親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

会者定離ありとはかねて聞きしかど

f:id:kikuutan:20170725204214j:plain

 

会者定離(2)】

 


会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

      昨日今日とは 思わざりけり』

親鸞聖人のお歌です。

会者定離」とは仏教の言葉で、

「出会った人は必ず別れなければならない」ということ。

誰しも大切な人とはいつまでも一緒にいたいものですが、

この世は無常ですから、必ず別れねばならないときがあります。

嫌いな人なら、別れて清々するでしょうが、

愛する人との別れは、強い苦しみを伴います。

仏教ではその苦しみを「愛別離苦」といいます。

 

海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、

生きているなら、また再会できます。

別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。

散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。

もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、

かなわない、その厳然たる事実が、

さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 

もう10年くらい前の話ですが、

30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、

女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、

「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が

言われていたことが、今も心に残っています。

「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、

家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人は

あの世に持って行ってしまった」

と言われていました。

 

考えたくないですが、死は万人の将来ですから、

大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを、

誰しも覚悟しておかねばなりません。

 

しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは

「昨日今日とは思わざりけり」

まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、

今起きている現実が受け止められず、

「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と

悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

出会いと別れは旅人の一夜の宿

f:id:kikuutan:20140616111939j:plain

 

 

会者定離(1)】

 


「月日は百代の過客にして、往きかう人もまた旅人なり」

(松尾芭蕉

人生はよく旅にたとえられ、人間を旅人にたとえられます。

旅にたとえられるのは、

旅にさまざまな出会いがあり、別れがあるように、

人生は出会いと別れの連続だからです。

 

3年前ですが、小学校3年生の時の担任の先生が

フェイスブックから「菊谷隆太君ですか」と

メッセージを送ってこられて、びっくりしたことがあります。

たった1年間、そんな個人的に話したこともない一生徒を

覚えていてくれたことに感激し、

「教師ってすごいな」と嘆息しました。

私を担当されたとき、その先生はまだ大学出たてでしたが、

今は結婚されて姓も変わり、転職されていました。

いつか直接お会いできたらいいなと思います。

 

こんなパターンは珍しい方かもしれません。

私は子供の頃、2回引っ越したこともあって、

幼なじみとはもう40年近く顔を合わせず、音信もないですが、

ほとんどの人とは、二度と会えないような気がしてます。

 

その後も中学、高校と、打ち解けたり、ぶつかったり、

いろいろな人との思い出もあり、

「あいつ、どうしてるかな」とふと思うこともあっても、

再会できる日がくるかどうか。

また同窓会などで会えればいいのですが、

一生涯、再会できずに終わる人が多いと思います。

あの時はあんなに好きになったり、嫌いになったり、葛藤したり、

陰に陽に私の人生に影響を与えた人たちですが

今となっては、どこで何をしているのやら・・・

 

そう考えると、今、私の近くにいて、

泣いたり、笑ったり、怒ったりしている人たちも

やがては「どうしてるかな」と、

懐かしく思い出す人となっていくのでしょう。

 

江戸時代、街道筋を旅する人が、旅先の宿屋で同宿して、

囲炉裏を囲んで酒や煙草をのみながら、旅の思い出などを語り、

朝が来るとめいめいの方向に歩いて、もう二度と会わない、

そんな一夜の旅の道連れが、人生で出会う人、といえましょう。

 

いずれにせよ会者定離
 
出会いがあれば、必ず別れもあります。

会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

 昨日今日とは 思わざりけり』

35歳で流刑になられる親鸞聖人が、

恩師、法然上人との痛恨の別れを惜しんで詠まれた歌です。

 

大切な人との別れはひょっとしたら今晩かもしれません。

『一期一会』という言葉もあります。

好きな人ともしばらくの間。

嫌いな人ともしばらくの間。

いずれも、かけがいのないご縁と向き合っていきたいものです。

さまざまな原因が重なって事件や事故は起きている

f:id:kikuutan:20170721203845j:plain

 

 

【法鏡(1)】


私は20代の頃、追突事故に遭いました。

後ろから追突されたのですが、一般道で

相手の車がスピードを出ていなかったこともあり、

怪我も後遺症もなく済みました。

 

警察が立ち会い「追突した側の不注意」と判断したので、

賠償責任は10対0という結果でした。

相手の人も私と同じ歳くらいでしたが、

「ぼぉーっと運転してた」と、しきりに平身低頭、

謝ってこられました。

私も「気にしないで下さい」と返したのですが、

その時、実は私も自分に非があることを、少し感じていました。

 

というのは私の前の車が、通り沿いにある店に入る際、

右折するために突然ブレーキをかけたので、

後ろにいた自分もあわててブレーキをかけたからです。

ブレーキ音こそなかったものの、私自身、

ぶつからなくて良かったと焦るほどの急ブレーキでしたから、

すぐ「後ろの車は大丈夫かな」と心配になり、

バックミラーに目をやりました。

案の定、後ろの車は気付くのが遅く、身構えた瞬間、

ガチャンとぶつかってきたのです。

 

