の人生というのはどこにもないのである】

 

 

結論を急ぎましょう。

本当の人生は「今」です。

「今」をしっかりと生きているか。

自問自答していきたいものです。

 

 

 

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カヌー日本代表候補だった鈴木康大選手がいつの日か新生する可能性とは

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【因果の道理(1)】

 


カヌー選手日本代表候補による禁止薬物混入事件が世を騒がせています。

ドーピングで失格になったアスリートは今までもたくさんいましたが、

他の人をドーピングで陥れようとしたのは、前代未聞です。

 


犯人の鈴木康大選手は、小学校低学年からカヌー競技を始め、数々の大会に優勝、

現在32歳で、東京オリンピックの日本代表候補になっていました。

 


今回の事件で、オリンピックはおろか、カヌー界は永久追放でしょうし、

おそらく他の職についても、あれだけテレビに顔が出ていますから、

どこへ行っても、何をしても、周りから「あのカヌー選手の鈴木康大」と言われ続けるでしょう。

なにより応援していた家族や友人に、今後どう接していくつもりなのか、

現在の彼の心境は、想像してあまりあるものがあります。

 


どうしてもオリンピックに出たかったのでしょう。

小学校低学年から30代までずっとカヌーに打ち込んできたのですから。

おそらく友人が恋愛や遊びに興じる中でも、

ストイックに練習を重ね、食事制限など生活全般にわたって、

他の人には想像できないような苦しいことを乗り越えて、

今のオリンピック候補になったのだと思います。

 


それをすべて台無しにしたばかりか、

「前代未聞の卑怯者」というレッテルを、

日本中、世界中から貼られる愚行を犯してしまったことは、

悔やんでも悔やみきれないでしょう。

それでもこれは「己のまいた種」と深く受け止め、

その苦しみを一身に背負っていかねばなりません。

 


しかし今回の事件で一つ、鈴木康大選手が新生する可能性の光を感じたのは、

彼が自分の罪を自ら告白したことです。

自分が陥れたライバルの選手が、ドーピングで失格処分となったのを知り、

良心の呵責に苦しんでの自白でした。

 


陥れてしまったライバルが、どんなつらい練習を重ねてオリンピックを目指してきたか、

自分自身が同じ道を通ってきた彼はよく知っているので、

失格処分になったライバルの苦悩も、他の誰よりも理解できたのでしょう。

自分が罪を白状すれば、ライバルは失格処分を免れ、

再びオリンピックを目指すことができる、

いったい今本当に自分がしなければならないことは何か、

迷いを重ねた上での自白だったのだと思います。

 


罪を告白したら自分がどうなるか、十分想像できたはずですが、

それでも彼は罪を償おうと決断しました。

なかなかできることではありません。

それができたのは、やはり彼が今まで苦しい練習を乗り越え、

鍛練を重ねてきた、その胆力があったればこそだと思いますし、

彼がカヌー競技を愛していた証拠だとも言えます。

 


これから地獄のような日々が待っていると思いますが、

勇気を出して謝罪した、というのも彼の「まいた種」です。

やがてそれが芽吹き、花を咲かせる日があることを念じたいと思います。

 

 

 

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自覚なしに多くの人を傷つけたり、苦しめたりしている人間の実態について

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【罪悪(1)】


水芭蕉で有名な尾瀬でサ-クルの合宿に行ったときのことです。

洗濯の際「市販の洗剤を使わないでください」とペンションの人から言われました。

地域の人が水芭蕉の咲くきれいな湿原を守るために、

自然に害を及ぼす市販の洗剤は使わないようにしているとのことでした。

 


この時感じたことは、私たちは「無知」が原因で、

知らず知らず自然を破壊したり、

周りに迷惑をかけたりしているのだろうなということでした。

 


知り合いがしばし車いす生活になり、

半日くらいサポートしていた時にも同じことを感じました。

ふだんなんとも思っていなかったちょっとした段差にも難儀したり、

市民会館の階段に車いす用のスロープがあったのが有り難かったり、

貴重な経験をしました。

こういった経験をしなかったら、

車いすの人がどれほど難儀しているか、ずっと無知でしたし、

それに無知だったら、町で見かける車いすの人への気遣いはできない

と感じました。

 


