親鸞に学ぶ幸福論

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キリのない道をキリがあると思って歩き続ける悲劇

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【流転輪廻(1)】


仏教では、迷いを重ねる私たちの姿を、

『流転輪廻(るてんりんね)』といいます。

ゴールのない円周を「がんばれ」「がんばれ」と連呼され、

ひたすら回り続けるランナーさながらに、

生きる目的を知らないまま、ただ「生きろ」「生きろ」と言われて

生きる姿が『流転輪廻』です。

 


しかもその悲劇的なことは、同じところをグルグル回っていながら

本人に同じところを回っている自覚がなく、

前に向かって進んでいるように思い込んでいることです。

 


ちょうど一本の直線がある方向に果てしなく続いているのを見て、

一人の男が、この直線に沿って進んでいけば、その先には何があるのだろう

と辿っていったとします。

ところが実はその直線に見えたその線は、大きな円だったのです。

人間サイズから見ると、円の一部は直線にしか見えないので、

直線だと思い込んだ男はどこどこまでもまっすぐ辿って行く。

その結果、男はどうなるか。

やがて反対側から元の位置に戻るだけなのですが、

そのことに気づきません。

男はゴールなき円周を回り続け、

やがては行き倒れになるだけです。

 


平らな面がどの方向にも果てしなく広がっているのを見て、

一人の男が、この地平線のその先には何があるのだろう

と一方向に歩いて行った。

ところがその果てしない平らな面に見えたのは、

実は大きさの球の表面だったのです。

人間サイズから見ると、球の一部は一見、平面にしか見えないので、

平面だと思ってひたすら男は歩いていった。

その結果はどうなるか。

やがては反対側から元の位置に戻ってしまうだけで、いずれは行き倒れです。

 


「前向きに頑張って進もう」

「あきらめなければこの先に必ず何かあるんだ」

「せっかくここまで進んできたんだから、ここであきらめられるか」

「必ず何かあるはずだ」

と人間はひたすら前進しているつもりですが、

高所大所から俯瞰している仏の眼からすれば、

実は同じところを回っているだけ、なのです。

こんな人間の実態を「流転輪廻」と説かれています。

 


この流転輪廻からの出離が仏教の目的です。

 

 

 

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カースト制度を否定されたブッダの真精神を受け継ぎし人

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【御同行(1)】


悪名高き「カースト制度」は、インドにはびこる身分差別です。

その歴史は古く、約2600年前のお釈迦さまの時代からあり、

今日にいたるまでインドの多くの人々の心に根深く巣喰っています。

カースト制は大きく分けると

「婆羅門(バラモン)」「刹帝利(セッテイリ)」「吠舎(ベイシャ)」「首陀羅(シュダラ)」

という4つの社会の階級があり、

婆羅門(僧侶)と刹帝利(王族)は、ほとんど同等の尊い身分とされますが、

吠舎(庶民)はそれらに対して、婚姻はもちろん、交際から職業までも禁じられ、

首陀羅(奴隷)に至っては、直接それらと言葉も交わされぬほど蔑視されています。

 


現代のインドでは、表向きには法律でカースト差別は禁じられているものの、

今もインドで発生する事件の多くが、カーストなどの階級差別による事件です。

「カースト越しのラブレター事件」では、

15歳の少年が自分よりも下位の階級の少女にラブレターを送ったところ、

相手と同じ階級のメンバーに拉致され、髪を刈られ、市内を引きずり回された後、

少年の母の命乞いも空しく、線路に投げ込まれ少年は死亡しました。

 


カーストでは違う階級同士の結婚が許されておらず、

違う階級の人と駆け落ちをしたり恋をした場合、

「名誉殺害」といって、自分の家庭の名誉を守るために、

自分の親や親族によって殺されてしまうこともあります。

 


今日の日本でも、民族や人種差別の不快な情報を目にしますが、

インドと比べればかわいいものです。

ましてお釈迦さま当時のインドは、どれほどのものだったでしょうか。

 


お釈迦さまのおられた当時、このようなことがありました。

お弟子の一人である阿難が、ある夏の暑い日、祇園精舎に帰る途中、

あまりにのどが渇いたので、木の陰で一人の若い女が手桶に水をくんでいるのを見て、一杯の水を求めました。

阿難に言葉をかけられた娘は、赤面しながら小さな声で、

「私は卑しい素性の女です。あなたのような尊い身分の方に上げられません」

と、断ったのです。

娘は、カースト制で最下層の「首陀羅」であったのです。

 


