親鸞に学ぶ幸福論

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権力の魔力をよく知っておられた親鸞聖人

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【悪性(1)】

 

親鸞聖人は権力者嫌いで知られます。

「権力者に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと

決して考えてはならない」

と、お弟子に向けたお手紙でクギを刺されています。

権力者の実態を親鸞聖人がよく知っておられたからでしょう。

 

人は権力を持つと、豹変します。

秀吉も、毛沢東も、レーニンも、

あれだけのことを成し遂げた人ですから、

「この人にならついていきたい」

と多くの人を魅了する信念、才覚、努力など、

類まれな人間的な魅力にあふれた人物だったと思います。

 

ところが権力を握り、思い通りに周りの人が動くようになり、

自分の言動が誰にも咎められず、賞賛されることが多くなると、

いつしか尊大になり、批判を絶対許せぬ体質になり、

人の心にも無神経で、「残酷な人」に変貌してしまうのです。

 

どんな傑出した人物も、そうさせてしまう、怖ろしいものが

「権力」です。

権力の恐ろしさを知って気を付け、人にまで諭している人も、

権力を持てば、例外なく変わってしまいます。

 

それはなぜか。

「権力が人の本性をむき出しにさせるから」です。

私たち人間はみな、とても人には言えない恐ろしい本性を

心の中に隠し持っています。

人の物でも自分の物にしたい心。

邪魔者は死んでくれたらいい、と思う心。

優れた人を見て、失敗してくれと願う心。

不幸な人を見て、クスクス笑う心。

そんな心が時に親、兄弟、友人にまで向きます。

 

しかしその本性を、とても口や態度には出せません。

口にすれば「お前、そんなことを思っていたのか」と

皆からあきれられ、嫌われ、会社ならクビになり、

家庭なら勘当や離婚だし、まともな社会生活を送っていけません。

願望をそのまま行動に移したら、これまた大変です。

たちまち窃盗や殺人などで刑務所に入れられます。

 

そこで本性を隠して、好かれるように、ほめられるように、

生活しやすくなるように努めているのが、多かれ少なかれ、

すべての人間の偽らざる姿でしょう。

 

ところが権力者は本性をむき出しにしても、咎められません。

人の物も、自分に献上せよと迫ることもできる。

邪魔者は殺すことができ、

嫌いな人を失敗させるように仕向けることもできる。

不幸な人を見て、クスクス笑っても、

誰も不謹慎だと咎める人はいない、

取り巻きは一緒に笑ってくれる。

だから人間は権力をもつと、本性があらわになり、

どんどん悪くなっていきます。

人のことを尊重しなくなり、

その人の考えや仕事に敬意を持つことがなくなります。

自分の言うことを聞かない者を許せない気持ちが必ず増大します。

これは権力のもつ魔力といえましょう。

 

親鸞聖人はご自分の心を知っておられたからこそ、

権力を持つことの恐ろしさをよくよく分かられたのでしょう。

 

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仏教の説く幸せとは、比較して乱高下する幸福ではない

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【相対の幸福(3)】


誰と比較するか、何を比較するか、によって

感謝したり、うれしくなったり、

不満を覚えたり、さびしくなったりする、

そんな私たちの幸福の実態を、先回と先々回、話しました。

比較する対象は、決して他人とは限りません。

過去の自分と比較して、幸福、不幸を感じることもあります。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』に登場する

カテリーナ・イワーノヴナは、貴族の家柄でしたが、

結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、

娘を売春までさせて生計を立てている女性です。

「今じゃ想像もできないけどねえ、おじい様の暮らしてたころは、

それはそれは楽しく、華やかだったもんだよ」

誰彼となく、昔の高貴な暮らしを語っては、

「なんで今はこんな目に」と

今のわが身の不幸を呪って、さめざめと泣くのです。

 

