親鸞に学ぶ幸福論

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権威のある人に自動的に順ってしまう心理に気をつけろ

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【知識(1)】


弁護士の知人から聞いた話ですが、

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の

父親殺しの陪審員裁判の様子は、

かなりのリアリティーに溢れ、新鮮味すらあり、

さすがは世界の文豪と感じ入ったそうです。

弁護士の彼は仕事柄、法廷シーンなんかがあると

小説でも、ドラマなんかでも、どれだけリアリティーがあるか、

ついつい弁護士の目で見てしまうそうですが、

それが噴飯物であったりすると

今までのドラマ全体まで、底の浅いものに見えてしまうそうです。

 

この話には私も共感しました。

私もテレビで仏教を評論している教授の話や

あるいは歴史小説で仏教について語られている箇所で、

ずいぶんいい加減で無責任な弁が語られるのに驚くことが

よくあるからです。

 

歴史のことや政治のことなど、

自分にとって門外漢の分野でのことは

テレビに出ている評論家なのだから、

言っていることに間違いはなかろう、

書籍まで出している人の言葉なんだから、

書いていることに間違いはなかろう

と信じてしまっていましたが、

そうとばかりいえないことを学習しました。

 

少なくとも無責任な仏教理解をしている人だとわかると

「他のこともこの人のいうこと、本当かなぁ」と

信憑性を疑うようになってしまいます。

 

とかく権威のある人に何か言われると、

優れた知識をもっているのだから、

そうした人の言葉に間違いなかろうと

自動的に思ってしまう傾向が人間にはあります。

コマーシャルでも、さも科学者のような白衣の格好で

商品をアピールする場面がありますが

これもこの効果を知っているからでしょう。

 

それで権威を利用して、

人を動かそうという輩も少なからずあるので
 
警戒しなければなりません。

肩書きや服装に惑わされないよう、

正しい知識を学び、正しい道を進みたいものです。

 

 

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小さな子でも「いい加減なこというな!」と言う

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【後生の一大事(1)】


子供たちは「知りたがり」です。

子供が親に質問を浴びせてきた時は

「真摯に答えてあげてください」と

どの育児書にも書かれてあります。

「忙しいから、後」とか、
 
「大人になったら分かるから、今は知らなくていい」

と面倒臭そうな発言や態度はよろしくないようです。

 

親が分からない質問は適当なことを答えないこと、ともあります。

インターネットや図書館で調べるなどして、
 
結果を出してあげる努力が必要だとも書かれています。
 


さて、このようにいろいろなことを気兼ねなく、

率直に聞いてくる子供たちですが、今からが本題です。

これは支援学校で教員をされている方から聞いた話です。

その先生が通う学校の分教室には白血病の子がいて

一年に何人か亡くなるそうです。

子供たちは、死が意識されてくると

「死んだらどうなるの?」と訊いてくるそうです。

 

その子供たちの真剣な問いかけに、

医師も教員も親も、「天国よ」「星になるのよ」

としか言えないそうです。

 

しかし怖い未来を直感しているのか、

小さな子でも「いい加減なこというな!」と言うそうで、

周囲は絶句する、とのことでした。

 

卒業が近づくと、卒業後の進路のことが気になるように、

結婚が間近に迫ると、結婚生活の不安が出てくるように、

退職が近づくと、老後に関心を持つように、

死が身近に迫ると、「死んだらどうなるか

考えるのは自然なことです。

卒業後の進路や老後のことは、強い関心を持ち、よく検討し、

熟慮を重ねるのに、【死】については、頑なに見ようとしません。

考えたところでどうにもなることではないと諦めているのか。

 

しかし子供は、気になることを率直に、しかも己の問題として、

真摯に尋ねてきます。

「こんな子供の質問に困りますね」と

他人事のように思っていてはいけない。

この質問こそ、あなた自身が生涯かけて

答えを出さなければならない後生の一大事なのだよと

仏教では説かれています。

 

 

法然、親鸞の師弟関係に不適切な記述がある

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浄土宗が「法然、親鸞の師弟関係に不適切な記述がある」として、

高校倫理の教科書に異例の反論をしたことが報道されました。

親鸞聖人が師匠の法然上人の教えを「徹底」「発展」させた、

と解説する教科書の表現に対し、

「これでは法然上人は不徹底で、教えが未完成と受け取れる表現」

と浄土宗が抗議したものです。

 

一方、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の東西本願寺は

「ただちに不適当な記述とは思わない」

「不適当とはいえない」という見解を示しました。

教科書発行元の会社は、浄土宗と本願寺の板挟みになって

マスコミの取材申請に「回答は差し控えたい」とした、

という報道でした。

 

このたびの論争のことを、もし親鸞聖人が知られたら

どう思われるだろうか、と嘆かわしく思います。

なぜなら親鸞聖人ほど法然上人の教えられたことを

そのまま手垢を付けず、

多くの人に伝えようとされた方はなかったからです。

 