阿難は、優しく娘を慰めて、

「人間は、生まれながらに貴賤が定まっているのではない。

仏の教えは、一切の人々は生まれながらに平等であり、自由だと教えられているのです。

どうか遠慮なさらずに、私に水を一杯布施してください」

と少女を励ましています。

 


今日もなお、インドの社会に強い影響力を持つカースト制は

お釈迦さま当時は、まさに絶対的なものでした。

その時代にあって「人間は生まれながらに貴賤が定まってはいない」と

お釈迦さまが万人平等を宣言されたことは、

どれほど世に衝撃を与えたことでしょう。

 


このお釈迦さまの真精神を受け継がれたのが、法然上人・親鸞聖人です。

当時の日本の仏教は、奈良・平安時代を通じて、

権力者の政治体制の安泰を祈るのが役目となっていました。

大仏で有名な東大寺は、国家を護るために時の天子が造ったものです。

奈良の興福寺も藤原家の繁栄を祈る寺でした。

比叡山の延暦寺も、京都に都を移すときに、京の都を護るために創建されています。

いずれも支配階級である貴族のための教えで、庶民は救済の対象から外れていたのです。

極楽浄土へ往けるのは戒律を守る修行僧か、

寺に財物を寄進する貴族だけ、とされていました。

肉を食べ結婚生活する平民は、戒律を守ることはできません。

貧しくて寺に納める物もありません。

庶民は、最初から切り捨てられていた、存在だったのです。

 


そんな中、それは決して真実の仏法ではないと宣言されたのが

法然上人であり、親鸞聖人でした。

両聖人は、当時虐げられていた猟師、商人、遊女など

社会の底辺に生きていた人たちにも、一切分け隔てなく接せられ、

弥陀の救いを切々と説法され、万人救済の道を切り開かれたのです。

 

 

 

 

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西郷が語る「国家の大事を成し遂げる人物」とは

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【出世本概(1)】

 


「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は、始末に負えない。

またそんな者でなければ、国家の大事を成し遂げることはできない」

西郷隆盛の言葉です。

 


体制や権力、大企業と果敢に戦ってきた人が、

目の前に積まれたカネで節を曲げてしまうことが過去の歴史でどれだけあっただろう。

どれだけの人が「官位」という餌をぶら下げられ、

しっぷを振って従順になってしまったか。

「やめないとお前の醜聞を世間に流すぞ」と脅され、

引き下がった人が何人いたことか、

「これ以上その道を行くようなら、命の保証はないぞ、殺すぞ」

とすごまれ、断念してしまう人がどれだけいたことか。

 


そんな人ばかりなら、体制側の権力者は安心しておれます。

権力と財力にものをいわせて、

反対するものはカネか官位で釣るか、

醜聞や殺害で脅せばいいのですから。

 


権力者が恐れるのは、いかなる手段を用いようが、志を曲げない者です。

西郷隆盛の言う「手に負えない恐ろしい者」です。

なんとかその男の前進を阻もうとして、

どんな大金を積んでも「要らん。どけ」、

どんな役職をちらつかされても「うるさい、どけ」、

そのためにどんな誹謗中傷を受けようとも「かまわん」

殺されても「そうなってもいい」と突き進む者です。

 


過去の歴史をひもとけば、そんな者の手によって、歴史は動いてきました。

西郷が言った通り「そんな者でなければ、天下を動かす大事をなすことはできない」からです。

 

 

 

 

 

 

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人間関係で悩まない人と、いつも悩んでいる人とでは、考え方に大きな違いがある

 

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【御同行(1)】


もう20年前のことですが、アメリカ滞在中、近くにベトナム料理店があり、

よくフォー(米麺)を食べたのですが、パクチーが入っていました。

まだ多くの日本人がパクチーを知らない時代です。

これがない方がおいしいのにな、と思って食べていたのですが、

周りのベトナム人はさらにパクチーをどっさり入れて食べています。

当初は味覚が日本人と違うんだろうなと思っていたのですが、

その店に通って一年も経つ頃には、パクチーが少ないと物足りず、

どっさり入れるベトナム人の気持ちが分かるようになりました。

 


郷に入ったら郷に従え、で、あえてその国の食文化に従って挑戦してみると、

新たなおいしさを発見できるという経験はその後もいろいろ学びました。

 


これは食事だけではなく、会話やマナー、仕事の進め方やものの考え方なども、

違う価値観を持つ人と接すると、多くの気づき、学びがあります。

 


