親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

歴史を学べ。どこへ行っても、何をするときでも。

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【出世本懐(1)】


「ビジネスマンは『社史』を学べ」といわれます。

なぜ自分の会社について学ぶことが大事なのでしょうか。

 


今度の会議をいかに乗り切るか、とか、

同期で誰が最初に課長になるか、とか、

とかく目先のことにムキになってしまうのが私たちですが、

「社史」を学び、数十年前に働いていた人たちについて知ると、

創業の苦労に感謝の気持ちを抱きますし、

自分を取り巻く視点が、より大所、高所からのものになり

自分の役割の重要性をも、認識することになります。

「社史」には、仕事に前向きになれるのはもちろん、

仕事で成功するためのヒントもたくさん詰まっているのです。

 


私は仏教講師として、20代の頃、

島根県で親鸞聖人の教えを伝えていた時期があります。

島根県は江戸時代、出雲藩と石見藩に分かれており、

旧石見藩の地域は浄土真宗が多く、

旧出雲藩だった地域は浄土真宗は多くありません。

また山間の村でも、とても浄土真宗が熱心な村もあれば、

そうでないところもあり、なんでだろうと興味がわき、

図書館で郷土の浄土真宗の歴史を調べたことがあります。

興味深い史実が多々ありました。

安芸藩からきた布教使が川沿いに伝え、

禅宗の村が真宗の村になったとか、

滋賀県の商人が立ち寄った宿のある漁港で、

親鸞聖人の教えを伝えたので寺が建った、など書かれてありました。

 


それを読みながら、現代、私が島根で仏教を伝えるのも、

この地で親鸞聖人の教えを伝えた先輩諸氏の連綿たる流れの中で、

新たな一ページを加えることになるのだと

意気に燃えたのを思い出します。

 


会社の歴史、真宗の歴史、郷土の歴史、家族の歴史、

学ぶべき歴史は人によっていろいろ違いましょうが、

歴史を学ぶのは、大きな時代のうねりの中で、

自分はなぜここに、このように居るのか、

そして今何をすべきか、

己の使命を自覚する視点の一つとなりえましょう。

 

お金を得ようとして、もっと大事なものを失っている人たち

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【財欲(1)】


 
ある男が、少しでもガソリン代を節約したいと思い、

「あそこのガソリンスタンドは安いぞ」と聞きつけた。

それからというもの、遠くにある、ちょっと安いガソリンスタンドを

利用するようになり、その移動距離のため、

余計ガソリン代が多くかかってしまった。

少しでも得したいと思ったところが、結果的に損をしている一例です。

 


またある男が、電化製品を購入するのに、近くの電気屋よりも

ネットショッピングの方が安いと聞きつけた。

ネットで相場より1000円安く購入したが、

調べるために費やした時間は4時間だった。

これも1000円のために4時間使ったのですから、

少しでも得したいと思った結果、損をしている例です。

 


またある男が儲けようと株を始めた。

それからというもの、パソコンの前で株価のグラフばかり見るようになり、

一日の大半の時間がパソコンでの時間に使われ、

「今日は一日いくら儲かった」「今日はこれだけ損した」

と一喜一憂するようになった。

何年後かに株運用の損得を計算してみると、

かけてきた労力のわりにはほとんど儲かっていないことが分かった。

これもまた然り。

 


ちょっとでも得したいと「財欲」に引っ張られ、

お金よりも貴重な「時間」という財産を浪費している人は

ことのほか、多いと思われます。

こんな話を思い出します。

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"カネこそ我が命"と、若い頃よりカネを貯めることを

人生の目的としていた男があった。

銀行に預けると、愛するカネの顔が見れないので

専らタンス預金に徹した。

辛い一日の労働から帰宅して、他人に発見されぬ二階に上って

一万円札を部屋中に敷き占め、眺めるのが唯一の生き甲斐だった。

 


男の貯蓄は次第に増加していく。

今日も階段の下り口まで来ていることにも気が付かず、

一心不乱に札を並べている内に、階段から真逆さまに転落。

男は首の骨を折って即死した。

手には残ったお札が、固く握られていたという。

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ウソのようなホントの、北陸にあった話です。

 


