親鸞に学ぶ幸福論

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「上見て暮らすな、下見て暮らせ」の幸福観でいいのか

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【相対の幸福(3)】


「相対の幸福」とは、比較する幸福です。

比較して幸・不幸を感じるのが、私たちですから

「相対の幸福」とは、人間のわかる幸福、といってもいいでしょう。

相対の智恵しか持たない私たちは

そういう幸福しか分からないのです。

 


一本の棒だけでは、「長い」とも「短い」とも言えません。

違う棒と比較対照して、長い棒だ、短い棒だと判断できます。

軽重、長短、高低、遅速、すべて比較しないと判断できません。

幸福感も同じです。

幸・不幸は比べて、感じるものなのです。

 


昔から「上見て暮らすな 下見て暮らせ」といわれますが、

幸福が相対的だからこその教訓です。

幸せそうな人を見ると、自分の境遇が惨めで寂しくなり、

おもしろくない心が出てきます。

「みんな幸せになってもらいたい」という理念を

政治家も、教育者も、経営者もこぞって口にしますが、

その理念と反する心が自分の中に見え隠れしているのは、

真面目な人なら、ひそかに気付いているでしょう。

 


同期の友人が出世すると、どんな気持ちになるでしょう。

同級生にどんどん抜かされて、

それでいて友人の幸福を喜べるでしょうか。

口では「良かったなあ」と友人を祝福しますが、

腹底ではそう思えない心がうごめいています。

 


幸福そうな人を見ると、複雑な気持ちになり、

その醜い心を見せつけられ、自己嫌悪に陥ることも多々あります。

だからそんなマイナスな心にならないよう

「上見て暮らすな」という教訓があるのでしょう。

 


逆に人の災難、不幸を見ると、どうでしょう。

「まだ自分はましだな」「感謝しなければならないな」と

どこかホッとしている心が出てきます。

「毎日不満ばかり口から発していたけれど、

感謝の日々を過ごさねばと思いました」

と前向きな意見が聞かれるのは、そんな時です。

 


銃乱射も、北朝鮮のミサイルも、凶悪犯罪も、

眉をひそめて、ひどいねと口々に言いながら、

それが自分に降りかかることのない惨劇であった場合、

刺激的な娯楽として、楽しんでしまう心があります。

みっともないスキャンダルであればあるほど、

面白がってのぞきに行く、記事をあさりにいく心があります。

「大衆は悲劇やスキャンダルを消費する存在」であり、

「飽きられる前に次の悲劇を供給しなければならない

のがマスコミの使命だ」

という毒舌も、笑い飛ばせません。

 


比較する相対の幸福しか知らないのが、

赤裸々な私たちの実態です。

そういう幸福しか知らない人たちに

絶対の幸福を教えられたのが親鸞聖人です。

相対の幸福しか分からない私たちには、

想像もできない幸福ですから、

「そんな幸福があるはずがない」

「生きている間になれるはずがない」

という者ばかりです。

相対の智恵しか持たぬ私たちには、

想像もできず、説いて分かる幸福ではありませんから、

親鸞聖人は絶対の幸福を

「不可称・不可説・不可思議の信楽」と教えられています。

 


聖人ご自身が絶対の幸福になられた喜びを

「不可称・不可説・不可思議の功徳は行者の身にみてり」

“筆舌尽くせぬよろこびが、悪に染まった親鸞に、

常にからだ一杯あふれている”

と合掌しておられます。

 

 

 

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