事の発端は、私の前の車の急なブレーキなので、

前の車は事故原因の大きな割合を占めていたと

今でも私は思っていますが、

もちろんその車は、警察の立ち会いもなく、

何のおとがめも、損害もなしです。

でもおそらくその運転手も、自分が事故の原因になった自覚は

あったと思います。

 

私も車間距離が近かったので、かなりの急ブレーキでした。

もっと私が車間距離をあけており、余裕を持ってブレーキをかけ、

後ろの車にブレーキランプで早めに知らせられれば、

事故が起きなかった可能性が大きかったので、

私にも原因があったと思っています。

 

しかしあくまでも警察の判断は「追突した人の前方不注意」です。

 

およそ何かの事故、事件、不祥事が起きるときというのは、

このときの追突事故のように、

いくつもの複数の要因が重なって起きるのだと思います。

わかりやすく、明らかに問題だった人が

原因とされ、責任をかぶることが多いですが、

背後には複雑な原因があるのだろうなと感じます。

 

会社で不祥事が起きて、責任取って辞職する社員がいます。

その社員のミスが原因で、会社に損害を出したからですが、

そもそもミスを防げるシステムがなかったとか、

その社員に仕事の負荷がかかり過ぎていたとか、

いろいろな要因が重なり、大きな不祥事を生んだといえます。

 

奥さんが浮気して離婚、多額の慰謝料を払い、

両方の親族からも罵倒され、という場面がありますが、

これも奥さんが原因ではありますが、

奥さんをそうさせてしまった原因まで遡れば、

夫や周りの環境にもあったかもしれません。

 

殺人を犯した人であっても、その人の家庭環境、生い立ち、

現在の境遇など調べると、その人を犯罪に走らせた要因は

多々見えてきます。

 

もちろんミスをした社員、浮気した妻、殺人を犯した人は

その報いを受け、深い反省をしなければなりませんが、

その人の人格だけを問題にして、周り中が責めて終わり、

というのはどうかと思います。

 

ある30代の男性から聞いた話です。

小学生の時、彼はあるウソをついたことで、

多くのクラスメイトに迷惑をかけ、

クラスの友人やその親、さらには自分の親からも

人格を否定されるようなことを言われたそうですが、

担当の先生だけは

「どうしようもない理由があったんではないか」

と全部話を聞いてくれたそうです。

「ちょっと前までは全然ウソつくつもりなかったのに、

うっかり言ってしまうことはあるんだ、わかるよ。

今お前の話聞いたら、そう言ってしまう気持ちも分かる。

でもたとえそんな時でも、ウソは言っちゃいけないんだよ」

と言ってくれたそうです。

 

その担当の先生の言葉に救われたと言っていました。

今でもその先生には、年賀状を送るそうです。

 

殺生に罪の意識を自覚できない現代の文明

f:id:kikuutan:20170719222326j:plain

 

 

 

【殺生罪(3)】


殺生罪についてお話ししたところ、

「人や動物が他の動物を殺して食べるのは自然の摂理であり、

殺生がなければ成り立たないので、悪ではないのでは」

とのご意見がありましたので、それについてお話しいたします。

 

確かに仰るとおり、肉を食べるのは自然の摂理であり、

生きていくにはどうしようもないことですが、

【仕方ない】=【罪悪ではない】ということではありません。

 

動物も私たちと同じように、親子・夫婦が支え合って

一生懸命生きていますし、死にたくないのも人間と一緒です。

首を抑えつけられたニワトリがばたばたもがくのも、

撃たれたシカがよろめきながらもなおも必死に逃げようとするのも、

死にたくないからです。

猟の経験がある方で、最後、とどめを刺すときの獣の怯えた目、

断末魔の叫び声を聞き、罪悪感を感じたという話しをよく聞きます。

もし殺されていく動物たちが人間の言葉がしゃべれたら

「嫌だ、死にたくない、助けてくれ」と懇願するでしょう。

「なんで一方的にこんな目に遭わなければならないのか」

「なんて残酷なんだ」と理不尽さに悔しさをぶつけるでしょう。

今も人権が踏みにじられている国家では、

冤罪で強制労働、死刑になる人があるでしょうが、

動物たちの恨みは、冤罪で殺されていくその恨みと同じです。

 

