読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

すべての人が最優先して対策を立てなければならないことを教えられたブッダ

f:id:kikuutan:20170527095102j:plain

 

 

【後生の一大事(1)】


「ひょっとしてあのメール、浮気じゃないかな」

「それはお前の杞憂だよ」

と使ったりする「杞憂」とは、

「無用の心配、取り越し苦労」を指す言葉です。

昔の中国、杞の国に、天が崩れ落ちるのではと心配した男が、

夜も眠れず、ご飯も食べられなくなり、

周りが、そんなことは起きないと重ねて諭し、やっと納得した

という故事に由来する言葉です。

 

つい先日もロンドンでテロがあり、

ヨーロッパでは人の集まる処へ出ていくのを自粛する人も多い

と報道されていますが、これは杞憂なのかどうか、

今の時期、ソウルに旅行に行くのは、これは杞憂なのかどうか。

いろいろ意見はありましょうが、

たとえ確率的には起きることであっても、

そのすべてを心配していたら、

一歩も行動できなくなってしまいますので、

確率が高いか低いか、検討した上で、

何に対策を立て、何には対策を立てないか、

選択していくしかない、といえましょう。

 

仏教では、万人が最も優先して対策を立てねばならないのは、

「私は死んだらどうなるか」の問題だと説かれます。

これを「後生の一大事」といいます。

 

各界がさまざまな問題を憂慮し、

多額の時間、労力、金銭を投じて対策を立てています。

ISのテロだったり、北朝鮮のミサイルだったり、

南海トラフだったり、がんだったり、飛行機事故だったり、

あるいは天が落ちるかも知れないということだったり。。

それらの諸問題に共通しているのは何か、と眺めてみると、

ぼおーっと浮かび上がってくるのが「死」です。

全人類の深刻な憂慮の本質に「死」が横たわっていることに

気付くでしょう。

 

しかも「死」は、確率100%。

「死んだらどうなるか」の憂いは、

「杞憂にすぎない」と言える人は誰もいません。

ぼちぼち対策を立てればいいとのんびりできる問題でもありません。

早ければ今晩かもしれないからです。

 

この「後生の一大事」に驚き、その盤石の対策を立て、

心からの安心を獲る教えが仏教です。

 

 

なぜ生きる、を忘れる人間とは

f:id:kikuutan:20170524221126p:plain

 

【出世本懐(1)】

 

親鸞聖人が教えられたことは「なぜ生きる」一つでした。

「なぜ」も「生きる」も小学1年生でも知る日本語ですが、

この二つの単語がくっついて

「なぜ生きる」という一つの文章になると、

とたんに大の大人でも言葉の意味を誤解しますので、

まず「なぜ生きる」とは、どういうことか、

何が問われているのか、から話さなければなりません。

 

「なぜ生きる」の意味を理解するには、

「どう生きる」との違いを浮き彫りにすると、よくわかります。

この両者の違いが鮮明にならないと、

「なぜ生きる」も「どう生きる」も同じことのように思ってしまい、

それが「なぜ生きる」を誤解する元だからです。

 

「生きる」ことは大変です。

現代の日本なら、家賃や家のローン、年金や税金、電気代やガス代、

定期代、ケータイ料金、医療費、各種保険料、などなど、

趣味や娯楽抜きにして、基本的な「生きる」という状態を

確保するだけでも、どれだけおカネが要ることか。

先ず先立つものは「カネ」。

どうしたらおカネが手に入るか、失わずに済むか、皆一生懸命です。

 

大抵の人は、おカネを手に入れるために、

一日の大半を仕事に費やします。

働く際には、心身の健康、才能、資格など要求されるので、

それを手に入れるために、仕事以外の時間も、

勉強や運動など自己研鑽に励みます。

また人間関係でつまづくと働きにくくなりますので、

日常会話や仕事後の交際などにも、神経を使います。

劣等感やプレッシャーや理不尽さには、

常に向き合わねばなりません。

 