もちろん違う価値観の人と接すると、いろいろな場面でストレスを感じます。

しかしそれが嫌で、同じ価値観を共有する人だけで固まり、

他の価値観を排斥するのは、学びのチャンスを自ら放棄したことになりますし、

さらに言えば、嫌いな人、敵を自分で作ってしまうのです。

 


同じ価値観を持つ人だけで集まっても、

やがてその集まりの中でも価値観が合わない人が現れますので、

そのコミュニティー内でも、また嫌いな人、敵を作ることになります。

そのうち職場でも、家庭でも、趣味のサークルでも、

何かと摩擦が絶えなくなり、気苦労の多い人生を送ることになってしまうでしょう。

「なぜ私はどこにいっても嫌いな人が現れるのか」

「いつも敵がいて疲れてしまう。どうしてだろう」

という人は、このあたりに原因があるのかも知れません。

 


慶応大学大学院の前野教授が、人間関係の幸福に関する研究で、

友人関係の多様性が幸福に影響する、という研究結果を発表しました。

異なる職業、国籍、性別を持つ多様な友達を持っている人の方が幸せである傾向があったのです。

そしてその相関は、友達の数と幸せの相関よりも強いことがわかりました。

 


異なる職業、国籍、性別を持つ人を遠ざけず、嫌いにならず、

むしろ大いに学ぼうと、心を開いていく人の方が、

周りからも好かれ、慕われ、世界観も広がり、幸せになっていくのでしょう。

 

 

 

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ハムレットの苦悩は実に本質的だ

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【無明の闇(1)】


シェークスピア『ハムレット』の

「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」のセリフは有名です。

しかしその先に続く言葉を知る人は、そんなに多くありません。

ハムレットの台詞はこう続きます。

「もし、死後の不安がこころを惑わせなければ、

誰がこの嫌な世に汗を流してうめきながら、

このような重荷を忍んでいようか。

だが、死の国は、まだ誰も還ってきた者のない、見も知らぬ国だ。

その不安があればこそ、知らない国へ行くよりは、

現在の苦難を忍ぶ方を選んでしまうのだ」

 


屈辱に耐えても生き続けるべきか、それとも戦って死ぬべきか、

煩悶するハムレットでしたが、問題の核心は死後の不安だと口にするのです。

 


自死をまじめに考えた人の中で、このハムレットと同じ疑問にぶつかる人はあります。

「自殺した人の魂は暗いところに彷徨うという人もいるが、どうなんだろう」

死んだら無になって今の苦しみから解放される、と思っているが、本当に無なんだろうか」

 


私が、仏教に教えられている「無明の闇(死後の分からない不安)」を話しをすると、

「自殺を考えたときに、このことはよく考えました」

と言われる方が今までも何人もありました。

 


中東で自爆テロで死ぬイスラム信者は

「聖戦(ジハード)で死ねば、天国に行ける」と思えばこそ、

爆弾を抱えて、ああいう死に方ができるのですが、

あの人たちに問い質したいのは

「もし行けなかったら、と考えたことはないですか」ということです。

そんなことを訊いても認めないだろうし、

激高するかも知れませんが、

内心深く、そういう疑問・不安があるに決まっています。

その不安に素直に向き合えば、仏縁を結ぶ機縁になるかもしれません。

 


ネット上ではちょっと知られた僧侶がこう主張していました。

「生まれた物は皆、土へ還る。

痛みや苦しみから解放されて土に還っていく。

遅かれ早かれ皆同じだ。そうして命は巡っている。

そう受け入れればいい」

 


これもその僧侶に訊きたいのは、

「『私の肉体』はあなたの言う通り、

火葬場の煙となり、やがて土に帰るのはわかるが、

『私』がそうかとなると話は別だと思うが、

なんで「無」だと断言できる?」

ということです。

 


死後は無だ、などと言われていない釈迦の教えに奉じる僧侶なら、

なおさら聞き質したいですね。

 


死んだら無 になるのだったら、

「生きたい人は生きたらいいし、死にたい人は死んだらいいのが人生」

という結論になり、

何かに命を散らすのも、さして問題にすることもなくなります。

人生が苦しくて仕方ないなら、そんな堪え忍ばなくても、

さっさと終わりにして無になればいいとなります。

無になれば苦しみはなくなるのですから。

 


もし死んで天国に行けるのなら、なおのこと、自殺は賢い選択になります。

この世でつらい思いをしなくても、

早く、その楽しい天国とやらに行けばいいのですから。

 


