親鸞に学ぶ幸福論

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万教帰一を売り物にする宗教団体

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【宗教(1)】

 


「どの宗教を信じても結局行き着くところは同じだ」

こんな主張をよく耳にします。

いわゆる「万教帰一」という考えです。

「神も仏もキリストも元は一つだ」

「玄関から入っても、裏の勝手口から入っても、どこから入っても家の中に入れば一緒でしょ?」

「実はね、エホバも大日仏も天照大神も実は一つの大いなる存在であり、その本体は○○なんですよ」

といった調子で、あちこちの宗教団体で使われるフレーズです。

こういう主張をする宗教団体が多いのは、いわゆる耳触りのいい内容であり、

一般大衆に受けが良いからです。

宗教はお互い自分が正しいといがみ合うから嫌だ、心が狭いでないか、

と思っている人は多くあります。

そこへきて「みんな一緒なんだよ、間違いではないよ」といわれると

寛容で、かつ一段高い思想のように感じる人も多く、

その宗教団体のイメージアップにつながるので、

万教帰一をうたい文句に信者集めするのです。

 

私は「どの宗教も結局一緒だ」という人に

「どの宗教も知らないでどうしてそんなことが言えるのですか」

と尋ねたくなります。

どの宗教も知らない無責任発言だからです。

こんなことを言う人は宗教について無知なのです。

 

世界で2大宗教と言われる仏教とキリスト教を

基本的なところを学んでみただけでも

まったく異なっていることがわかります。

ほんの一例だけ挙げますと、

キリスト教では神がこの大宇宙すべてを作ったと教えます。

いわゆる「天地創造説」ですね。

旧約聖書の創世記には、

はじめにエホバという神が、天と地とを創造し、

「光あれ」と言って昼と夜とを作ったのが第1日目とあります。

二日目に空と海。

次の日に陸と植物、次に太陽や月や星、そして魚や鳥を作り、

六日目に動物を作った後、神は自分の姿に似せて人間を作った、

そして七日目に休んだのが日曜日の起源となりました。

 

このような天地創造を仏教は一切否定します。

仏教では大宇宙は「成住壊空(じょうじゅうえくう)」と説き、

変化流転を繰り返し、始まりのない始まりから存在しているのだと教えます。

 

次のような話があります。

お釈迦さま在世中、第六天魔王なるものが大衆に説教していました。

「お前達は俺が作ってやったのだ、俺の言うことを聞けば福を恵んでやるが、俺に背いたことをすれば罰を下してやるぞ」

釈尊はその第六天魔王を呼ばれて

「お前は何というデタラメを言うのだ。お前の作った世の中というものがあるのか。

この世の中は誰の作ったものでもない」

と言われると第六天魔王は

「いや真理はそうでございましょうが、こうでも申しておきませんと、こいつらは何をするか分かりませんからね」

と言ったという話です。

 

これは一例ですが、仏教とキリスト教を知れば知るほどあまりにも違っていることに驚きます。

どの宗教を信じても結局行き着くところは同じだなどというのは

どの宗教も知らぬからだと分かられると思います。

 

 

 

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今から思うと、あの「水飲むな」っていう指導法は何だったんだろう

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【空言たわごと(1)】

 


今の子供たちは部活動でも

「熱中症には気をつけよう」「こまめに水分を取ろう」

と呼びかけられますが、

私の高校時代の部活動は「練習中、水分を取ってはいけない」とのルールがあり、

このために、特にこの夏の時期、大変苦しまされました。

炎天下、「ファイトファイト~」と声を枯らすまで声を出し、

シャツが汗でびっしょりになっても休憩までは水が飲めない、

私も目がチカチカしてふらっと倒れたことが一回ありますが、

どの部員もそんな経験の一度か二度あり、

これは今なら熱中症の症状と言えるのではないかと思います。

 

なぜ水を飲んではいけないかというと、

これも今から思うと何の根拠もない話なのですが、

水を飲むと疲れやすくなるから、という理由でした。

気持ち悪くなったり倒れたりするのは、

根性がないから、体力がないからだと言われました。

自分も倒れる者を見てそう思いましたし、

みなそう思われたり、言われたりするのが嫌で、

水が飲みたいとも、気持ち悪いとも言い出せず、

休憩が来るまでじっと我慢したものです。

今からするとPTAでも問題視されそうな指導法ですが、

当時(1980年代)は私のような部活動経験をされている方は珍しくないと思います。

 