どこまで稼いでも安心できず、満足もできず、

もっと増やすにはどうしたらいいか、

すべてのエネルギーをそこに注ぎ込んで、自己の本分を見失う。

そしてある日、突然何かの病気か事故で

貯めに貯めた金は全部置いて、裸でこの世を去っていく。

これが人間の実態です。

そのことを重々知りながら、人にまで話しをしていながら

なおもお金に執着する心しかない、浅ましい自己の姿を知らされた親鸞聖人は

「利益を求める心が大きな山のようにあり、惑い苦しむ親鸞だ

 恥ずかしきことか、悲しいことだ」

と懺悔告白されています。

なぜあの人のことが気になってしまうのか、それには理由がある

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【縁(1)】


仏教に「縁」という言葉があります。

今日の言葉でいえば「絆(きずな)」といってもいいでしょう。

私にも、あなたにも、人にはそれぞれ、

縁の深い人と縁の浅い人がいます。

同じ職場で働いている人の中にも、

縁の深い人と縁の浅い人があります。

縁の深い人とは、同じ部署になったり、

飲みに行ったり、家族ぐるみの付き合いになったりと

発展していきますが、

縁の浅い人とは、挨拶くらいで、

何年経っても顔と名前くらいで、よく分からないものです。

 


こういう話しをしたとき、ある女性が弾んだ声で

「じゃあ今おつきあいしている彼は、私にとって縁が深い人なんですね!」

と尋ねてきたことがありますが、「その通りです」と答えました。

それは間違いないことだからです。

 


しかし愛している人だけが縁の深い人ではありません。

嫌いで憎んでいる人、喧嘩する人も縁の深い人です。

喧嘩は相手と心がぶつかり、お互いを意識している状態ですから、

喧嘩する人も間違いなく、深い縁のある人です。

殴り合い、とっくみあいの喧嘩も、東京と大阪ではできません。

同じご近所だったり、同じ職場だったり、同じ屋根の下だから、

あることなのです。

たまたまテレビで見かけたアフリカの人に

「ちくしょう!」と憎くて仕方ないということはないでしょう。

「死んでくれ」「ひどい目にあったらいい」

と憎くなってくるのは、よく知っている近くの人です。

愛したり、憎んだりするのは、縁の深い人なのです。

 


「縁のある人」は、過去世、幾億兆の生死を(前世)から

接点があった懐かしい人だと仏教では説かれます。

たまたまその人と接点があったのではなく、

深い縁が永い過去世にあったのです。

 


この仏教の教えをことわざで

「袖触れ合うも多生の縁」といわれます。

電車やバスで袖が触れ合っただけの、

そんな些細(ささい)な関係にも、

生まれ変わり、死に変わりを重ねてきた「多生」の間に

幾たびも出会って来た仲なんですよ。

今生はじめてのご縁ではないのだよ、という意味です。

袖触れ合うだけでも、それだけのご縁があったのですから、

好きになる、好かれることになる、

憎くなる、憎まれる、というのは、

どんな深い深いご縁のある人なのでしょう。

 


親鸞聖人は「信順を因と為し、疑謗を縁と為し」と言われています。

「信順」とは、「信じ順う」こと、

私たちが信じ順えるのは、好きな人です。

「疑謗」とは、「疑い謗る」こと、

私たちが疑い謗るのは、嫌いな人、喧嘩している人です。

「好きな人も、嫌いな人も、仲良しの人も、喧嘩している人も、

いずれも因縁のある人ですよ、早く弥陀の救いにあってほしい」

と合掌される親鸞聖人の教行信証の末尾の一節です。

神と仏の違いについて徹底解説した動画をプレゼント

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【宗教(1)】

 


世界の三大幸福論で有名な哲学者、B・ラッセルは

敬虔なキリスト教徒の家に生まれ、育ちましたが

やがて信仰を捨てるに至ります。

彼のキリスト教批判は辛らつですが、

中でもキリスト教の神の存在について

いくつも理性的に論じています。

そのいくつかを以前、このメルマガでも紹介したことがあります。

 


ラッセルは聖書に散見するイエス・キリストの言動にも

言及しています。

「自分の説教に耳を傾けようとしない人々に対して、

繰り返し復讐的な怒りをぶちまけている。

それは人間以外の植物や動物に対してもぶちまけられている。

例えばイエスがあるとき空腹になって、

遠くから青々と繁った木を見つけて近づくと、

食べうる果実が全くないイチジクだった。

それはまだ結実の時期ではないときだったのに、

苛立ったイエスはその木を呪った、とか、

ガラデナの地で多数いた豚の群れにイエスがある不快を感じ、

その群れに悪魔たちを放ったので、豚は山を駆け下り、

ことごとく海におぼれ死んでしまった、と聖書に書かれている」

 


このような痛烈なキリスト教批判は、当然ながら

アメリカで大変な反感を買い、教授の地位を追われ、

解雇されています。

終生、反骨の人生を送った人でした。

 


ps 仏教講師の私がよく受ける質問の一つに

「神と仏の違いは何ですか」というのがあります。

そのことについて述べた

プレゼントとして『神と仏の違いについて』をテーマに

ホワイトボードによる講座を10回分用意いたしました。

こちらからごらんいただくことができます。

http://kikutaniryuta.com/koza/2-1/service18.html

携帯電話のマナー違反の中でもこれは特に嫌がられる

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【瞋恚(2)】

 