カテリーナのように昔の贅沢な生活が忘れられずに苦しむ人に、

自己啓発やコーチングなんかでは

「過去をひきずるから不幸になるんだ、今を生きるのが大事だ」

とアドバイスするのでしょうが、

それも口で言うほど簡単ではなく、

本人も忘れようとしても、どうにも昔と比較してしまい、

今が惨めに感じられてしまうのでしょう。

相対の智恵しか持たない私たちに、

果たして純粋に「今」だけを見つめることができましょうか。

 

好きで好きで仕方なかった人、

その人が近くにいるだけで「ああ、幸せだな」と思えた人。

そんな人と死に別れすると、その後の人生がずっと辛くなります。

何をしていても、その人とのことを思い出し、

「あの人はもういないんだ」と胸が締め付けられる。

過去に心を置いてはいけない、今を歩こうと決意し、

新たな人と付き合ってみるのですが、

何かと「あの人とは違う」と比較してしまい、

寂しくなってしまうのです。

よく言われる「亡くなった人には勝てない」とは、

このことでしょう。

 

「不幸な境遇にあって、

かつての幸せをおもうほど悲惨なことはない」

ダンテの『神曲』地獄篇の言葉です。

あまりに貴重な過去は、現在の地獄を余計惨めにさせます。

 

では、人と比較したり、過去と比較しては、

幸福感が乱高下する、相対の幸福しか知らない私たちの人生に、

絶対の幸福、と言えるものはあるのでしょうか。

なれるのでしょうか。

仏教はそのことについて詳しく教えられています。

 

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幸福度は数値化できない。一瞬で変えることもできる。

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【相対の幸福(2)】

 

幸せは心の問題だから指標では表せません。

「おれの幸せ何グラムくらいかな」

「おまえの幸せ、何センチ伸びたね」とか

数値ではもう決められません。

モノなら数値化できますが、

幸福は心のことだから客観的に測れません。

幸福は自分の心が、誰と比較するか、何と比較するかによって、

変動します。

そういう幸福の特徴から、

仏教では「相対の幸福」といいます。

 

一例を挙げましょう、

職場で10人のチームの一員に選ばれ、

一つのプロジェクトに取り組み、利益をもたらした。

その後、部長に一人だけこっそり呼ばれ

「君はこのたびのプロジェクトで頑張ってくれた。

ありがとう。ささやかだけど、これで美味しいものでも食べてくれ」

と封筒を渡された。

中を空けてみると、1万円入っていた。

部長が自分のことを認めてくれたことがうれしく、

自分へのご褒美で、美味しいものを食べた幸せな一日だった。

 

ところが数日後、実はチーム全員、

部長から、感謝の言葉と封筒をもらっていたのを知った。

ただ封筒の中身が違った。

なんと自分以外の9人は、5万円貰っていたのだ。

それを知った瞬間、今までの幸福感はどこへやら、

「なんでオレだけがこんなに冷遇されなければならないのか」

と不満になり、

「何かオレだけ失敗でもしたかな」

と不安にもなり、ブルーな気持ちに支配されてしまった。

 

この話で登場する「一万円」そのものは、

幸福でも不幸でもありません。

「誰も貰っていないのに、自分だけ渡された一万円」は幸福ですが、

「皆が5万円貰ったのに、自分だけ一万円」だったら、不幸です。

自分の心が、誰と比較するか、何と比較するか、によって、

一気に幸福になったり、不幸になったりします。

 

これはお金や評価だけでなく、何においても当てはまる、

幸福の特徴です。

 

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私は今、幸福か不幸か、何によって決まるか

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【相対の幸福(1)】


幸福や不幸は、比較して始めて感じるものです。

それは私たちが相対の智恵しか持っていないからです。

こぶし大の大きさの玉を指して、

「これは大きいか、小さいか」と尋ねても

誰も答えようがありません。

ボーリングの玉と比べたら「小さい」。

ビー玉と比べたら「大きい」。

大小は何と比較するかによって変わります。

私たちの幸福もまた然り。

今の状態が幸福なのか、不幸なのか、

誰かと比較して感じるものです。

だから私たちの幸福を、「相対の幸福」といいます。

 