「あれだけ苦しかったことが意味のないやり方だったのか」

と今にして思いますが、腹が立つほどでもありません。

それはもう終わったことですし、

高校の部活動程度のことですし、

ある意味根性を鍛えさせてもらったことが後の人生に役立ったので、

あれはあれで青春の思い出の一つと受け止めています。

でもこれは当時の「水飲むなルール」が今の私にさしたる害を与えていないので

こんなのんきなことがいえることであって、

熱中症で人生に大きな悪影響を与えるような事故に遭った当事者には、

当時の理不尽な指導法に強い怒りを覚えることでしょう。

 

旧日本軍は「上官の命は朕の命」と絶対服従が強いられていました。

どこにでも底意地の悪い人はいるように、

当時もそんな上官もいたようで、そんな上官の下での軍隊生活は悲惨でした。

「体罰」と称したいじめは常態化し、

その暴力で命を落とす者、トイレで自殺する者、逃亡する者もありましたが、

なにしろ「命は羽毛よりも軽しと覚悟せよ」と厳命されていた時代、

不当を訴えるなど誰にもできませんでした。

今のパワハラなんてものではありません。

現代ならブラック企業を訴訟することもできますし、

離職することもできますが、

当時は逃げたら銃殺刑、直訴も銃殺覚悟の行為でした。

 

どこの国でも戦時中はこうした憤りを禁じ得ない出来事があったでしょうし、

今だって世界にはそんな国もあります。

時代が変わると、あるいは国が変わると、

今までよかれと信じられてきたことが悪いこととされ、

悪いことだと言われたことがよいことだと評価されます。

その都度人は振り回され、やがて裏切られ、

「あれだけ一生懸命耐え忍んできたことは何だったんだろう」

と虚無感にかられる存在なのだと思います。

 

今日の常識、よいことと思われている事柄の中にも、

十年後には、

「なんと意味のないことをしてきたのか」

「なんと危険なことが平気でなされていたのか」

と世の人からあきれられることもきっとあるのでしょうね。

 

 

 

 

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あきらめるのが大事と説く仏教

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【諦観(1)】

 

『あきらめる』という言葉があります。

司法試験を目指していた学生が、6度目の不合格通知を前に、

もうすぐ30歳、親にこれ以上心配かけられない、との思いから

「もうあきらめようかな」とつぶやく。

彼女ができず、結婚相談所に登録し、何人もの人と会うも、進展しない、

「これはもう結婚するのあきらめろ、ってことかな」と自嘲する。

そんなときに使う「あきらめる」という言葉は、

ユメを捨てる、目標達成を断念する、という意味で使われ、

ネガティブな意味合いを持ちます。

 


逆にあきらめない姿勢こそポジティブであり、

あきらめない人が強い人であり、道を切り開ける人だと賞賛されます。

スラムダンクの安西先生の名言の、

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のように、

あるいは成功者を追う番組でも

「あきらめない」姿勢が視聴者の感動を誘います。



さてこの「あきらめる」という言葉、実は仏教由来の言葉です。

それどころか仏教の根幹をなすとても大事な教えが「あきらめる」ということなのです。

仏教はあきらめる教えである、といえます。

「あきらめる」という言葉が今日の意味ではネガティブな響きがあるので、

仏教は残念な教えなのかと受け止められる人もありますが、

本来「あきらめる」とは、大変ポジティブで力強く人生を切り開く思考なのです。

 


では仏教本来の意味での「あきらめる」とは、どんな意味なのでしょうか。

「あきらめる」とは漢字で「諦観」と書き、

諦はインドの原語「サットヤ」で、真理、明理ということです。

観はミルということですから、

諦観とは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。

 

この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して

「アキラメル」になりました。

ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、

その表す意味までが変わってしまったのです。

 

本来の「あきらめる」とは

【なぜそんな結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい】

ということです。

先ほどの例でいうなら、

司法試験に合格できないという結果には、

必ずそうなるにいたった原因がある、ということですから、

その原因は何か、ここを徹底的に見つめることを「諦観」というのです。

あきらかに見た結果、勉強の仕方に問題があったとわかれば

そこを変えれば、次回の結果は大きく変わったものとなるでしょう。

これが本来の意味での「あきらめた」人の態度なのです。

 

悪い結果が起きている時に「なぜそうなってしまったのか」

その原因を反省するのは痛みの伴うことですが、

そこから目をそむけずに、八つ当たりせずに、

あきらかにみていこう、というのが「あきらめる」という意味ですから、

大変ポジティブな言葉であり、

人生を切り開く大事なポイントを示す言葉です。

 

