親鸞に学ぶ幸福論

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何があっても生きねばならない理由とは

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【出世本懐】


■60歳で会社を定年退職すると、

突然、朝から夜まで予定がなくなります。

自由な時間が有り余るほどできる“余生”を、人は手にします。

そこではじめて“自己の存在の意味”について

考える人も多いようです。

 

■そんな余生を送る人に向かって

『あなたは何のために生きているのですか?』

と問うてみて、

『私は社会に役立つために生きています』

とはなかなか言えません。

現実はだんだんと役立たなくなるのですから・・

 

■社会に役立たなくなっていながら、

なおかつ生きているのはなぜか。

それこそが

『何のために生まれてきたのか』

『なぜ生きるのか』

『なぜ自殺してはいけないのか』

の真の回答に迫るものといえましょう。

 

■これは老後を迎えた人ばかりの問題でもありません。

下の言葉は以前仏法の話をした女子大生のメールの抜粋です。

「このさきもいくら頑張っても

 人間関係に悩まされたり、

 色々な障害にあうのであれば、

 人生なんてテキトーにやって

 テキトーに終わらせればいいや。

 どうせ、満足する幸せなんてないんだから、

 親が悲しまないようにさえすればいいやと(- -)/~~」

 

■自殺しないのは親が悲しむから、とするならば

親がいなくなれば、生きる根拠を失います。

子供に迷惑をかけるから、というのなら、

子供を失ったときに、生きる力を失います。

たとえ自分が死んで、困る人がいなくても

悲しむ人がいなくても、生きねばならないのはなぜか?

親鸞聖人の教えられる『人生の目的』はそこにあります。

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高齢者の犯罪が増えている理由とは

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【三長者(4)】

 


不惑の40代」はよく聞く言葉ですが、この後もこう続きます。

50代は「知命」どんな使命をもって生を受けたのかを知る

60代は「耳順」人の考え方に反発せず、耳を傾けるようになる

70代は「従心」心のままに行動しても、道理に外れない

年齢を重ねるにつれ、人格が向上していくとありますが

実際はこう理想どおりにはいきません。

 

平成26年の『犯罪白書』によれば、

一般刑法犯として検挙された65歳以上の人数は、

他の年齢層を抑えてトップです。

内容も窃盗(万引き)、暴行、詐欺、ストーカーなど多岐にわたり、

特に、老齢になって初めて犯罪に手を染める初犯の人が目立ちます。

 

それまで真面目に生きてきた人が、なぜ晩年に罪を犯すのか、

間違いなくその理由の大きな一つを

86歳の万引き犯の女性が語っています。

「『万引きをしそうになったら、大事な人を思い出して』と

 言われたけど、大事な人なんていないんだからしょうがない」

 

高齢者による多くの万引き事件を担当してきた弁護士も

こう述べます。

「彼らに共通している思いは、

 自身に対する絶望感と、社会ルールを守ることへの無意味さです。

 『万引きで捕まればすべてを失うのになぜ?』

 と言えるのは恵まれた人の見解です。

 生き続けるほど、大切なものが増える人もいる一方で、

 守るべきものを失うばかりの人も少なくないのです。  

 家族も離れていき、病気や死別などで友人もいなくなり、

 財産も乏しくなる。

 老いる意味が絶望の連続となっている人にとっては

 すでに、自分の命さえも大事ではなくなる」

       (老人たちの裏社会)

 

若い頃の頑張りが報われると信じてきたのに、現実は

家族や伴侶、友との死別、経済的困窮、病気などで

一つ、また一つと「喪失」していくばかり。

挫折しても、跳ね返す気力や体力があれば、

幾らでもやり直しはききますが、

衰えた心身に度重なる「喪失」はあまりにもキツい。

想定外の大きな変化に対応できぬまま、

失っていく痛みを誰とも分かち合えず、

傷ついた自分を誰も気にかけてくれず、

大切にも思ってもくれない。

そんな現実に絶望した時、

自分さえ大事に思えなくなっていくのでしょう。

 

さて過去三回にわたって、三長者について話をし、

「身の長者」よりも「心の長者」がよいと、

なぜお釈迦さまは言われたのか、話を続けました。

「身の長者」とは「長生きすること」。

「長寿」に「寿(ことぶき)」と使われるように、

めでたく、祝うべきことですが、

長生きしたばかりに、こんな辛い目に遭うなんて、

と嘆く人が多いのが現実です。

 

健康で長生きするよりも、

もっと大事なのは「心」だとお釈迦さまは教えられました。

心が安らぎ、満ち足りて、「生きてきてよかった」と

人生を喜び、人生を支えてくれた一切に感謝している

「心の長者」になることが、人生の目的ですよと教えられています。

 

 

人の上に立つ者の心得

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【布施(1)】

 

■医者は、患部が悪性かどうか、急いで処置すべきかどうか、

判断できなければ務まりません。

大きく腫れていても、悪性でなければ後回しですし、

小さなものでも、悪性なら急いで対処する。

その判断は、素人では分かりません。

医者の重要な仕事です。

病気を治せるかどうかの前にまず大事な、

医師にしかできない仕事です。

悪性かどうか、自分の手に負えるものかどうか、

という判断ができないようでは、医者として失格です。

 

