親鸞に学ぶ幸福論

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苦しみの元を断ち切って、真の幸福になる仏教の教えとは

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【生死勤苦之本(1)】


「あなたはなぜ苦しいのか」と人に聞けば、

返ってくる答えは十人十色です。

「金がないからだ」

「病気だからだ」

「こんな人と結婚したからだ」

「才能がないからだ」

「こんな性格だからだ」

皆、人には分からぬそれぞれの憂苦をかかえて生きているものです。

なんとかこの苦しみを無くせないか、せめて軽減できないかと、

日夜努力をしているのが、私たちの生活といえましょう。

 

ところが仏教では今挙がったような苦しみは

「苦しみの枝葉」であり、「苦しみの根元」ではない

と説かれています。

枝葉は切り取っても、また次々と枝葉が生えてくるように、

人生の苦しみも、一つ解決すれば、「一難去ってまた一難」で

また違う苦しみが生じます。

 

たとえば夫の暴力に苦しんでいた女性がいた。

「いっそのこと別れなさい、まだあなたは若いのだから」

と心配した周りが忠告すると、

「はい・・そうなんですが・・・」

と女性は煮え切らない態度で、なかなか一歩が踏み切れないでいる、

そんなケースはよく耳にします。

夫の暴力が原因で苦しんでいるなら、

別れればいいじゃないか、と思いますが、

なぜ奥さんは躊躇するのでしょうか。

それは離婚すれば、夫の暴力という苦しみはなくなりますが、

今度は、女手一つで二人の子供をどうやって育てていけばいいか、

という違った苦しみがのしかかってくるので、ためらうのでしょう。

 

たとえ思い切って離婚し、昼も夜も働き、

経済的になんとかなる目処が立ったとしても、

今度は仕事の無理がたたり、病気になってしまう、

という、苦しみがやってくることもあります。

 

苦しみの枝葉をやっとの思いで切ると、

今度は思わぬところから生えてくる。

その枝を切ると、また違うところが生えてくる。

枝葉を切るのも一苦労だし、どうせまた生えるのなら、

このまま目をつぶって生えたままにしとこうか、と

投げやりにもなります。

切っても生え、切っても生え、

色や形を変えて現れる苦しみをあれこれ対処しているうちに、

やがて力尽きて死んでいく、

それではまるで人間は苦しむために生まれ、

苦しむために生きるようなものです。

 

親鸞聖人は、苦しみの枝葉をどれだけ切っても、

人は苦しみから逃れられないことを明かし、

「苦しみの元を早く断ち切りなさいよ、絶対の幸福になれるから」

と、生涯かけて勧められました。

 

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近江商人に見られる自利利他の精神

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【自利利他(1)】

 

仏教に「自利利他」という言葉があります。

他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)となる、

他人も生かし、自分も生きる道が「自利利他」です。

 

室町時代、近江の商人は、蓮如上人から仏法を聞くようになり、

自利利他の教えを理念とした商売に心がけるようになります。

人の嫌がる商売をしない彼らは「近江商人は三方よしだ」と

遠隔地の行商先でも信用を集めていき、繁栄していきました。

「三方よし」とは、売り手よし、買い手よし、世間よし。

売り手も儲かり、買い手も満足し、

世間も高い評価をする商売のことです。

 

口で言うほど、「三方よし」は簡単ではありません。

大企業が、下請けの中小企業に取引停止をちらつかせて、

不利な価格で叩いて買い取る「下請けたたき」が社会問題です。

大企業も少しでも利益を出すために必死なのでしょう。

 

中小企業も、大企業との契約を勝ち取るために

「背に腹を変えられぬ」とばかりに

安価な不良部品を偽装する事件も起きています。

 

それで故障が相次ぐと今度は不良部品だったことの発覚を恐れて、

大企業と下請け会社が密談の上、リコール隠しをします。

やがてそれが明るみになり、世間中からの信用を失墜し、倒産する

という事態は何度も繰り返されてきました。

今もどこかで進行中かもしれません。

 

「自社も良し」「取引他社も良し」「世間も良し」を貫くのは、

口で言うほど簡単ではないので、

「三方よし」を貫く商売をする人は目立ち、信用され、愛され、

長期にわたって繁栄を遂げることでしょう。

 

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親鸞聖人は権力者嫌いだった。なぜ「為政者には近づくな」と言われたのか。

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【悪性(3)】


「権力者に協力してもらい、仏法を伝えたらいいではないか」

「権力者を使って伝えるくらいのバイタリティが必要だ」

という人があります。

そんな人に親鸞聖人は

「権力者に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと

決して考えてはならない」

と諫められています。

 

なぜ親鸞聖人は、権力者に近づくことを戒められたのでしょうか。

それは、権力者を利用しようとする人は、

ほぼ例外なく「ミイラとりがミイラになってしまう」からです。

今までの歴史がそれを証明しています。

 