 

 

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「勝利が国民を狂気にする」と司馬遼太郎が語る

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【慢(1)】


「勝って兜の緒を締めよ」とは昔から言われることわざですが、

勝つとどうしても出てくるのが慢心で、

これを抑えるのが至難だからこそ、

こういう戒めの言葉が受け継がれているのでしょうね。

 

大日本帝国の衰亡もその原因に慢心を挙げることができます。

日清、日露戦争の経過を学ぶと、

その勝利は薄氷を踏む際どいものであったことがわかります。

日本の細心な計画立案、用意周到な国家間の交渉などもさることながら、

清国、ロシアが自ら墓穴を掘るような失策を重ねたことが大きかったといえます。

日本軍にも数々の失策があったのですが、

勝ったからいいじゃないかと不問とされ、

なぜ勝てたのか、勝利の要因を分析することもなく、

両大国に勝利したことが「神国日本は負けない」と日本は慢心させます。

 

日露戦争後、日本軍は欧米に学ぶことを辞め、

皇軍の決めた範令を丸暗記することが軍幹部教育となります。

軍部は批判を嫌がり、評論そのものを封じ、

日本軍の精神力、技術、戦闘能力の賛美だけが喧伝されます。

批判から改革が起き、指摘から向上が始まるのは世の鉄則ですが、

日本軍は、自らそれを放棄したのです。

 

学校教育の場でも「大日本帝国は不敗の帝国」と教え込まれ、

歴史の授業も、神功皇后の三韓征伐の神話や元寇への大勝利が強調され

日本が惨敗した白村江の戦いは、教科書にその事実さえ載せられなくなります。

 

昭和になると、戦争の勝利が絶対化し、

和議を提案することなど非国民と断罪され、

やがて「一億総玉砕」が勇ましく声高に叫ばれ、

あの日本を焦土と化した太平洋戦争へと突入していくのです。

 

司馬遼太郎は日露戦争から太平洋戦争へと連なる日本の歩みを述べた上で、

「敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にするとすれば、

長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものは、誠に不思議なものである」

と書き遺しています。

 

 

 

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「親鸞には弟子は一人もいない」となぜ親鸞聖人は言われたのか

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【親鸞は弟子一人も持たず(1)】


「親鸞は弟子一人も持たず候」

“親鸞には一人の弟子もない”

この一節は、歎異抄に記された親鸞聖人のお言葉です。

 

八百年後の今日なお多くの人から尊敬される親鸞聖人に、

当時、心より信じていたお弟子がなかったとは考えられません。

事実、数々の史料、文献からも、親鸞聖人に親しく教えを受けてた数多くの門弟の名が記されています。

特に真仏房、性信房、唯円房など「関東の二十四輩」は、幅広い活躍で知られています。

これらのお弟子たちは皆「私の師はこの方において他はない」と、

親鸞聖人に深い尊敬の念を持っていたことでしょう。

ではなぜ親鸞聖人は「一人の弟子もいない」と宣言されたのでしょうか。

 

聖人のこのお言葉は、決して歴史的事実を言われたものではなく、

自らを慕い、集う人たちを、決して自分の弟子だとは思っておられなかったことの告白なのです。

 

どうして聖人は自分の弟子だとは毛頭思えなかったのか、その理由を親鸞聖人はこう仰います。

「親鸞、さらに私なし。弥陀の本願を、我も信じ、人にも、お伝え申すばかりなれば、何を教えてか弟子と申そうぞ」

ここで親鸞聖人が「親鸞、さらに私なし」と仰っているのは、

“親鸞の教えていることに、自分の思いや考えは一切ない”と仰ったお言葉です。

 

では何を伝えておられるのですか、と聖人にお聞きすると

「阿弥陀仏の本願を私も信じ、皆さんにもそのままお伝えしているだけですよ」と仰います。

生涯、阿弥陀仏の本願一つを伝え続けられた方が親鸞聖人でした。

“自分の思いや考えを教えて、人を幸せに導いているのなら、私の弟子ともいえよう。

しかしそんなことは一切ない。

共に阿弥陀仏の本願を聞かせていただいているだけなのだから、私の弟子などといえる人は一人もいないのだよ”

この聖人の強い自覚が「親鸞には一人の弟子もない」の表明だったのです。

 

 

 

