親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

人は呼吸するために生きているのではない、では何のために。

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【出世本懐(4)】


■「なぜ生きるの?」

「生きるためだよ」

「生きるために生きてるの?」

「そうだよ。文句あるか」

こんな掛け合いを何度か経験しましたが

文句大有りです。

 

■「何のために勉強しているんですか」

と聞かれて、

「希望の大学に合格するためです」

という答えなら理解できますが、

「勉強するために勉強しています」

では、ナンセンス、意味不明です。

 

■「なぜダンス教室に通っているの」

と尋ねて、

「あのステキな先生と踊れるから」

なら分かりますが、

「通うために、通っている」

では、トートロジー(同意語反復)で、

何も言ってないのと同じです。

 

■「生きるために生きる」のは、

ちょっと考えれば、

言葉の意味からもおかしいと分かるでしょう。

歩いている人も、どこかへいくために歩いています。

あるいは気分転換に散歩、運動のためというのもあるでしょうが、

少なくとも「歩くために歩いている」人は一人もいません。

 

■「歩くために歩いている」人、もしあらば、

その人の未来は【行き倒れ】あるだけです。

同じように「生きるために生きる」と強弁する人の未来は、

「死ぬ」だけです。

「生きるために生きる」とは、ほかならぬ

「死ぬために生きる」と言っているのと同じです。

 

■「人は呼吸するために生きているのではない。

 何かをする為に生きているのだ。」

とルソーは言いました。

その『何か』こそ、

真に一人ひとりが考えるべき命題でしょう。

仏教で「出世した」とは、どんなことなのか

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【出世本懐(2)】


出世本懐(しゅっせほんがい)とは仏教の言葉です。

出世、とは今日で使われるような

「彼は部長に出世した」というような意味ではありません。

この世に出てくる、ということで、

この世に生まれてきた、ということです。

 

私たち一人一人、この世に生まれてきて、今、生きています。

先回に引き続き、人生、を一つの部屋に例えます。

私たちはこの部屋のドアを開けて入ってきた時がありました。

誕生の時です。

もちろんその時のことは覚えておらず、

物心ついたら、すでにこの部屋の中にいたということなのですが、

昭和○年○月○日にこの部屋にお前は入ってきたのだよ、

と親から教えられました。

その日にこの部屋に入ってきて、今もこの部屋にいるのです。

しかし、この部屋にはいつもでも居続けることはできません。

誰しも、いつしかこの部屋を出ていかねばならない時を迎えます。

「死ぬ」ということです。

 

入ってから出るまで、人によって長短あれども、

この部屋にはみな限られた期間しか滞在できません。

それが人生です。

 

考えてみると、私たちはどこから来たのかわからず、

この部屋の中に入ってきました。

そしてしばらく部屋の中で

何かを手に入れて笑ったり、失って泣いたり、

悲喜交々のドラマを演じて

やがてひとりぼっちでこの部屋を出て行くのです。

出て行った先はどうなっているのか、これもわかりません。

 

どこから来たのかもわからず、

どこへ行くのかもわからない、

わかっているのは、今は人間として生を受け、

ここにいるという事実です。それが私たちです。

 

本懐とは、今日でも「本懐を遂げる」とか

「男子の本懐」とか使われます。

本当の願い、本当の目的ということです。

「出世本懐」とは、この世に生まれてきた本当の目的

人生の目的ということです。

私たちは何のために生まれ、何のために生きているのか、

なぜ苦しくても生きなければならないのか、ということです。

 

先ほどの部屋の例えでいうと、

何のために人生という部屋に入ってきたのか、

ということです。

みなさんは考えられたことはありますでしょうか。

 

ふつうは目的があってその場所に入るのです。

カラオケルームならカラオケするため、

床屋なら散髪のため、

目的があってその部屋に入るのです。

では私たちは人生という部屋になぜ入ってきたのでしょうか。

 

いや、気づいたら入っていたんだ、別におれの意思ではないよ、

といわれるかもしれません。

人間に生まれてきた意味もわからず、生まれてきた、

という点で、確かに床屋に入るのとは違うでしょう。

ではなぜ今もこの部屋に居続けるのでしょう。

何を成すためにあなたは、人生という部屋にいるのでしょうか。

ここではいろいろなことをすることができます。

勉強する、仕事する、家庭を持つ、子育てする、

マイホームを建てる、いろいろありますが、

これ一つ成し遂げるために私は生まれてきた、今生きている、

これ一つ果たしたらいつ人生を終えても大満足、

というものはありますでしょうか。

 