■管理職なら、部下のミスにも、

悪質ではないものと、どんな小さなものでも悪質なものと

判断していかねばなりません。

教師が生徒に接するときでも、親が子供に対するときも、

同じことが言えます。

・厳しく言わなければならないとき、

・優しく諭せばいいとき、

・不問にしてもいいとき、

自己の感情に振りまわされず、的確な判断が求められます。

 

■人のウソでも、悪質かどうかを見抜かねばなりません。

ウソといっても、ピンからキリまでいろいろあります。

捨てておけないウソと、受け流しておけばいいウソとがあります。

上に立つ者はそういう判断ができねばなりません。

 

時には刺し違えるような覚悟で、

厳しく叱らねばならないときもあれば、

何も言わず、暖かく励ました方がいいときもあります。

ここはアクセルを踏むときか、ここはブレーキを踏むときか、

問題に応じて、相手の心に応じて、

的確に接することができる人が、人の上に立てる人といえましょう。

 

 

真田丸の大阪の陣に見る仏説

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【三長者(3)】


大河ドラマ「真田丸」ついに最終回でした。

一年間のドラマの終幕となる「大坂の陣」が、

最後の2ヶ月くらい続きましたが、

豊臣方の必死に戦う姿に、

どうにも切なさと寂しさと虚しさを感じてしまうのは、

最後負けて全員死んでしまうことを、

視聴しているこちらが、すでに知っているからでしょう。

 

考えてみれば人生の寂しさ、虚しさも、同じことがいえます。

「生きる」とは「死」との戦いです。

精一杯生きようと、みな「死」と戦っている、といえましょう。

日本人の死因の主なものは、

ガン、心疾患、脳梗塞、肺炎の四大疾患と、

不慮の事故、自殺などです。

四大疾患の病気にならないためにはどうしたらいいか、

食生活や運動に気を使い、

地震などの自然災害や交通事故など不慮の事故に遭わないために、

どうしたらいいか対策や準備には余念がない。

経済的理由から人間関係のストレスなどから

自殺に追い込まれないよう、日ごろから周りに心配りし、

みんなこれら(ガン、心疾患、脳梗塞、肺炎、不慮の事故、自殺)

と戦っています。

これらの努力は、「生き延びよう」とする努力です。

みな「死」と戦っているのです。

 

ところがこの戦い、必ず負けます。

必ず死ぬのですから。

大坂冬の陣で「勝った」と喜んだ豊臣勢がはかなく寂しいのは、

その半年後の大阪夏の陣で負けてしまうからですが

私たちも「ガン」に勝った、「災害」から救出されたといっても、

一時的に「死」に勝っただけで、結局は負けるのです。

 

本来、戦うのは勝つためですが、

私たちが「死」との戦いに勝てる見込みは万に一つもない。

ちょっと戦いを延ばすかどうかであって、必ず負ける戦いです。

それをわかっていながら、必死に戦わざるを得ない。

ここに人類の悲劇がある、と喝破されたのがお釈迦さまです。

親鸞聖人の出家の動機も、

まさにこの生死の一大事の解決一つでした。

 

この生死の一大事を解決して、

いつ死んでも無量光明土へ往けるのがハッキリする、

大満足の心になった人を「心の長者」と言われたのです。

「身の長者」よりも「心の長者」とお釈迦様が言われているのは、

「身の長者」になって、長生きしたところで、

それは必ず負ける戦いを、少し長引かせているだけのこと。

心の虚しさはどうしようもない。

それよりも「死んだらどうなる」という生死の一大事を

ハッキリ解決して、大安心大満足になった「心の長者」の方が

ずっとすばらしいと釈迦は教えられたのです。

 

「人生の目的を知らないで100年生きるよりも、

人生の目的を知って1日生きる方がはるかにすぐれている」(釈迦)

真の人生の目的とは、「心の長者になること」です。

 

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健康よりも、長生きよりもずっとずっと大切な事とは

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【三長者(2)】

 

100歳以上で、まだ元気で仕事している人が

書いた本が次々と出版され、売れています。

どんな暮らしぶりかな?

どんな食生活かな?

どんな心の持ちようでいるのかな?