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「常識だろ、そんなのは」という説得力のない主張

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【真実(2)】


「Aは正しい」と主張する人に

「なぜそう言えるのか。根拠は?」と返すと

「Aは正しい、とBに書いてあるのが根拠だ」とBを提示してくる。

「なぜそのBという根拠が正しいといえるのか」とまた返すと、

「えっ!これが正しいのは常識だろ!?」と心外そうに言ってくる。

こんなやりとりはよくありますが、

その人が常識と信じているBが正しいとは限らないから、

Aが正しいとは言えないのです。

 

常識とは大多数の人が正しいと信じているものですが、

その時代、その国の常識は、

違う時代、違う国では常識ではなくなります。

 

アインシュタインの相対性理論は、

人がどこにいるかによって時間は伸び縮みするとか、

物体は速度が上がると重くなってくるとか

常識で考えたらわけ分からん理論ですが、

その理論が応用され、原子力や人工衛星のGPSなど、

私たちの生活に活かされています。

 

『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう』

ともアインシュタインは言っていますが、

世の常識は彼のような天才の出現で

ひっくりかえってしまう、あてにならないものなのです。

 

人が何かを主張する時、

それが正しいとする根拠があってそう主張するのですが、

その根拠と呼ぶそれも、さらに「それが正しいと言えるのはなぜか」と根拠を問い続けると、

やがては「常識だから」という土台に行き着きます。

その人間の常識があてにならないから、真実を究明するのは至難なのです。

 

こんな考えさせられる寓話(ぐうわ)があります。

遠い異国での村の話。

その国には海辺の丘の上に砲台がありました。

毎日きっかり正午に号砲が鳴り、

誰もがそれで時間を合わせるのが国民の慣わしになっていました。

 

あるとき、一人の少年が、ふと疑問を抱いて、丘の砲兵に尋ねました。

「号砲を鳴らす時、どうして毎日ちょうど今が正午だとわかるんですか」

砲兵は精巧な懐中時計を胸ポケットから取り出し、誇らしげに少年に見せて言いました。

「国で一番正確な時計を持っているからだよ。その時計の時間がいつもちゃんと合っているように管理することも、オレの仕事なんだ」

「じゃあ、この時計はどうやって合わせるんですか?」と少年がさらに問うと、

「おれは週に一度、必ず国会議事堂の時計塔の前を通る。

そこでこの時計を合わせるんだから間違いないさ」

 

そこで次の日、少年は国会議事堂の時計塔を訪れ、

「時計塔の時間は、どうやって合わせているんですか?」と尋ねました。

役人は「そりゃあ、このあたりの誰もが使ってきた一番確かな方法だよ。正午の号砲で合わせるのさ!」

 

 

 

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損して得取れ。目先に心奪われることなかれ

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【真実(1)】


目先の小さな損得にとらわれると

無自覚のうちに大きな損をしてしまいます。

たとえば何か問題が起こった時、

部下に責任をかぶせる上司があります。

その上司は、自分の評価が下がるという損を回避しようとそういう行動をとるのでしょうが、

実は大損をしているのです。

 

部下をはじめとする職場の人間は、そういった上司の行動に敏感です。

「あんな上司にはなりたくない」

「最低な人だ」

と人間的なマイナス評価をしっかりとしており、その信用低下は大変な損失です。

その上司本人に大損している自覚がないだけです。

つまりその上司は目先の得を考えるあまり、

本人も無自覚のうちに取り返しのつかない大損をしているのです。

 

「損して得取れ」ということわざもあります。

元日本マクドナルド社長の藤田田氏は、

輸入会社を経営していた39歳の時、社内でトラブルが発生し、

船便では契約した取引先のアメリカ企業との納期を守れなくなった時、

大赤字覚悟で飛行機をチャーターし、信用第一主義を貫きました。

この時の断行はアメリカでも話題になり、藤田氏の評価を高め、

後の日本マクドナルド社長就任につながります。

 

「小蛇のとき受けたほんの小さなきずが、大蛇となったときには一尺あまりの大きずになる」といわれます。

目前の札束に目がくらみ、賄賂を受け取った議員が

後に大臣となって発覚、決定的な大きずとなって失脚するケースもあります。

芸能人が無名時代だったときにした悪事が有名になってからマスコミにかき立てられ、

謝罪や引退に追い込まれることもあります。

 

未来ある者は、目の前の損得に動ぜず、

広大の天地を開拓する基礎をかためてゆかねばなりません。

 

 

 

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