最近、高齢者疑似体験の教材が大学の授業などで導入されているそうです。

視覚障害のゴーグルをつけて白内障の理解を深めたり、

ひざサポーターをつけて歩いてみて、

高齢者が駅の階段などでいかに危ないかを体感してみたりするというもので、

その理解が深まれば、お互い支え合えるようになってくるのだと思います。

 


無知が原因で罪を重ねているのは、世界の飢餓問題についてもいえます。

いま、世界では飢餓が原因で1日に4~5万人の人が亡くなっていますが、

そのうち、全体の7割以上が子供たちです。

よく北朝鮮やシリアに先進国が「人道的に許されない」と非難声明を出しますが、

これだけ飢餓で命を落とす子供たちがいる世界の状況も、

人道的にあってはならないこととして、

先進国が率先して話し合わねばならない課題に違いありません。

 


ところがなんと世界の飢餓は、第一の先進国であるアメリカの国民が

ダイエット食品に費やしている金額を全部そこに回せば、

世界の他の地域の飢えた人全員を養うのに必要とされるに十分な金額となり、

一気にこの問題は解決だそうです。

 


日本にいる私たちもアメリカを責められません。

日本では年間1800万トンを食料廃棄していますが、

この食料廃棄率は、アメリカを上回ります。

この日本の食料廃棄は途上国の5000万人分の年間食料に匹敵するそうです。

 


自覚がないだけで、「生きる」ということは

おびただしい罪を重ねていることといえるかもしれません。

一種の鈍感さで、人間は平穏な日常を送っている存在なのでしょう。

 

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夫婦げんかがなくならない意外な原因とは

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【瞋恚(1)】

 


NHKのアンケート調査によると、夫婦ゲンカの原因は、

家事のしかたや、ちょっとした物の置き場所など、

ささいなきっかけが多いとのこと。

ある夫婦が離婚に至ったけんかのきっかけは

「夫の靴下の脱ぎっぱなし」だったそうです。

 


たかが夫の靴下の脱ぎっぱなしくらいで離婚なんて、

と失笑する人もあるかもしれませんが、

それは妻にとっては、ただの“脱ぎっぱなしの靴下”ではないのです。

「今まで何度も言ってきたのに、少しも聞いてくれない」

という何十年も積み重なった失望の象徴であり、

いつも自分の言うことが軽んじられてきたことの証であり、

大事にされてこなかった寂しさと怒りがそこにあるのです。

 


夫にしても、妻のとげとげしい態度、うんざりした口調に、

「その言い方はないだろ」「その態度は何だ」

と腹が立って仕方ありません。

「家庭を支えるため、妻子を守るために、

職場で下げれない頭も下げ、様々なことに耐えているのに、

おまえと子供たちのためと思って働いているのに、

そのオレに対して、いつもいつも、そんな態度しかとれんのか」

との、やるせない憤りがあるのです。

 


夫婦げんかには、その二人にしかわからぬ、

第三者にはうかがい知ることのできぬ、

何十年の歴史があっての今のけんかなので、

「たかが靴下くらいで」ではありません。

 


縁の浅い人なら、我慢でき、受け流すことができたことでも、

縁がとても深い人には、怒りが出てきます。

私たちは縁の浅い人との間には、

大きな喜びを交わすこともなければ、

大きな怒りをぶつけ合うこともありません。

縁の深い人だからこそ、様々な喜怒哀楽が激しく生じるのです。


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怒りの心を穏やかにする智恵が仏教に教えられていますので、

その仏教の教えを動画で解説しました。

今年一年、少しでもイライラする心に振り回されないよう、

参考になればうれしく思います。

http://kikutaniryuta.com/koza/2-1/service15.html

 

自分は精神的に大人になったか、まだガキのままか、わかる方法

 

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【布施(1)】

 


『布施』とは仏教の言葉で「親切」のことです。

昔のインドの言葉では「ダーナ」といい、

漢字を当てて「檀那(ダンナ)」と書くこともあります。

 


「うちのダンナ、休日はごろごろしてばかりで」

と妻から言われる夫ですが、

本来「ダンナ」とは「与える人」のことなのですから、

妻や子供に幸せを与える立場を担う夫に、尊重の意を表した言葉です。

 