直接的な殺生の行動を取った経験のある人が少ないので、

罪の意識が「希薄」あるいは「ない」ということでしょう。

私たちは肉といえば、スーパーで見かける、

パックに入った切りそろえた肉しかふだん目にしませんから、

自分が日々殺生罪を犯している自覚はありません。

しかしその一パックの肉片が私たちの手に渡る前に、

私たちの見えないところで目を覆いたくなるような動物への惨劇が

繰り広げられているのです。

その現場を見れば、人間の悪業の深さを感じられることと思います。

屠殺業者が動物たちをあくび半分で殺していくのを見て、

まるでサイコパスでも見るような、

怖い、嫌な気持ちになる人もあると思います。

 

しかしその食肉工場での動物への残酷な仕打ちは、

消費者である私たちがお金を出し、依頼して

なされていることですから、私たちも同罪です。

 

それを直接手にかけて殺す職業の人だけを残酷な悪人だと見下げて、

自分はそんなかわいそうなことはできないと

一段高いところに立っているのは、我が見知らずです。

 

微塵の欺瞞もごまかしも許さぬ仏の鏡に映れる私たちの姿は、

おびただしい殺生をせずしては生きられない、

どうにもならない恐ろしい、悲しい業を背負っている存在です。

そんなどうしようもない極重の悪人だからこそ、

阿弥陀仏の本願によるしか助かる道はないと

教えられたのが、親鸞聖人です。

 

 

菜食主義者は殺生罪を犯していないのか

f:id:kikuutan:20170717192338j:plain

 

 

【殺生罪(2)】


殺生罪について、先日お話ししたところ、

いくつかのご質問がありました。

そのご質問をまとめますと、

以下の2問に収まると思いました。

1.肉を食べない生き方を勧めれば、悪を造らなくていいのか

2.人や動物が他の動物を殺して食べるのは自然の摂理であり、
殺生がなければ成り立たないので、悪ではない。

そこでこのメルマガ上でこの2問にお答えして、

送って下されたメールの回答といたしたく思います。

さらにご質問あれば、またメールください。

 

さて、まず1問目です。

1.肉を食べない生き方を勧めれば、悪を造らなくていいのか、

という意見ですが、事実、そのように思って肉食をせず、

菜食主義を貫き、仏道修行としている僧侶は世界中に多くあります。

というより中華圏、東南アジア圏などのほとんどの地域では、

僧侶たる者が当然果たさねばならない戒律だとされています。

肉を食べる僧は堕落であり、戒律を破った破戒僧であるとし、

仏の救いには遇えず、悪い報いを受ける、と信じています。

 

しかし米や野菜ばかりを食べ、肉食しない人は、

殺生罪を犯していないのかというと、そうではありません。

今日、農薬を散布せずに田畑を耕すところは、多くありません。

農薬をまけば、天文学的な数の虫が死にます。

農薬を使わないならそれはそれで、

野菜を食べようとする虫をいかに退治するか、の飽くなき戦いです。

野菜を食べているということは、

そのために犠牲になったおびただしい殺生があったということです。

 

また道を歩けば虫を踏んでしまいますし、

車を運転すればフロントガラスに虫がぶつかります。

生活するままが日々、殺生の連続ではないでしょうか。

 

幾千万の生命を奪わずしては生きてはいけない私たちの実相

「全ての人の、どうにもならぬ恐ろしい業」と

仏教は説かれています。

 

2問目につきましては、次回、お答えいたします。

 

親鸞聖人のご説法に参集した猟師たち

f:id:kikuutan:20141129180933j:plain

 

 

【殺生罪(1)】


仏教で教えられる「十悪」の一つに「殺生罪」があります。

「生き物を殺す罪」のことです。

殺生は恐ろしい罪であり、これを犯した者は恐ろしい報いを受ける、

仏教では説かれています。

 

仏教が日本に伝来して長らくの間、

「殺生罪」を犯す輩として蔑視されたのが、

獣や鳥を狩る猟師や漁をする漁師たちでした。

彼ら猟師たちは、

「殺生の限りを尽くすお前たちは仏から助けてもらえない」

と僧侶からも、参詣者からも白眼視され、

「どうせ殺生を生業とする自分たちに仏教は縁のない教えだ」

とひがみ、彼らの足が寺に向くことはなかったのです。

 

そんな彼らが仏教を聞き求めるようになったのは、

親鸞聖人という方が現れたからです。

親鸞聖人の教えを聞いた彼らは、仏法の教えに感動し、

聖人の御法話に参集するようになりました。

中にはお弟子となって活躍した人もありました。

 

なぜ仏教の教えに心を閉ざしていた彼らが、

親鸞聖人から聞かせていただきたいと参集したのでしょうか。

それは親鸞聖人が彼ら猟師たちに、

「全人類で、殺生罪を犯していない人は一人もいないのですよ」

と驚くべきことを教えられ、さらに、

殺生罪を造り続ける悪人を救うのが仏の慈悲であることを

明らかにされたからでした。

 

仏教では、一言で「殺生罪」といっても、

殺し方によって三通りに分けられています。

「自殺」「他殺」「随喜同業」の三つです。  

この三つはいずれも恐ろしい殺生罪であり、

罪の重さも同等であると説かれています。

 