権力者を利用して仏法を伝えようとした結果、どうなったか。

結局は権力者に利用されてしまいました。

世智に長け、権謀術数の世界で叩き上げてきた権力者の方が、

人を利用することにかけては、何枚も上手です。

権力者を利用しているようで、実際は利用されてしまいます。

気付かぬまま、いつのまにか権力者に利用され、

やがては、絶対曲げてはならない仏法の教えまでを、

ねじ曲げてしまうのです。

 

奈良、平安時代の伝教や弘法がそうでした。

二人は世智にも長け、権力者に近づいて利用しようとしました。

しかし、やはり利用されてしまってます。

当時の仏教の各宗派は、

貴族から財や土地の寄進を受けることを目当てに、

あるいは優遇された既得権益を守ってもらうために

出世や病気治しなど、貴族の願望に応える加持祈祷に

駆けずり回るようになります。

生死出離の道を求めて超然と生きるはずの仏教は、

一握りの権力者の欲望を満たす呪術と成り下がっていきました。

 

伝教や弘法は、権力者を利用して仏法を伝えようとした結果、

仏教をねじ曲げざるをえなくなり、曲げていきました。 

利用しようとしたら、利用されたのです。

 

親鸞聖人が、権力者を嫌われ、

私たちにも「近づくな」と戒めておられるのは、

仏法を絶対に曲げてはならない、正しく伝えていかねばならない、

という護法の精神からでした。

 

 

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権力を持たせてはいけないタイプとは

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【悪性(2)】


「権力」とは、「自分の思い通りにする力」のことです。

権力がない人は、自分の思い通りには事は運びません。

何かと周りからも反対され、数々の規制も受け、

思った通りには行動できません。

 

ところが権力者のやることには、周りも悪く言わず、

むしろ称賛され、進んで協力する人も多いので、

思った通りにできます。

邪魔する法の規制があれば、それを改訂して、

自分の望むことを実現させることもできるのが権力です。

 

思い通りにしたいと志すその人の「思い」が正義ならば、

権力を持つのは良いことではないかとの主張もありますが、

私たち人間の「思い」とは、「正義」と呼べるような、

人に誇れる立派なものでしょうか。

人の物でも自分の物にしたい、

邪魔者はいなくなってほしい、

優れた人を見ると、失敗してほしいと願い、

不幸な人を見ると、面白がる。

そんな醜い「思い」がうごめいているのではないでしょうか。

 

「いや、おれはそんな醜いことは微塵も思ってない。

私利私欲は一切ない。100%正義を思う心しかない。

だからオレに権力をくれ」

と心底から言っている人がいたら、

自分の醜い心に気付いてもいない人なのだから、

自制する心もないでしょうし、

余計そんな人に権力を与えるのは怖いです。

 

せめて己の醜い本性を見つめ、権力の魔力を知っており、

危ないものを手にする覚悟のある人でないと、

権力を持つ上の立場に立ってはならないでしょう。

 

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権力の魔力をよく知っておられた親鸞聖人

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【悪性(1)】

 

親鸞聖人は権力者嫌いで知られます。

「権力者に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと

決して考えてはならない」

と、お弟子に向けたお手紙でクギを刺されています。

権力者の実態を親鸞聖人がよく知っておられたからでしょう。

 

人は権力を持つと、豹変します。

秀吉も、毛沢東も、レーニンも、

あれだけのことを成し遂げた人ですから、

「この人にならついていきたい」

と多くの人を魅了する信念、才覚、努力など、

類まれな人間的な魅力にあふれた人物だったと思います。

 

ところが権力を握り、思い通りに周りの人が動くようになり、

自分の言動が誰にも咎められず、賞賛されることが多くなると、

いつしか尊大になり、批判を絶対許せぬ体質になり、

人の心にも無神経で、「残酷な人」に変貌してしまうのです。

 

どんな傑出した人物も、そうさせてしまう、怖ろしいものが

「権力」です。

権力の恐ろしさを知って気を付け、人にまで諭している人も、

権力を持てば、例外なく変わってしまいます。

 

それはなぜか。

「権力が人の本性をむき出しにさせるから」です。

私たち人間はみな、とても人には言えない恐ろしい本性を

心の中に隠し持っています。

人の物でも自分の物にしたい心。

邪魔者は死んでくれたらいい、と思う心。

優れた人を見て、失敗してくれと願う心。

不幸な人を見て、クスクス笑う心。

そんな心が時に親、兄弟、友人にまで向きます。

 

しかしその本性を、とても口や態度には出せません。

口にすれば「お前、そんなことを思っていたのか」と

皆からあきれられ、嫌われ、会社ならクビになり、

家庭なら勘当や離婚だし、まともな社会生活を送っていけません。

願望をそのまま行動に移したら、これまた大変です。

たちまち窃盗や殺人などで刑務所に入れられます。

 

そこで本性を隠して、好かれるように、ほめられるように、

生活しやすくなるように努めているのが、多かれ少なかれ、

すべての人間の偽らざる姿でしょう。

 