私が30代の頃、ある会社に苦情の電話を入れたときのことです。

のらりくらりと言い訳ばかりの不誠実な対応に

いささかカチンときてしまい、

つい電話口の語気が荒くなってしまいました。

電話を切って、自分の机に戻る時、

周りの固い雰囲気に「しまった」と思わずひやりとしました。

 


フロアの隅っこでの電話のやりとりが、同じフロアで

仕事していた後輩数人の耳にも聞こえてしまったようだったのです。

緊張した部屋の空気和らげようとしてか、気の利いた後輩が

「ひどい対応だったんでしょうか」と言ってくれ、

周りも「ひどいですねえ、それは」と会話が生じ、

その場は和みましたが、後輩に気を使わせてしまいました。

言わないだけで彼らもきっと

嫌な感じを持ったのではないかと反省しました。

 


電話だと、つい会話している相手に集中してしまい、

周りが見えなくなるので、こういった失敗をしがちです。

よくよく気をつけねばなりません。

 


よく公共の場で電話するのはマナー違反とされます。

近くで人が会話している声が聞こえても気になりませんが、

誰かの電話している声は、なぜかうるさく感じるものです。

一方の声が聞こえず、電話している人だけの笑い声や相づちを聞くのは、

ちょうど途切れ途切れの音楽を聞かされているようで、

耳障りであり、ストレスを感じます。

ましてや、電話している人が怒っている場合、

かなりの不快感でしょう。

 


怒りは、自分にとって得することは一つもありません。

また自分だけでなく、相手にとっても

嫌な気持ちにさせるだけですから、「自損損他」です。

「自損損他」とは、自らを損させ、相手も損させる、ことです。

 


怒っている人が近くにいるだけで、

たとえその怒りが自分に向けられたものではなくても、

嫌な気持ちになります。

怒っている人の表情、声、態度は不快ですし、

その人に対して腫れ物を触るような対応になり、

肩が凝ります。

何かといつも怒るパートナーと一緒に生活する人や、

いつも不機嫌な夫婦の下に育つ子供は、

強いストレスを感じ、

いつしか自分もイライラしてしまいます。

 


こんな話があります。

あるサラリーマンが会社でミスを指摘され、イライラして帰宅した。

妻に細かいことで八つ当たりする。

ムシャクシャした妻は、子供に小さなことで怒鳴る。

おもしろくない子供は、ネコに怒りをぶつける。

ネコはうっぷん晴らしに天井でネズミを追いかける

天井裏のネコとネズミの追いかけっこで夫は夜眠れず、

翌日、また会社で集中力を欠き、ミスをする。

一人の怒りが波及して、周り中を不幸にし、

ますます自分を苦しめる一例です。

 


私たちを最も苦しませる三大煩悩の一つに「怒りの心」を

お釈迦さまが挙げておられるのもよくわかります。

自戒したいと思います。

 

誰にでもある「自暴自棄」「自棄(やけ)」になる心

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【人身受け難し(2)】


「自棄(やけ)を起こす」という言葉があります。

本来「やけ」とは「あとは野となれ山となれ」で焼き尽くすという意味で

「焼け」だったようですが、

「自暴自棄」の「自棄」を「やけ」と読むようになりました。

 


やけ酒、やけ食いなどはみな経験あると思います。

やけ買い、やけギャンブルなどもよく聞きます。

「努力が報われない」

「どうせ自分なんか何をやってもダメ」

「もうどうなってもいいや」

と投げ出してしまい、自分を傷つけ、

時にそれが自分の人生を台無しにすることもあるのが

「自暴自棄」「自棄(やけ)」という状態です。

 


ラスベガスで群集に銃を乱射した事件の犯人の動機は何だったか、

自殺してしまったので真相は分かりませんが、

地元の捜査当局の話によると、

莫大な財産を失ったことで人生に悲観し、

犯行を決意した可能性がある、とのことでした。

将来は暗く、もう人生どうでもいいという虚無感と、

自分をそうさせた世の中への鬱屈した思いが

あのような暴挙となったのかもしれません。

 


北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で、インテリ風の若い女性が

「いっそのこと早くアメリカと戦いたい、と思います」

と勇ましく発言しているのをテレビで見たときも、

真意を尋ねてみたくなってしまいました。

本気で勝てると思ってそう言っているのか、

国体を賛美するしかないから口先だけでそう言うのか、

あるいは

「早くこの国の秩序を破壊して、このどこまでも続く閉塞感、

不安をなんとかしてくれ、負けてこの国がどうなっても今よりまし」

という思いなのかもしれないなと感じました。

 