この部屋は苦しいことも多いのです。

決して鼻歌交じりで楽しく過ごせるところではないのはわかります。

そんな部屋になぜ居続けるのでしょうか。

こんな苦しいならいっそのこと出てしまいたい、という時でも

居続けているのは、何を成し遂げるためなのでしょうか。

これが「出世本懐」「人生の目的」ということです。

 

この出世本懐を成就した時、

「人間に生まれてよかった」

「生きてきたのはこのためだったのか」

「いつ死んでも大満足」

と生命の歓喜を味わうことができるのです。

 

私たちも仕事や家事に追われ、忙しい日常を送っておりますが、

時に足を止めて、「私の出世本懐とは何だろうか」

静かに振り返って見られてはいかがでしょうか。

 

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全ての人は夢遊病者のようなもの

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【出世本懐(1)】

 

仏教は「全ての人は夢遊病者のようなものだ」と説きます。

私たちには、町で歩いている人を見ても、

みな「何時までに駅に行かなきゃ」などと

目的を持って歩いていますから、とても夢遊病者には見えません。

なぜお釈迦さまは全ての人は夢遊病者のようなもの

と言われたのでしょうか。

 

私たちが生きているこの人生を、一つの部屋に例えてみましょう。

生まれた時が、この部屋に入った時です。

私たち一人一人、ある時「この世」という部屋に入りました。

いや、正確に言うと、物心ついた時には、もう部屋の中にいました。

親から「お前は○年○月○日にここに入ってきた」

と教えてもらったので、「その時、この部屋に入ったのか」と

学んだということです。

 

しかし親も、他の誰も、私がどこから来たのか、知りませんし、

なぜこの部屋に入ってきたかも知りません。

「それは知る必要の無いことだ、ここでとにかく過ごせ」

と皆言います。

 

この部屋で過ごすのはけっこう大変で、

努力しないとこの部屋は居心地悪くなり、

出ていかねばならなくなります。

いや、努力したところで、

結局はみんなこの部屋からは出て行かねばならない、

「部屋から出る」とは、「死ぬ」ということです。

好むと好まざると関係なく、否応なしに部屋から出る時が来る、

ということはつまり、この部屋で過ごせるのは

「有限」だということです。

人は皆、それぞれの期間、ここで過ごし、

やがてここを去っていくのです。

 

では私たちは、この人生という部屋から出たら、どこへ行くのか。

それも、誰も知りません。

皆に聞いても「知らなくていい」と言います。

考えても無駄なことだから不問にして、

とにかくこの部屋での過ごし方を考えよ、と言います。

つまり私たちはどこから来たのか分からぬまま、

しばらくの間、人生という部屋で過ごし、

いつかどこか分からないところへ行くのです。

 

夢遊病者に「どこから来たの?」と聞くと

「さあ・・」と首をかしげる。

「じゃ、どこへ行くの?」と聞くと「さあ・・」

「じゃ、どうして歩いているんだよ」と聞くと、やはり「さあ・・」

そういう人を夢遊病者と言いますが、

私たちもまた、どこから来たのか分からずに、この世にいる。

死んでどこへ行くのか知らず、この世にいる。

なぜこの世に生まれてきたのかも分からず、

なぜこの世にいなければならないのか、その意味も知らず、

何をしたら人生という部屋を満足して出ていけるのか、

何も知らないで、ただ生きている。

仏教はそんな私たちの姿を、夢遊病者のようだと説かれたのです。

 

みな夢遊病者のような迷いの真っ只中にある、

そんな中、その迷いの闇を晴らし、真の転迷開悟を教示されたのが、

釈迦の教え、仏教なのです。

 

「この人、魅力的だな」と思う瞬間の一つ

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【禅定】


仏教で教えられる六度万行の一つに『禅定』があります。

「禅」は「しずめる」、「定」も「定める」こと。

散乱する自分の心をしずめ、定めることをいいます。

人のことばかり「あいつが悪い」と非難する心をしずめる。

そして自分はどうか、と振り返る、ことです。

 

人に迷惑をかけて糾弾される時は

自分の人生にも幾度となくあります。

そんな時に

「おれだけじゃないよ!」

「あいつの原因のほうが本当は大きいのに 」

「どうやってたいした問題じゃないとごまかそうか」

こんな心が山ほど出てきます。

 

そんな心との戦いは今までの人生で何度も経験していますので、

人と接していて「この人、魅力的だな」と

心揺さぶられることの一つに、

心から謝罪している姿があります。

 

最近でもそういうことあったのですが、

自分の先輩が、ある失態をした時に、

何の自己弁護もされずに、後輩の私達に謝罪されたのです。

 

 

その先輩の直接のミスではないのに、

そこまでしっかりとされる姿に深く感動しました。

 

『迷惑をかけたら、素直に「すみません」と

 頭を下げられる人は、皆から仰がれる』

と聞いたことがありますが、本当だなとつくづく実感しました。

 