3年前に購入した中古車のエンジンの調子が悪く、

時々がたがたと車体が揺れます。

安い中古車なので、いたしかたないことですが、

友人の高級車に乗ると、広々としてかつ静かで、居心地が良く、

「いいなあ」と羨ましくなります。

 

ところが私が子供の頃は(昭和50年代です)

うちの車も窓も手動でクルクル回して開けていましたし、

雪の日はその都度チェーンをつけ、

がたがた揺れながらの運転だったのを覚えています。

その時と比べたらうちの車は自動で窓の開閉ができ、

冷暖房完備、雪が降っても降らなくても対応できるタイヤで

運転できますから、この中古車も捨てたものではありません。

 

これが江戸時代ではどうかといえば、

最高級の乗り物は、大名行列で出てくる「駕籠」でした。

ところが「駕籠」にのるお殿様、お姫様も、相当辛かったようです。

振動が激しく、舌をかむ可能性が高いので、飲食はできません。

「さるぐつわ」で口を固定して、舌や歯を守ったようです。

夏は風通しが悪くて大変暑く、熱中症になり、

冬はすきま風で寒く、風邪を引きます。

速度は時速4キロですから、参勤交代で何百キロ移動ともなれば、

何週間ときつい中を我慢しなければなりません。

 

そんな時代の大名が私の中古車に乗ったら、

こんな幸せな乗り物があったのか、と感激することでしょう。

「なんてあなたは幸せなんだ」とうらやましがられるでしょう。

 

乗り物を例に話しをしましたが、すべてにおいてこれは言えます。

比較してはひがんだり、不満を持ったり、

逆に自分より不幸な人を見ては安心したりと

変化する幸福、それが「相対の幸福」です。

 

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1000冊読まないと、1冊の本は執筆できない

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精進(2)】


私は20代の頃より、仏教を人に話すのは場数を踏んできたので、

「話す」方はそこそこ慣れていますが、

「書く」方はしてこなかったので、

四十の手習いで、今になって文章を勉強しています。

 

「話す」時は、その場の雰囲気や聞く人の表情から、

何度も言い直したり、言葉を重ねたり、強調したりして、

意思の疎通ができます。

ところが「書く」となると、簡潔に言い切らないといけないので、

文章の構成や順番、表現など、いろいろ難しい問題があります。

そういう視点でプロの作家の書く文章を読むと、

「上手いなあ」と感嘆することが多く、

その文章をその人が書いた時の年齢を調べて、

自分と同年齢だったり、自分より若かったりすると、

なんともいえない焦燥感を覚えます。

また「1000冊読まないと、1冊の本は執筆できない」

と執筆業の人からはよく聞きます。

自分には圧倒的に学びが足りないと思いますし、

基礎的な力の無さを思い知らされています。

 

しかし今まで苦労してこなかったのだから、

研究工夫努力の総量の結果が全く違うことを明らかに見て

今こうして向上の機会を与えていただいている環境に感謝し、

少しでもマシにならねば、と研鑽しています。

 

例えは適切かどうか分かりませんが、

ちょうど空手家が現役選手としてのピークを過ぎた30代で、

総合格闘技に転向して、

始めてタックルや関節技の基本を学んでいるような感覚、

とでもいいましょうか。

今はコロコロ倒され、ガンガン関節決められている状態で、

文章の基本からできていない状態ですが、

それでも悲観ばかりしているわけではありません。

 

「書く力」と「話す力」は無関係ではなく、

話してきた経験値は、書く力にも生かせるという手応えも

感じています。

総合格闘技の試合でも、

タックルや関節技の対処がそこそこできるようになれば、

長年培ってきた空手の技が有効に作用するようなもので、

今まで生きてきたものを活かさなければならないと思っています。

 