大地震でもいい、ミサイルでもいい、戦争でもいいから

うんざりするこの人生を一変させてくれ、という

ひそかな願望は人々の心にうごめいています。

学生時代は、学校が地震でつぶれてくれんかな、

とひそかに思った人もあったと思いますが、

これが大人になると、

学校が倒壊したくらいでは人生は変わらないとわかってきて、

ならば大地震か、ミサイルか、戦争か、

それも期待できないようなら、

いっそこちらから自殺するか、

それとも周りを道連れに銃乱射でもするか、と

まさに「自暴自棄」になるのでしょう。

 


このたびの座間市の殺人事件を機に

「自殺仲間」「自殺募集」「自殺オフ」などのワードが

マスコミを賑わせています。

「自殺したい」とネットでつぶやく人は、

決して自殺が好きなのではない、

ただ生きるのが苦しくて嫌で仕方ない、のです。

「死にたいほど苦しんでいます」というSOSのメッセージであり、

「死にたい自分をどうにかしてほしい」という悲鳴でもあります。

 


がんばってても、耐え続けていても、

苦しいことが次から次へと果てしなくやってくる人生、

自暴自棄になってしまって当然です。

「そんな人生、なぜ生きるのか」

「なぜ生きねばならないのか」

誰しもの心の中に確実にこの問いがあります。

カミュは

「人間には生きる意味を知りたいという激しい欲求が心の底に激しく鳴り響いている」

とそれを言いました。

これに答えうるメッセージを人類は希求しているのです。

 

座間の白石容疑者に惹かれた自殺願望の女性たち

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【人身受け難し(1)】


座間の9遺体事件が日本中を震撼させています。

白石容疑者は、自殺願望の若い女性に

「一緒に死のう」と心中を持ちかけ、自宅に連れ込み、

殺害したことがわかってきました。

動機については「金銭や乱暴目的であった」と話しているといいます。

 


今回の事件で、世間に周知された事実は

多くの若者が自殺願望をネット上で訴えていること、

そして彼らが「心中しよう」「殺してあげますよ」の呼びかけに

強烈に惹かれていったということです。

 


テレビの報道に

「まだ若くてこれからの人が、どうして自殺したいのか」

と首をかしげる人もいたでしょうし、

世の識者は、若者が死に急ぐ社会そのものを問題視する評論をしています。

中には、なんとか自殺を止めたい気持ちから、

「死にたいなんてバカなことを考えずに、前向きな気持ちを持って」

「そう思うのは今だけだよ、きっと乗り越えられるよ」

と慰めたり、励ましたりする人もあったかもしれませんが、

それらの声は、自殺願望の若者の心に届くものではありませんでした。

彼らには「生きろ」という言葉が

「もっと苦しみ続けろ」と言われているようにしか思えず、

心を閉ざしていったのでしょう。

 


そんな中にあって、彼らが共感した声が

「あなたの死にたい気持ちはよく分かる、僕も死にたい、一緒に死のう」

という白石容疑者の誘い文句でした。

自分の苦しみをただ一人分かってくれている声だ

と感じた人もあったでしょう。

 


今回の事件で思い出した話があります。

以前、がんにかかった男性の話です。

その男性が新薬による治療を受けるよう医師から勧められた際、

新薬治療は高価かと尋ねたところ、その医師が

「こんないい薬なのに、お金のことなど言っててどうするのか」

と答えたことに不信を持ち、医師に心を閉ざしたそうです。

 


命がかかっているのに、お金のことなんか問題ではないと

医師は思ったのでしょうが、男性からしたら、

高額治療は家族に経済的な負担を強いることになるのだし、

周りにそんな辛い思いをさせてまで、生きねばならないのか、

と思ったのでしょう。

その患者の気持ちに対して、あまりに医師は無神経だった

ということだと思います。

 


自殺したい人も同じで、「自殺するな」という声が

彼らには、先ほどの無神経な医者のように

「命は尊いのに、苦しいから死ぬなんて言っててどうするのか」

と聞こえてしまうのではないかと思うのです。

自殺したい本人は

「命は尊いと思えないほど生きるのが苦しい」のに、

「命は尊いから苦しみに我慢して生き続けろ」では、

「分かってくれない人たち」と思うだけでしょう。

 


「分かってくれない人たち」ばかりの中にあって、

「分かってくれた」白石容疑者の誘い文句に

自殺願望者が強烈に惹かれていったのは、分かる気がします。

だからこそ、そんな人たちの心を

自己の欲望を満たすことに利用していった容疑者に

強い不快感と憤りを禁じ得ません。

 

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