最初の「自殺」とは、自分で生き物を殺すことをいいます。

世間でいう、首吊りのような、自ら命を絶つことではありません。
 
食べるために魚や鳥を殺したり、

蜂や蚊に刺されてカッとなって殺したり、

遊びのために釣りや猟で動物を殺すことを「自殺」といいます。

 

次に「他殺」というのは、

他人に依頼して生き物を殺させる罪を言います。

魚屋さんは魚を殺し、肉屋さんは牛や豚を殺しますが、

魚や肉を買って食べる人がいなければ、

それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。

肉の好きな私たちが、肉屋さんに頼んで

牛や豚を殺してもらっているのですから、

肉を買って食べる私たちは、自分で殺さなくても、

「他殺」の罪を犯していることになります。  

 

三番目の「随喜同業」とは、

他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪をいいます。  

ある家で、仕掛けたカゴにネズミがかかった。

さてどう処分すればよいかと奥さんが困っている所へ、

主人が帰ってきた。

「あんた、殺してよ」と奥さんが頼むと、

主人は「よっしゃ」と引き受けてカゴを川へ持っていく。

子供たちはどうやって殺すのか、興味津々で父親についていく。

父親はカゴを川の水に沈めてネズミを殺した。

水中でもがき苦しんで死んでいくネズミを、

子供たちは興味深そうに目をらんらんと輝かせて見ている。  

この場合、実際にネズミを殺したのはその家の主人ですから、

主人は「自殺」の罪を造っています。

頼んだ奥さんは殺すよう依頼したのだから「他殺」の罪です。

見て楽しんだ子供たちは「随喜同業」の罪を造っていますから、

一家そろって殺生罪を犯しています。

 

また、殺されていった魚や牛の肉に舌鼓を打って喜んでいるのも、

仏さまの眼からすると「随喜同業」の殺生罪です。  

 

仏教に説かれている殺生罪を聞かれると、

私たち人間は、おびただしい殺生をせずしては生きられない、

深い業を持っている存在だとおわかりだと思います。

猟師だけではない、すべての人が、殺生せずしては生きられない、

これは私たちの、どうにもならぬ、恐ろしい業なのです。

 

すべての人が、どうにもならぬ悪人だからこそ、

阿弥陀仏は「極重の悪人を必ず救い摂る」と誓われました。

これを「阿弥陀仏の本願」といいます。

親鸞聖人は

阿弥陀仏の本願によらなければ、

親鸞のような悪人が救われることは毛頭なかった」

と深く感謝され、

万人に開かれた仏の救いの道を、生涯かけて教えられたのです。

 

 

心が運命に最も大きな影響を与える

f:id:kikuutan:20170713230049j:plain

 

 

【意業(2)】


幸・不幸の一人一人の運命は、

各人の日々の行い『業(ごう)』によって生じると

徹頭徹尾、明らかにされたのが、仏教を説かれたお釈迦さまです。

釈迦はその行いに三通りあると説かれ、『三業』といいます。

・意業(思うこと)

・口業(しゃべること)

・身業(行動すること)

の三つです。

中でも、私たちの運命に最も重要な影響を及ぼすのは、

「意業」(心で日々何を思っているか)だと説かれています。

それはなぜか。

【思っていることが口や身体に表れる】からです。

すべての元は「心」なのです。

 

仏教では、「心」と「口や身体」との関係を、

「川の上流と下流のような関係だ」

と説かれています。

川の上流が「心」、川下は「口」「身体」です。

川の上流に赤いインク塗料を大量に流せば下流は赤く染まり

青いインク塗料を大量に流せば青く染まります。

上流に赤いインクを流しているのに、下流に青い色を望んでも、

それは無理です。

 

「オレはこの事業に人生を懸けているから」と言いながら、

面倒なことは人にやらせたり、根気が続かず何かと怠けるのは、

その人の本心は、その事業に人生を懸けていないのです。

心が本気でないのは、その人の日常生活に如実に表れるから、

すぐわかります。

本当にそのこと一つに懸けている人は、

誰が見る見ないは関係なく、寝食忘れるような勢いで取り組みます。

 

ビジネスやアートなど各界の成功者に

「自分もあなたと同じようになりたい、どうしたらいいか」と

聞いてくる人はたくさんいるそうですが、

それらの人たちを見て成功者たちがよく言うのは

「本気の人はいませんね」

という言葉です。

「『こうしたらいいよ』『こう言えばいいよ』と

どれだけアドバイスしても、『しない』『しても続けない』

で終わる人ばかりだ」と。

それは成功者が、まだ駆け出しの時に心に秘めていたような、

本気の心がないからです。

上流に青いインクを流していないのですから、

下流が青くならないのは当然なのです。

 

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。