それに対し、子供のことを「ガキ」と呼ぶのは、仏教の『餓鬼』からきます。

「ほしい」「ほしい」と目の色変える餓えた鬼のように、

自分のことしか考えていないのが『餓鬼』です。

子供は自分が泣きたい時は泣く、自分が笑いたい時は笑う、

周りがそれをどう思うか、までは考えられません。

自分のことしか考えていないので、子供のことを「ガキ」というのです。

 


「お前はいくつになってもガキだなぁ」とは、

年齢は重ねてはいても、人のことを考えられずに、

自分のことしか頭にない人に名付けられる言葉です。

 


年齢を重ねても「ガキ」な人はいますし、

年は若くても「ダンナ」の精神性を身につけている人もいます。

人を見る時、その人が、自分のことしか考えていない「ガキ」か、

それとも思いやりのある「ダンナ」か、

その人間性を見極めるのはなかなか難しいですが、

自分自身がどちらサイドの人間かを知りたければ、

わかる場面があります。

 


それは自分が失態をさらしてしまった時です。

長い人生には、失態をさらす時が、どんな人にでもあります。

ときにそれは信用を失い、立場を失い、

友人や家族からも背を向けられるほどの大きな事態もあるでしょう。

 


そのとき、自分の心に

「なんとかこの失態をなかったことにできないか」

「誰かのせいにできないか」

「情状酌量してもらえるような言い訳ができないか」

という心が山ほど出てきますが、

それは「自分のことしか考えていないガキ」の発想です。

 


自らの失態で迷惑をかけた人、傷つけてしまった人がいるのですから、

一番大事なのは、その人への心からの謝罪です。

これができるかどうか、です。

 


【責任転嫁、言い訳、ごまかし】か【心からの謝罪か】

葛藤なく判断できる人はなかなかないでしょうが、

それでも勇気をもって決断し、

自らの非を認め、心から謝罪する人は、

本当の「思いやりのある人」です。

 


これは中学生の子供でも、できる人はできます。

できない人は、大の大人でもできません。

できる人とできない人との違いは、

相手のことを考えることができる「ダンナ」か、

自分のことしか考えられない「ガキ」か、の違いです。

 


お金を手入れる方法、評価を受ける方法、異性に好かれる方法などは、

年を重ねれば経験を積んで上達していきますが、

それで「大人になった」とはいえません。

自分自身が精神的に子供のままか、大人になったか、は、

失態をさらした時の態度にあらわれるのです。

 

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「君たちはどう生きるか」のジブリと「君たちはなぜ生きるか」の親鸞聖人

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【人身受け難し(1)】


「君たちはどう生きるか」という小説を年末に読みました。

○引退を撤回して宮崎駿が最後に制作する長編ジブリ映画の原作

○原作がマンガ化され、全国の書店で売り上げ1位を記録したこと

この二つも私が関心を持って読んだ理由に挙げられますが、

それ以上に私を引きつけたのは、この小説の「君たちはどう生きるか」という題名です。

 


「君たちはどう生きるか」という言葉は

親鸞聖人の教えを伝える立場である私にとって、

無関心ではいられません。

なぜなら親鸞聖人の教えを一言であらわせば

「君たちはなぜ生きるか」だからです。

 


「君たちはどう生きるか」という言葉は、ジブリ映画になれば

ますます世間に(世界も含めて)認知される言葉になるでしょう。

そのジブリの「君たちはどう生きるか」と

親鸞聖人の「君たちはなぜ生きるか」。

この両者の違いを鮮明にする好機到来と受け止めています。

 


「君たちはどう生きるか」は昭和10年代に書かれた小説です。

内容は道徳の教科書に出てくるようなテーマであり、

束縛された時代の空気に影響されてか、

お行儀のいい、面白みの欠ける内容だと思いました。

 


が、一方で、誰しも生きていると必ずぶつかる試練に

主人公がどう乗り越えていくか、がリアルに描写され、

我が身自身、身につまされました。

 


多くの大人たちが自己反省を込め、次世代に伝えたい内容だと、

子供たちに読むよう推薦したくなる作品だろうなと思います。

特に小説全編を通じて主人公が試練に対して「どう生きたか」を物語として示した後、

最後の一行で、唐突に「君たちはどう生きるか」と突きつけてくる終わり方は、はっとさせられます。

ぜひ宮崎駿監督には、この最後の一文で読者が受けるインパクトを

そのまま映画でも感じられるような作品にしてもらいたいなと思います。

 