それに加えて、思わぬ天災や人災も襲ってきます。

その防災対策や保険も必要です。

家庭を持てば、責任も心配も増えます。

こういうのと向き合うのは嫌だからと逃げていたら、

どんどん苦しくなっていき、生きられなくなってしまいます。

これらの困難をいかに乗り越えるか。

より長く、疲れずに生き続けるには、どうしたらいいか。

これが「どう生きる」ということです。

 

「どう生きる」には、みな一生懸命です。

時には、「そんなにしてまで」と見ている方が辛くなるような中、

生きている人も少なくありません。

ではそのように私たちが、おカネ、健康、人間関係などを

「どうやって」と苦心惨憺しながら手に入れて、生きているのは、

「なぜ」なのでしょうか。

それこそが「なぜ生きる」ということです。

 

「どうしたら病気が治るか」

「どうしたら出世できるか」

「どうしたらもうかるか」

「どうしたら好かれるか」

「どうしたら、どうしたら」と目先の課題として

「どう生きるか」に皆、頭を悩ませ、答えを模索しますが、

そもそもそうやって生きるのは、何のためなのか?

この「なぜ生きる」を忘れてしまっている人が、

実に多いのです。

 

「どう生きる」のみの私たちに

「なぜ生きる」と警鐘乱打された方が、親鸞聖人です。

 

必ず死ぬのになぜ生きる、と警鐘乱打する親鸞聖人

f:id:kikuutan:20080813143145j:plain

 

【難度海(1)】


仏教では、人生を「海」にたとえられます。

私たちは生まれると同時に、

果てしない大海のど真ん中に放り出されたようなものです。

生まれ落ち、オギャーと泣いたその時が、大海に放り出された時。

そこから私たちは、人生の海を泳ぎ始めました。

よちよち歩きしたり、おっぱいねだって泣くのは、

赤ちゃんが一生懸命「生きよう生きよう」としている姿です。

赤ちゃんも人生の波と戦って「泳ごう泳ごう」としているのです。

 

それからやがて幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と

進んでいくのは、どんどん泳いでいく姿です。

生きていくと、いろいろな困難が起きてきます。

人生の困難を波にたとえられています。

試験の波を乗り越え、人間関係の波を乗り越え、

病気の波を乗り越え、今までも、今も、今からも

波と戦って泳ぐのです。

「どうしたら試験合格できるか」

「どうしたらクラスであの人と上手くやっていけるか」

「どうしたら正社員に採用されるか」

それは自分に押し寄せる波の乗り越え方の研鑚です。

 

波の乗り越え方が下手だと潮水飲んで苦しむので、

大波、小波、それらを乗り越えるにはどうしたらいいか、

どんな泳ぎ方がいいか、どう生きたらいいか、みな考え続けます。

 

やがて泳ぎ方が上手になって、

塩水飲まなくてもいいようになってくると、

「大人になった」「一人前になった」と言われます。

 

しかしずっと泳げる人は誰もいません。

若い時は上手に泳げた人も、

老いると病気にもなり、稼げなくなり、人も去り、

上手に泳げなくなっていき、塩水飲むようになってきます。

そしてやがてどんな人も「これ以上泳げない」と

ついに力尽き、土左衛門になる時があります。

俯瞰すれば、人は水平線しか見えない海をただ泳いで、

やがて独りどこかで溺れていく存在といえましょう。

 

「どこへ向かって泳ぐか」「なぜ生きるか」

人生の目的という根本が脱落している悲劇を気付けと、

警鐘乱打された方が親鸞聖人なのです。

 

浦島太郎の謎を仏教の観点から解く

f:id:kikuutan:20170520115125j:plain

 

 

【虚仮(4)】

 


仏教で教えられる「虚仮(こけ)」について回を重ねました。

「自分のことくらい自分が一番よく知ってるさ」と

みな思っていますが、

実は分かっているのは、自分のほんの一部であり、

他人も自分も知らない本性が隠れていると

仏教では説かれています。

仏説通りの自己を知らされた親鸞聖人は

『虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし』

“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”