親鸞聖人の主著『 教行信証』は、

法然上人の主著『選択本願念仏集』を解説された御著書です。

『教行信証』を執筆なされた心境を、

「お師匠さまの『選択本願念仏集』のみ教えを、

 少しでも早く皆さんにお伝えしたい」

と仰っています。

親鸞聖人は90歳で亡くなるまで、

幾たびも『教行信証』を修正し、加筆され、

絶えず推敲を重ねられた筆跡には、

「命に懸けても、法然上人の御心を正しくお伝えせねばならぬ」

という、一貫した聖人の誓いが、まぶしく光っています。

 

親鸞聖人は34歳の時、同じ法然門下の法友と

3回も仏法の大論争をされ、法友から孤立されますが、

その論争も、ひとえに法然上人の真意を明らかにしたい、

その思い一つでした。

 

また親鸞聖人は

「法然上人にだまされて地獄に落ちても後悔しない」

とまで仰っています。

親鸞聖人の、恩師・法然上人に寄せられる信念は、

もはや師匠を深く信ずるという、世間の概念を超えた

深い深い尊敬の念でした。

 

そのような親鸞聖人の、法然上人へのお気持ちが

あまりにも知られていないのを痛感する報道です。

もっと親鸞聖人のことをお伝えしなければならないと

反省し、奮起させられました。

 

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忘却は時にありがたいもの

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【無常(1)】


さて「忘年会」とは、年を忘れる集まりと書きます。

嫌なことの多かった年を忘れてしまいたい

という願いから生まれた言葉でしょうか。

 

円広志の「夢想花」という歌が

私の小学生だったときにありました。

『♪とんで とんで とんで ~』と

息継ぎなしに歌えるかどうか、兄弟で挑戦したものです。

その歌詞に

『♪忘れてしまいたいことが、今の私には多すぎる~

 私の記憶の中には、笑い顔は遠い昔』

とあります。

 

あなたは忘れてしまいたいこと、ありますか?

「あの人にあの時、あんなことを言われた」

「あの時にあの人は、あんな表情をしていた」

忘れられない辛い言葉や

思い出したくない場面はあるものです。

「忘れる」ということは、失敗の元ですが、

同時にまたありがたいものともいえましょう。

 

腐敗菌は食べ物を食べれなくさせ、食中毒の原因ですが、

同時にこの腐敗菌のおかげで、動物の死体は分解されて

土に還っていきます。

もし世の中に腐敗菌がなければ、

地球上の大地は動物の死体でいっぱいになってしまうでしょう。

 

同様に忘却は、腐敗菌のように有難いものといえましょう。

辛く悲しいこと、嫌で苦しかったことを

いつまでも忘れなかったら大変です。

その思いをズルズル引きずることなく、

さっと気持ちを切り替えて、年を越えたら心機一転

またがんばりましょう、という忘年会なら

望年会ともなりましょう。

 

タカマツペアの金メダル獲得後のインタビューで思ったこと

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求不得苦(2)】


タカマツペアがリオ五輪で感動の金メダルを獲得した直後の

インタビューで記者が「今後の目標は?」と

二人に質問する場面を見て、

「何と無神経な」と思ったのは、私だけではないと思います。

ずっとこのオリンピックを目指して過酷な練習に耐え、

ついに勝ち取った栄冠なのだから、

とにかく今はその喜びだけを祝福すればいいのに、

とぶしつけな記者の質問に物申す気持ちになったのですが

聞かれた二人は一瞬戸惑った様子を見せながらも、

そこは体育系らしい前向きな受け答えで

「バドミントンをやっている以上は世界選手権で結果を残したい」

と言っていました。

 

オリンピック後の大会で19歳の中国ペアに敗れた高橋選手は

「正直、今年は五輪が1番。達成感もあり、

次の目標を見つけることは簡単ではない。

今回の準優勝は仕方ないとの気持ちがある」

と答えましたが、これはリオ五輪のインタビューの時より、

自分の心に正直な受け答えだったと思います。

 

タカマツペアの今の思いは、

アメリカの次期大統領トランプ氏の

以下の告白に重なるものを感じました。

「人生最大の目標を成し遂げた人で、

その目標達成と同時に、寂しく虚しく、

放心に近い感情を抱き始めることのない人はめったにいない。

(中略)

他人の人生を見るまでもなく、

それが本当だということを私にはわかる。

私も他の誰にも劣らず、その落とし穴に陥りやすいのだ」

 

さてタカマツペアはその落とし穴に陥り、

このまま弱くなっていくのか、

それともリオ五輪の金メダルを目指したときのような

強烈な目標を東京五輪に向けて再び持つことができるのか、

多くの関係者が関心を寄せるところでしょう。

私は願わくば、どこまで求めても

心底から満足できない己の心の叫びに気付き、

仏縁を結んでもらえたらなと思います。

 

求不得苦の世にあって大満足する幸福が説かれている仏教 

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【求不得苦(1)】


■仏教では苦しみを八つに分けて教えられていますが、

その一つが「求不得苦(ぐふとっく)」です。

文字通り“求めても得られない苦しみ”です。

釈迦は、全ての人が逃れられない普遍的な苦しみの一つとして

この苦しみを説かれています。

 