私の仏教講師の友人で、

英語で仏教を伝えると40代で奮起した人があります。

全く英語も聞き取れなかった彼が、

ここ3年あまりで、ベトナムやインドで

英語で説法するまでになりました。

(今もニュージーランドに招待されて行っています)

 

親鸞聖人は当時の平均寿命より上の50歳を過ぎられてから、

大著『 教行信証』のご執筆に取りかかられました。

『愚禿鈔』にいたっては83歳で書かれています。

 

「もう若くないから」となんか言っておれない、

親鸞聖人の教えをしっかり学んでいる、という

何物にも代えられない核になる部分があるのに、

それを伝える手段で、壁が高いから、今さらなんだし、などと

二の足を踏んでいる場合ではない、

常に挑戦していかねばならないと思っています。

 

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『羊と鋼の森』で心に残った一文

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精進(1)】


スポーツ、芸術、学問、どの世界でもそうだと思いますが、

自分と同期、あるいは年下から、

舌を巻くような技術やセンスや発想を見せつけられ、

「おれって才能ないのかな」と落ち込むことがあります。

特にその道で大成しようと頑張っている人ほど、

そういう葛藤は常にあるでしょう。

 

昨年本屋大賞に輝いた『羊と鋼の森』という小説では、

ピアノの調律師を目指す主人公が成長していく様が描かれますが、

励まされるセリフがありました。

「才能がないかも」とふと思うようなときに、

読み返したいセリフだなと思いましたので、

備忘の意味を込めて、記載します。

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僕には才能がない。

そう言ってしまうのは、いっそ楽だった。

でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。

少なくとも、今の段階で必要なのは、才能じゃない。

そう思うことで自分を励ましてきた。

才能という言葉で紛らわせてはいけない。

あきらめる口実に使うわけにはいかない。

経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。

才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。

もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがある

と気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。

 

 

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僧侶の自省を促すエピソード

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【法施(2)】


仏教では法を伝える人を「僧」といいます。

仏法をわかるように話しするのは並大抵ではありませんから、

法を伝える人の頭の中は、いつも

「どう言えば分かってもらえるだろうか」

の悩みでいっぱいです。

道を歩いていても、ご飯を食べていても、布団に入っても、

「どうしたら分かってもらえるか」

の悩みから解放されることはありません。

そういう悩みのない、「伝えたい」はウソです。

 

僧侶が他の職業に就く時間がないのは、

仏法をお伝えするにはどうしたらいいかで

精一杯だからです。

そしてそのようにして仏法を伝えてくれる人が

真の僧侶なのです。

 

こんな話があります。

ある有名な布教使がある寺へ説法したときのこと、

その寺の住職が布教使の寺の門徒の数を聞いた。

布教使が「七軒です」と答えると、

住職は気の毒そうに「それは大変ですね~」。

布教使は「はい、大変です」

住職「そうでしょうとも、そうでしょうとも」と頷いている。

この時の住職の気持ちは

「七軒では葬式や法事の依頼も少ないだろうし、

お布施も多く集まらないから、生活が大変でしょう」

という意味です。

 

次に布教使が住職に門徒の数を聞いたところ、

その住職、よくぞ聞いてくれたと自慢顔で

「いやたいしたことないですよ、たった二千軒ほどですよ」

と言う。

布教使はそれを聞いて、いたわるような表情で

「それは大変ですね~」。

住職それを聞いて、きょとんとした。

 

布教使はその後、こう言った。

「二千軒もおありだったらさぞ大変でしょう。

私はたった七軒ですが、間違いなく七軒の人達に

親鸞聖人の教えをお伝えしなければなりませんので、

どうお伝えしたら分かってもらえるだろうか、

日夜思い悩んでいます。

二千軒もあったら夜寝る時間もないくらい

大変でございましょう」

聞いた住職は己の浅ましい考えを恥じ、赤面した、という話しです。

 

僧侶はどうあるべきか、自省を促されるエピソードです。

真の僧侶として、生涯を全うしたいものです。

 

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