さてその上で問題提起したいのは、

「君たちはどう生きるか」の前に

「君たちはなぜ生きるか」がなければならないのではないか、ということです。

 


この小説は、人生の試練にぶつかった時にどうしたら強く乗り越えられるか、

の生き方を教えたものです。

それはそれで大事なことです。

しかし考えてみてください。

そのように試練を乗り越え、生き続けていく理由は何なのでしょうか。

 


主人公であるコペル君は、クラスの友人を失うかもしれない試練に直面し、

こんな時「どう生きればいいか」大切なことを学びました。

しかし彼には今後も、人生の様々な試練はやってきます。

それはまたしても友人や家族を失うかもしれない試練かもしれませんし、

財産を失う試練や、健康を失う試練かもしれません。

 


それらの試練をなんとか乗り越え、乗り越え、みな生きていくのですが、

時に私たちは、その試練を乗り切れず、大切なものを失ってしまうこともあります。

その孤独、喪失感は耐えられない苦しみです。

その苦しみを耐えてでも、私たちはなぜずっと生き続けるのは、なぜなのでしょうか。

 


どう頑張って苦難を乗り越え、生きたところで、

遅かれ早かれ、最後は死ななければなりません。

必ず死ぬのに、なぜ生きねばならないのでしょうか。

 


「君はどう生きるか」という問いは、

あたかも360度水平線しか見えない大海のど真ん中で、

「君はどう泳ぐか」を問われているようなものです。

どれだけ泳ぎ方を研鑽し、波を乗り越えたところで、

泳ぐ先がどこまでも続く空と海だったら、このままでは土左衛門です。

「君はどう泳ぐか」の前に「君はどこに向かって泳ぐか」と問われねばならないでしょう。

 


同様に生きる目的を知らず、試練を乗り越え、苦しみに耐え、生き続ける人生は、

当然「君はどう生きるか」の前に「君はなぜ生きるか」が問われねばならないのではないでしょうか。

 


「なぜ苦しみを何度も乗り越え、人は生き続けねばならないのか」

「必ず最後は死ぬのに、それまで死なずに生き続けねばならない理由は何か」

この根本の問いに真正面から答えを示されているのが親鸞聖人です。

 

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恋の終わりは心の変化のタイムラグが原因

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【諸行無常(1)】

 


「僕には君が必要なんだ」

「あなたでないと、私はダメみたい」

ドラマに出てきそうなセリフです。

本当に好きな人にこう言われたら、舞い上がってしまうでしょう。

 


しかし世は無常です。

いつまでも相手が自分を好きなままでいてくれるか分かりません。

自分もまた、相手をいつまでも好きなままでおれるか分かりません。

二人を取り巻く環境も変わりますし、

何より二人の心が変わりますから。

 


恋の終わりは二通りのケースがあります

【A】相手が私を好きでなくなった時

【B】私が相手を好きでなくなった時

あなたは今までを振り返って、どちらのケースが多かったですか。

 


【A】相手が私を好きでなくなった時を

「捨てられた」「ふられた」「裏切られた」などと表現され

【B】私が相手を好きでなくなった時を

「冷めた」「あきた」「ときめかなくなった」と言われたりする。
 
いずれにしても、始まりはあんなにもロマンチックだったのに、

終わりは辛く、悲惨なケースが多いものです。

 


お互い「せーのーで」と同時に相手のことが好きでなくなれば

円満に別れられて、そこに苦しみは伴いませんが、

たいていはお互いの心が変わるのに時間差があります。

一方はまだ好きなのに、一方は冷める、という状況になるので、

【A】の状況になれば、別れたくないのに別れねばならない辛さが生じますし、

【B】の状況になれば、別れたいのになかなか別れられない苦悶が起きます。

 


【A】【B】いずれにせよ苦しいことですが、

生きている以上、この苦しみは避けられようもありません。

なぜなら私たちの心は変わり続けるからです。

 


「諸行無常」とは、“すべてのものは例外なく、変化する”ということですが、

中でも人の心はとても変わりやすいのです。

源氏物語でもシェークスピアでも、古今東西の作品には

心が変わって苦しむ人間の姿が常に描かれてきました。

これはどれだけ文明が進歩しても変わりません。

どこの国でも、どの人種でも変わらない、人間の普遍的な苦しみなのです。

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