■こう聞かれて、全ての人の受ける苦しみとはいえないのではないか、

と疑問を呈する人があります。

中には求めてきた目標や夢を達成して、

満足している人もいるではないか、

たとえば、金メダルを獲得した人、ノーベル賞を受賞した人、

自分の作った曲がヒットした人、など。

そんな人は“求めても得られない苦しみ”はないだろうから、

万人の普遍的な苦しみとはいえないのでは

との疑問です。

 

■ですが釈迦は、そんな人も「求不得苦」で苦しんでいる姿に

変わりはないと、説かれています。

なぜなら一つのものを手に入れても、

今度は何か違う次のことを求めてしまい、

なかなか得られずに苦しむことになりますからです。

 

■文豪、夏目漱石の「吾輩は猫である」に

評されている西洋文明論は、

「求不得苦」が万人の普遍的な苦しみであることを

示唆しています。

「西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、

あれは大なる欠点を持っているよ。

第一積極的と云ったって際限がない話しだ。

いつまで積極的にやり通したって、

満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。

向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。

とその向うの下宿屋が又邪魔になる。

下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。

どこまでいっても再現のない話しさ。

西洋人の遣り口はみんなこれさ。

ナポレオンでも、アレキサンダーでも

勝って満足したものは一人もないんだよ」

 

■無限の欲を持つ私たちには、

「求まった」という満足や完成がないことを

「求不得苦」と釈迦は喝破されました。

その上で人生には

「人身受け難し、今すでに受く」

(よくぞ人間に生れたものぞ)

という大満足する境地があることを

釈迦が教えられたのは驚嘆すべきことです。

 

仏の悟りとは、どんな悟りなのか

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迎春

昨年は、メルマガを読んでいただき、

まことにありがとうございました。

仏教をお話できる機会に恵まれたことを感謝しております。

多くのご感想、ご質問のメールをいただき、

重ねて感謝申し上げます。

読者の方からのメールはとてもうれしく、

続ける励みになっております。

ご質問にも、ちょっと返事が遅れてしまい、

礼を失することは申し訳ありませんが、

必ずお答えいたします。

答えるのに時間がかかる内容には、

スカイプなどの無料電話でお答えいたします。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

 

【今日の仏語】は『仏』です。


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「仏」とは「最高の悟り」のことで、

「仏覚」「仏のさとり」といいます。

これ以上の悟りはありませんから、

「無上覚」ともいわれます。

この最高無上の仏の悟りをえた方を、

「仏」「仏さま」というのです。

 

仏のさとりとは

「自覚・覚他・覚行・窮満」

(じかく・かくた・かくぎょう・ぐうまん)

と説かれています。

「自覚・覚他・覚行・窮満」とは、

自分が幸せになり(自覚)、

他人の幸せを念ぜずにおれなくなる(覚他)。

そして人の幸せのために、行動せずにおれない(覚行)

「いくら言っても聞かないなら勝手にしろ、

苦しむのは自業自得だ」

という気持ちにはとてもなれない。

助けたいという心に極まりがない(窮満)

ということです。

 

仏は「俺が幸せならいい」という気持ちにはなれない方です。

なぜなら仏のさとりとは、

幸せにせずにおれないという願いに燃える心だからです。

「自分だけ幸せになれればいい」というのは、

仏の心ではありません。

「自分が喜んでいればいい、人のことまで考えておれるか」

という心には、もうなれないのが仏の心です。

 

自分さえよければいい、との思いは、仏教の聞き間違いです。

自分の幸せを、人に分かち合えずにおれなくなる

これが自覚・覚他です。

仏教は常に、自分が幸せになり、人にもその幸せを伝える教えです。

 

本当の幸せなら、必ずそういう働きになってきます。

「覚他」にならない「自覚」はない、

自分さえ幸せならいい、と思っている人の幸せは

本当の幸せではない、と釈迦は説かれています。

本当の幸せは、

必ず人を幸せにせずにおれない働きになってくるのです。

 

「あの蕎麦の美味しさが忘れられない」と感動した人は、

誰かにその蕎麦のことを伝えます。

本当に美味しいと思ったら、言わずにおれないでしょう。

世間のことでもそうです。

蕎麦屋だとあまり繁盛すると、並ばなければならなくなるので、

教えたくないということも中にはあるかも知れませんが、

仏法はどれだけ与えても減りません。

仏教はそういうものです。説いても説いても減りません。

無尽蔵だからです。

どれだけ人に分けても減らない、

いやむしろこちらの幸せが増えてくる。

秀吉が、天下獲ったといっても、

我が身とその一族が栄耀栄華になっただけで、

限られた者だけの贅沢でした。

与え続けたら減っていくのだから、

ほんの限られた者しか楽しませられない、

いや、それだってどれだけ楽しめただろう、

むしろ本人も周りも不安にさいなまされることもあったでしょう。

 

仏教は違います。

与えると、受け取った相手も喜ぶ。

こちらも減らない。

与えたら自分が寂しい思いをするようなものではありません。

自利がそのまま利他になります。

私も今年一年、仏の教えを聞く者の自覚を胸に刻み、

自利利他の道を進みたいと念願しています。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

 

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