その先輩のように、歳を重ね、立場ができると

人に頭を下げさせることが多くなり、

逆に頭を下げられなくなってくるのが普通だと思います。

言い訳も責任転嫁も上手にできるようになるでしょう。

そんな人がいさぎよく、誠心誠意謝罪されるのに感動し、

同時に「お前にできるか!」と

頭叩かれたような気持ちになりました。

仏法者として、『禅定』に努めていきたいと思います。

 

 

中高年のアイデンティティクライシスは人生の好機でもある

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【出世本懐(1)】


40代~60代の中年期は

「人生の午後」「思秋期」と言われるそうです。

女性なら、現実が見えてくるプロセスで、不安と葛藤を覚えます。

子供が巣立った後、潜在化していた夫婦の問題も表面化してきます。

「妻が急に冷淡になった」

「定年退職してぶらぶらしている夫がたまらない」

という声が聞こえます。

「熟年離婚」の危機です。

 

男性も退職してしばらくすれば、

経済力、コミュニケーション、運動能力

いろいろな面で老いを自覚するようになり、

喪失感を味わうようにもなってきます。

 

【生きる意味って何だろう】

と漠然とした不安が胸に去来するこれらを

中高年期における『アイデンティティクライシス

ともいわれます。

 

私のメール講座を受講される方も、

退職されてからの学びに、と申し込まれる方が多いですが、

これら漠然とした不安がきっかけが仏縁となり

親鸞聖人の教えに触れられるのであれば

中高年期は人生における輝かしい転機ともなります。

 

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本当に仏様は浄土に導いてくれるのだろうか

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【後生の一大事】


平安時代、絶大な権勢を誇った藤原道長の、

よく知られた歌です。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の

  欠けたることも なしと思へば」

「この世は、オレの世の中だと思う。

 今宵の満月に欠け目がないように、

 オレの人生には、少しも欠点がないのだから」

と口にしたと言うことですが、

こんなこと、一度くらい言ってみたいものです。

 

何かが解決して、ヤレヤレと一息つくものの

すぐ次の問題が起きて、またゆううつになる

一難去ってまた一難。

ひとつかなえて満足してみても

また足りないものが見えてきて、不満になってくる。

 

人生はすべてが思い通りになるなんてことありっこない

と思うのに、

「あの欠け目のない満月のように

 すべてにおいて、人生に不足はない」

と言い切っているのですから、大変な境地です。

 

この歌は、娘三人が帝の后になり、磐石の権力を手にした道長が

自宅で3日間にわたっておこなわれた盛大な祝宴で歌ったものです。

ところが翌年には重い病気にかかります。

糖尿病だったといわれていますが、眼病にまで進行していきました。

 

死をおびえて、剃髪して仏門に入ります。

臨終には金色の仏像と、憔悴し切った自分の身体を五色の糸で縛り、

周り中僧侶に取り囲ませ、読経させ、浄土往生を願ったようです。

 

「本当に仏様は浄土に導いてくれるのだろうか」

「死んだらどこへ行くんだろう」

いよいよ臨終になったとき、たった一人ぼっち、

孤独と不安に苛まされ、後生の一大事におびえる道長の姿に、

「望月の~」の歌を歌った時の覇気はどこにもありませんでした。

 

臨終の床で、自己の厳粛な現実を前に、

道長の胸に去来するものは何だったでしょうか。

仏の眼には、人種も性別もない

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【凡夫(1)】


人間の事を仏教では『凡夫』といいます。

凡夫のことを

「欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心多い者」

親鸞聖人も説かれています。

 

世界中の人口が74億人に迫ろうとしていますが、

何人いようが「みな凡夫だ」と仏教では説かれています。

 

シェークスピアの劇では

王様役、商人役、騎士役から、農民役もあれば、

乞食役も出てきます。

ところが楽屋に帰れば、みんな同じ役者仲間です。

乞食役が王様役に「なんじゃ今の演技は!」

と叱っていたりもします。

 

人間本質的には何ら違いはないのですが、

まわりのレッテルに錯覚してしまうのでしょう。

首相官邸を、何十万のスーツを着て、

数多くの報道記者に囲まれて登場する安部首相を見れば、

さすがは一国の首相だ、とステキに思うでしょう。

しかし安部首相に、青い作業服着せて、

玄関口に立たせて「電気工事に来ました」と言わせたら、

これまたよく似合いそうな感じもします。

 

~会長だ、~署長だ、~大臣だと、

立場や身分のレッテルを貼られると、

周りも「偉い人だ」と誤解し、

本人も、ひとかどの人物になったかのように錯覚していきます。

厳に警戒しなければならないと知らされます。

 

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