と懺悔されています。

 

今日はこのテーマの最後に、あの有名な『浦島太郎』を通して

語ってみたいと思います。

漁師の浦島太郎が浜へ行くと、カメが子供たちに虐待されています。

可哀想に思った彼は、子供たちに動物愛護の精神を話しますが、

子供たちは聞き入れません。

そこで彼はカメを買いとり、沖のほうに放してやりました。

いじめられる動物をかわいそうだという人はいますが、

実際に身銭を切ってでも助けようとする人は少ないですから、

彼のしたことは誰にでもできることではありません。

 

後日、浦島太郎が船を浮かべて漁をしているところへ、

助けたカメがあらわれて、竜宮城の乙姫さまを紹介され、

タイやヒラメの踊りを楽しみ、山海の珍味でもてなされ、

思わぬ楽しみを味わうことになります。

十分楽しんだ浦島が帰宅しようとした際に

乙姫さまは玉手箱をお土産に渡します。

浦島太郎が故郷に戻ってみると、長い年月が経っていました。

何かさびしくなった浦島太郎は

絶対に開けてはなりません、と乙姫さまから言われていたのに、

玉手箱を開きます。

一瞬にして浦島太郎は、白髪の老翁になってしまいました。

 

さて、これがおなじみの浦島太郎のあらすじですが、

皆さんの中にもこのおとぎ話を聞いて

何か釈然とせぬ気持ちになられた方も多いのではないでしょうか。

その釈然としないところは

『なぜ良いことをした浦島太郎があんな目にあったのか』

というところです。

ふつうの日本昔話なら、正直爺さんは宝をもらい、

意地悪ばあさんはひどい目に遭う、勧善懲悪のストーリーです。

この日本昔話の黄金の方程式は

実は日本人の思想の根底にある仏教思想からきます。

このメルマガ、日記でも何度も紹介した

善因善果(良い行いをすれば幸せになれる)

悪因悪果(悪い行いは不幸を引き起こす)

自因自果(自分のまいたものは自分が刈り取らねばならない)

の因果の道理です。

 

では、なぜこの浦島太郎だけは、

この黄金の方程式から逸脱しているのでしょうか。

実は絵本に書かれているおなじみの浦島太郎の姿に

そのヒントがあります。

 

浦島太郎は漁師の格好をしています。

彼の肩にかつがれているのは魚釣竿です。

この釣竿は今からも多くの魚の生命をうばう道具で、

浦島太郎が本当に動物愛護の善人ならば、

まずその竿を折らねばならないことになります。

 

一方で何千何万の魚を殺しながら、

たまたま一つのカメの生命を助けたからといって、

いかにも慈悲深い善人にみせかけるのは、

あまりにも見え透いた偽善といえます。

 

悪しか造っていない私たちが、善いことをしていると自惚れて、

自惚れて過ぎ去る一生の早さを教えたものが、

この浦島太郎の物語なのです。

悪を造り続け、その自覚も無しに、

パッと白煙が立ち登る一瞬の人生に驚いた時は、

すでに人生の終着駅についているのです。

 

このように知らされると、子供のオトギ話と思っていたことも、

実は、真実の私の姿を教え、早く、本当の幸福を獲なさいよ、

と教えられる仏教そのものになるのです。

 

人生初デートでの赤裸々な心の告白

f:id:kikuutan:20170517210458j:plain

 

【虚仮(3)】

 


以下は仏教講座に来た大学生の青年が語ってくれたことですが、

その話が赤裸々だったのと、

よく心を見つめているなあと感心したので、心に残っています。

 