どうしたら、あの歳であんなに元気に過ごせるのか、

多くの人が関心を持っているからでしょう。

 

最近ニュースでは、高齢者による事件が相次いでいます。

認知症の人が、車で人をひいてしまったとか、

感情がコントロールできず、周りの人を傷つけたとかで、

人生の晩節を汚す事件は少なくありません。

また寝たきりの高齢者に、介護職員が暴力を振るう、

あるいは家族が介護を嫌って寄りつかず、

孤独死するという事件もあります。

そんな事例の数々から、誰しも

「歳はとりたくないものだ」

「歳がいっても、いつまでも頭も体も元気で健やかでいたい」

と感じるからでしょう。

そういう本を手にする人は多くなっています。

 

お釈迦さまも、「健康」は「お金や財産」よりも大事だよと

教えられています。

先回からお話ししていますように、

お釈迦様は、この世に三通りの長者がいるといわれています。

1、家の長者・・お金や財産に恵まれている人

2、身の長者・・健康に恵まれている人

3、心の長者・・弥陀の救いにあい、絶対の幸福になった人

そして家の長者より身の長者、

身の長者より心の長者がよい、と説かれました。

 

健康が当たり前の時は、健康に価値はあまり感ぜず、

何よりも「お金が欲しい」と追い求めています。

それは水が当たり前に飲める時に、

水の価値を感じないようなものです。

自分の足が普通に動き、何でも食べれる時に、

その自由を感謝できませんが、

いったん健康を失った時、つくづく健康の大切さが知らされ、

お金はどれだけ出してもいいから、健康を取り戻したいと、

切に念願するのです。

お釈迦さまはこのことを

「家の長者より身の長者」といわれたのです。

それで「長生きしたい」「健康でいたい」ということが

人生の目的になっていきます。

 

では「身の長者より心の長者」とは、

どういうことなのでしょうか。

健康よりも、長生きよりもずっとずっと大事な

ものがあるよと、お釈迦様は説かれているのです。

それは「心の長者」になることだ、といわれているのですが、

心の長者とは何か、次回お話しいたします。

 

「この世に三長者あり」と教えられたお釈迦さま

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お釈迦様は、この世に三通りの長者がいるといわれています。

1、家の長者・・お金や財産に恵まれている人

2、身の長者・・健康に恵まれている人

3、心の長者・・弥陀の救いにあい、絶対の幸福になった人

そして「家の長者より身の長者、身の長者より心の長者がよい」

と説かれました。

 

普通、長者といえば「家の長者」を指します。

いわゆる金持ち、物持ちのことです。

「長者番付」といえば、

一番金持っている人は誰か、ということでしょう。

お金を稼げる人には、名声も異性も集まります。

お金持ちになれば幸福になれると、みな必死に追いかけています。

「家の長者」になることが、人生の目的だと思っています。

いくらお釈迦さまが

「家の長者より身の長者の方がいい」と言われても、

ピンときません。

 

ところがそんな私たちも健康を害して、病床に伏すと、

健康のありがたみが知らされ、

「家の長者より身の長者の方がいい」

と教えられた釈迦の教えがしみじみと首肯させられます。

どんなにお金があっても、重い病を抱えては

有り余るお金があっても、どこかへ行くこともできず、

美味しいものを食べることもできない、、

まして「末期ガン、長くて1年」と宣告されたらどうでしょう。

「金はいくらでも出すから、命だけは助けてくれ」と思うのは、

「家の長者」はいいから、「身の長者」でいさせてくれ、との

心底からの思いでしょう。

 

ではその「身の長者」よりずっとすばらしい「心の長者」とは、

どんなことなのでしょう。

次回に続けます。

 

電話は悪魔の発明だとするなら、スマホはどうか

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【流転輪廻(1)】


私が子供の頃のCMですが、

ハードボイルド風の男性が昼寝から目を覚まし、

冷蔵庫に入れていた電話機を外に出す、

というCMがあり、今も心に残っています。

プライベートを阻害し、安眠を邪魔する電話を否定する生き様に、

幼な心にも何か格好良さを感じたので、

今も覚えているのだと思います。

 

さて現在の私はどうかというと、携帯電話は肌身離せず、

時には一通のメール音にもドキッとしたり、憂鬱になったり

なかなかあの格好いい生き方はできそうもない状況です。

 

アンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」は

風刺と皮肉たっぷりの本ですが、

「電話」についてこう書かれています。

【電話】

「悪魔の発明である。

不愉快な人物を遠ざけておく便利さを、いささか阻害するもの」

1911年に書かれた本ですから、

一般家庭の人の給料では電話は持てなかった時代ですが、

その時から、電話の問題点を指摘しています。

 

携帯電話が普及し始めた頃、会社の上司が外出中の部下に

「今何してる?」「午前中の成果はどうか」と聞くようになり、

世の多くのサラリーマンが携帯電話を

「電子の首輪だ」と嘆くようになりました。

 

さらに科学は発展し、今はスマホ時代。

遠隔操作アプリもますます向上し

それらのアプリにより

24時間、常に居場所を把握することができ、

「子供の防犯対策もバッチリ!」

スマホ内容も常にチェックでき、

LINEやSMSなどあやしい内容がないかなどすべて閲覧でき、

「子供が犯罪に巻き込まれる事を未然に防げる!」

と宣伝文句をうたっていますが、

当然それは子供だけでなく、社員の管理や、恋人の監視や

ストーカーの道具に使われたりもできるわけです。

「不愉快な人物を遠ざけるのをいささか阻害する」

どころではなく、プライベートの全てが

他人に暴かれる時代になってしまいました。

 

科学の発展は、人を自由にさせたが、反面、

人を不自由にさせているともいえましょう。

幸福をもたらした面もありますが、

不幸をばらまいているともいえましょう。

 

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