ところが権力者は本性をむき出しにしても、咎められません。

人の物も、自分に献上せよと迫ることもできる。

邪魔者は殺すことができ、

嫌いな人を失敗させるように仕向けることもできる。

不幸な人を見て、クスクス笑っても、

誰も不謹慎だと咎める人はいない、

取り巻きは一緒に笑ってくれる。

だから人間は権力をもつと、本性があらわになり、

どんどん悪くなっていきます。

人のことを尊重しなくなり、

その人の考えや仕事に敬意を持つことがなくなります。

自分の言うことを聞かない者を許せない気持ちが必ず増大します。

これは権力のもつ魔力といえましょう。

 

親鸞聖人はご自分の心を知っておられたからこそ、

権力を持つことの恐ろしさをよくよく分かられたのでしょう。

 

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仏教の説く幸せとは、比較して乱高下する幸福ではない

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【相対の幸福(3)】


誰と比較するか、何を比較するか、によって

感謝したり、うれしくなったり、

不満を覚えたり、さびしくなったりする、

そんな私たちの幸福の実態を、先回と先々回、話しました。

比較する対象は、決して他人とは限りません。

過去の自分と比較して、幸福、不幸を感じることもあります。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』に登場する

カテリーナ・イワーノヴナは、貴族の家柄でしたが、

結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、

娘を売春までさせて生計を立てている女性です。

「今じゃ想像もできないけどねえ、おじい様の暮らしてたころは、

それはそれは楽しく、華やかだったもんだよ」

誰彼となく、昔の高貴な暮らしを語っては、

「なんで今はこんな目に」と

今のわが身の不幸を呪って、さめざめと泣くのです。

 

カテリーナのように昔の贅沢な生活が忘れられずに苦しむ人に、

自己啓発やコーチングなんかでは

「過去をひきずるから不幸になるんだ、今を生きるのが大事だ」

とアドバイスするのでしょうが、

それも口で言うほど簡単ではなく、

本人も忘れようとしても、どうにも昔と比較してしまい、

今が惨めに感じられてしまうのでしょう。

相対の智恵しか持たない私たちに、

果たして純粋に「今」だけを見つめることができましょうか。

 

好きで好きで仕方なかった人、

その人が近くにいるだけで「ああ、幸せだな」と思えた人。

そんな人と死に別れすると、その後の人生がずっと辛くなります。

何をしていても、その人とのことを思い出し、

「あの人はもういないんだ」と胸が締め付けられる。

過去に心を置いてはいけない、今を歩こうと決意し、

新たな人と付き合ってみるのですが、

何かと「あの人とは違う」と比較してしまい、

寂しくなってしまうのです。

よく言われる「亡くなった人には勝てない」とは、

このことでしょう。

 

「不幸な境遇にあって、

かつての幸せをおもうほど悲惨なことはない」

ダンテの『神曲』地獄篇の言葉です。

あまりに貴重な過去は、現在の地獄を余計惨めにさせます。

 

では、人と比較したり、過去と比較しては、

幸福感が乱高下する、相対の幸福しか知らない私たちの人生に、

絶対の幸福、と言えるものはあるのでしょうか。

なれるのでしょうか。

仏教はそのことについて詳しく教えられています。

 

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幸福度は数値化できない。一瞬で変えることもできる。

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【相対の幸福(2)】

 

幸せは心の問題だから指標では表せません。

「おれの幸せ何グラムくらいかな」

「おまえの幸せ、何センチ伸びたね」とか

数値ではもう決められません。

モノなら数値化できますが、

幸福は心のことだから客観的に測れません。

幸福は自分の心が、誰と比較するか、何と比較するかによって、

変動します。

そういう幸福の特徴から、

仏教では「相対の幸福」といいます。

 

一例を挙げましょう、

職場で10人のチームの一員に選ばれ、

一つのプロジェクトに取り組み、利益をもたらした。

その後、部長に一人だけこっそり呼ばれ

「君はこのたびのプロジェクトで頑張ってくれた。

ありがとう。ささやかだけど、これで美味しいものでも食べてくれ」

と封筒を渡された。

中を空けてみると、1万円入っていた。

部長が自分のことを認めてくれたことがうれしく、

自分へのご褒美で、美味しいものを食べた幸せな一日だった。

 

ところが数日後、実はチーム全員、

部長から、感謝の言葉と封筒をもらっていたのを知った。

ただ封筒の中身が違った。

なんと自分以外の9人は、5万円貰っていたのだ。

それを知った瞬間、今までの幸福感はどこへやら、

「なんでオレだけがこんなに冷遇されなければならないのか」

と不満になり、

「何かオレだけ失敗でもしたかな」

と不安にもなり、ブルーな気持ちに支配されてしまった。

 

この話で登場する「一万円」そのものは、

幸福でも不幸でもありません。

「誰も貰っていないのに、自分だけ渡された一万円」は幸福ですが、

「皆が5万円貰ったのに、自分だけ一万円」だったら、不幸です。

自分の心が、誰と比較するか、何と比較するか、によって、

一気に幸福になったり、不幸になったりします。

 

これはお金や評価だけでなく、何においても当てはまる、

幸福の特徴です。

 

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