彼女いない歴=自分の年齢だった当時の彼が、人生初デートで、

彼女とご飯を食べた時、美味しそうに笑顔で食べる彼女に

「この笑顔をずっと守っていきたい」

と幸せな気分になったそうです。

同時に、今まで自分のことしか考えてこなかった冷たい自分にも、

他人を守りたいという、こんなあったかい心もあったんだ、

とうれしくなり、そういう心を教えてくれた彼女に、

感謝一杯になったそうです。

 

それからいろいろあって次第にうまくいかなくなり、

別れたそうなのですが、しばらくしてその彼女は、

別の男性と付き合い始めたそうです。

そしてある日、二人が楽しそうに笑顔で歩いている姿を

町で目撃してしまい、腹が立ってしようがなかった

と言っていました。

「何を楽しそうにしてんだ!なんでそんな笑顔になれるんだ!」

と彼女の笑顔に無性に腹が立ったそうです。

 

以前付き合っていた時は、

「笑顔でいる彼女を守りたい、不幸にさせたくない」

という温かい心が自分にあった、と思っていたのが、

今では笑顔で幸せそうにしている姿が腹立たしい、

としたらそれはなんとしたことか。。。

笑顔を守りたいという、純粋な温かい心があるなら

誰と付き合っていても彼女が笑顔なら微笑んでおれるはず。

ところが自分以外の誰かとのデートの時は

一転笑顔でいると怒りが出てくる、

むしろつまらなそうにしていてほしかった、

不満顔でいてほしかった、と思うのですから

本当にあの時思ったのは、

彼女の幸せを守りたいという温かい心だったのか?

結局自分とデートしている状態の、彼女の笑顔を守りたい、

ということではなかったか?

そんな心に気付いたそうです。

 

私にもこんなことがありました。

中学時代、塾の行き帰りに、自転車で

当時好きだった人の家の前を通っていたのですが、

特に帰りの夜道でよく空想していたことがありました。

「彼女が誰かにからまれていないかなぁ、

そうしたら、たとえボコボコにされてもいいから、

彼女を助けに飛び込んでいくんだがなあ」と

ふと漫画なんかにありがちのシーンを想像していたのです。

今にして思えば、本当に彼女を守りたい心があるなら、

からまれているシチュエーションをひそかに空想すること自体、

彼女に失礼な話しです。

どんな心でそんな想像をしていたのか、赤面するばかりです。

 

正義を語る政治家や精力的な人権運動家の主張は立派で、

説いている理屈は正論で、その活動にも意義があり、

その意見にも耳を傾ける価値がある、としても、

その人にそれを言わしめている動機の本当に深いところには、

おそらくなりふり構わぬ嫉妬心や競争心、

あるいは非常に個人的な劣等感など、

さまざまな何かがあるのでしょう。

それが全てとは言いませんが、

その人を動かしているエンジンの一つであり、

それはおそらく本人さえも自覚していないものであったりします。

 

私たちは自分の心なのに、よく分かっていないものが

たくさんあり、実は分かっている自分の心の方が

氷山の一角だと、仏教では説かれます。

私たちの心の中の温かい心や正義を守りたいという心も、

その実態を深く見つめていくと、

そこには誰にも言えないような心が見え隠れするのに

気づくのではないでしょうか。

親鸞聖人は、仏教を聞き、法の鏡に照らされたご自身の姿を

『虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし』

“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”

と悲痛な告白されています。

 

あなたは肉を食べないのか、という質問に答えます

f:id:kikuutan:20170515204657j:plain

 

 

【虚仮(2)】


先日、牛の畜産を通して話しをしましたが、

我ながら、ちょっと乱暴な書き方だな、

何を言わんとしているか、もっと鮮明にした方がいいかなと

思いつつも、配信してしまいました。

 

すると何人かの方より、やはりご意見、ご質問をいただきました。

「人間が生きていく上で、

何かを食べなくて生きていけるのですか?

どうして、牛を食べることがいけないのですか?

あなたは、何も食べないのですか?」

といった内容でした。

 

私が、畜産業の職業や肉食をする人を批判し、

オレはそんな悪いことをする人間ではない、と

一段高いところから物を言ったように思われたとしたら、

言葉足らずであったことを申し訳なく思います。

 

私は親鸞聖人の教えを伝える浄土真宗の講師です。

肉食妻帯された親鸞聖人を尊敬し、

猟師に「猟漁りをせよ」と親しく語られる蓮如上人を

敬慕する者の一人です。

私自身、肉食妻帯をしていますから、批判できるはずありませんし、

決して畜産業の人を糾弾するつもりで書いたのではありません。

テーマとした「今日の仏語」が「虚仮(こけ)」であり、

メルマガの文末にあった

「人間の情や慈悲心は清らかに見えますが、

心の底には、恐ろしい欲や怒りの心が見え隠れしています。

ただ普段それに気付かないで過ごしているだけです」

と書いたことがお話ししたかった内容です。

「虚仮」とは「うそ偽り」ということで、

歎異抄には

「万のこと皆もって、そらごと・たわごと・まことあることなし」

とそれを説かれます。

 

先日の牛の話しに続き、「虚仮」の一例を示します。

もう二十年前くらいでしょうか、

矢ガモ騒動を覚えておられる方も多いと思います。

矢が刺さったままのカモがいるとマスコミに報じられ

その痛々しい姿がお茶の間の同情を誘ったこともありました。

公園の周辺には「矢ガモ」を一目見ようと

連日300人程が押し寄せました。

住民からの、「助けてあげて」と言う声は日に日に高まり、

都の職員が救助したという騒動です。

一連の騒動をテレビで見て「矢ガモかわいそう」とか、

「矢ガモ本当に良かったね」と言いながら、

鴨鍋や焼き鳥を食べたりしているのですから、

こんな人間の動物愛護の騒動も

「虚仮」「そらごと」の一ページといえましょう。

 

親鸞聖人はこんな「そらごと」「たわごと」をご自身に見られて

「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」

“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”

と懺悔されています。

 

優しい気持ちの中にも、恐ろしい心が混じっている

f:id:kikuutan:20170512203228j:plain

 

 

【虚仮(1)】


和牛の高級ブランド「松坂牛」は、美味しい霜降り肉にするために、

畜産農家が牛にビールを飲ませるのは、よく知られています。

他の生産地でも、美味しい牛肉にするために、

有機で健康的な飼料にしたり、ブラシをかけたり、

牛がストレスを感じない環境で育てたりと、

お金と手間をかけることを惜しみません。

 

牛に名前をつけ、我が子のように呼びかけては

顔を撫でたりする農家の人の姿を見ると、

一見、牛をかわいがる動物愛護者に見えますが、

やがてその牛は屠殺業者に買われ、

その時、肉に少しでも高い値がつくようにするための

ビールであり、ブラシであり、飼料ですから、

牛がかわいいから、ではなく、

自分の財布がかわいいからではないのか、

と言われても仕方ないでしょう。

 

宮崎県の狂牛病騒動の際、狂牛病の疑いありということで、

行政により、何千頭の牛が殺処分されたことがありました。

牛を飼育している畜産農家の男性が

「あんまりだよ、別に狂牛病になったわけでもない、

ただ疑いがあるというだけで殺すなんて、牛がかわいそうだよ」

と目を赤くして、声を震わせていた場面を

テレビで見たことがあります。

そのご本人の様子からも演技ではなく、

本当に牛をかわいそうに思っているのはわかりますが、

その涙も、純粋に牛がかわいそうなだけで流したとは思えません。

なぜならその牛はたとえ狂牛病の嫌疑がなくても、

早晩、屠殺され、食肉となっていたのですから。

その涙には、自分の財布がかわいそうで流したものが

多分に含まれているのも、これまた否めないでしょう。

 

このように人間の情や慈悲心は清らかに見えますが、

心の底には、恐ろしい欲や怒りの心が見え隠れしています。

ただ普段それに気付かないで過ごしているだけです。

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。