なぜ人は死を恐れ、死をできる限り遠ざけようと懸命なのでしょうか。

それは人類が心の底で、死んだらどうなるかわからぬ底知れない不安におびえているからです。

この不安を仏教では『無明の闇』といい、

生全体に暗い影を落としている元凶だと、釈迦は説かれています。

 

 

 

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歎異抄に魅了された司馬遼太郎と西田幾多郎

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仏教書の中で最も多くの人に読まれてきたのが『歎異抄』です。

その流れるような文章の美しさから

『徒然草』『方丈記』と並び、「日本三大古典」に数えられます。

その衝撃的な内容、哲学的な深遠さは、読む人を魅了してやみません。

 


魅了されている一人が国民的歴史作家、司馬遼太郎氏です。

歎異抄について、かって氏が講演で述べている箇所がありました。

ーーーーーーー

私は兵隊に行くときにショックを受けました。

まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。

いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、 

死ぬことがよくわからなかった。

自分は死にたくないのです。

ところが国家は「死ね」という。

死んだらどうなる かが、分かりませんでした。

人に聞いてもよく分かりません。

仕方がないので本屋に行きまして、 

親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。

非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。

人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、

何かうそだなと思うことがあります。

『歎異抄』にはそれがありませんでした

ーーーーーーー


時代考証、現地の歴史を調べ上げて、

徹底したリアリズムを追求する司馬遼太郎なればこそ、

多くの書に「空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思う」

と敏感に察知するのでしょう。

 


毎年流行っては廃っていく「○○心理学」や「○○の思想」などを読んで、

「空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思う」

と感じられる人は案外多いと思うのですが、

そんな思いを持っている方が歎異抄を読まれると、司馬遼太郎のように

「『歎異抄』にはそれがない」「真実のにおいがする」

と感じられるのではないかと思います。

 


歎異抄には親鸞聖人の言行が生き生きと活写されています。

歎異抄を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、時に身震いさえ感じます。

きっと司馬遼太郎氏はそうだったのでしょう、こうも書き残してます。

「鎌倉時代というのは、 一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった」

鎌倉時代に起こったあらゆる事件、そこにまつわる様々な人物に精通し、

日本史上における鎌倉時代の位置づけなど多角的に論じられる氏が一言で

「鎌倉時代は偉大な時代だった」と断じている。

しかもその理由が「だって親鸞を生んだ時代じゃないか」と言っているのです。

 


さらに氏は言います。

「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」

 


司馬氏と同じようなことを日本三大哲学者の一人、西田幾多郎も言っています。

第二次世界大戦末期、空襲の火災を前に言った言葉です。

「いっさいの書物を焼失しても、『歎異抄』が残れば我慢できる」

 


では「歎異抄」にはどんなことが説かれているのか、

その核心をひもとく記念講演が5月に予定されています。

歎異抄に魅了され、その神髄を知りたいと志す人が、

日本中はおろか、世界中から集う講演で、

約1万人の来場者が予定されています。

私も指折り数えてその日を待ち望んでいます。

どなたでも聞ける講演です。

どんな講演か、詳しく知りたい方は、私のメールアドレスまで『講演希望』との題名で送ってください。

kikutani@waseda.ne.jp

詳細をお知らせいたします。

何かでごまかさなくては生きていけない虚しさの正体とは

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【無明の闇(1)】


「人間から気晴らしを除いたら、不安と倦怠だけになる」

とはパスカルの言葉です。

テレビも、ゲームも、読書も、おしゃべりも、

何かしていないと虚しく、退屈で、不安でやりきれないからしているだけの、

気晴らしの一種だと言っています。

 


駅のキヨスクで雑誌が売れたり、プラットフォームでスマホゲームにいそしむのも、

ほんの電車を待つ数分の手持ちぶさたに耐えられないから、ともいえます。

「つまんねえ」「なんかいいことない」という若者の声は

この不安、退屈から助けてくれ、とのうめきです。

 


これをB・ラッセルは

「趣味や娯楽は、たいていの場合、根本的な幸福の源ではなく、むしろ現実からの逃避となっている」

と言いました。

 


鋭敏な哲学者たちがぼんやりと気付いている、これら「人生の虚しさ」「漠然とした不安」を

仏教では「無明の闇」といわれます。

 


仏教では、趣味や娯楽だけでなく、

政治・経済・科学・医学・芸術・文学・宗教・法律・スポーツなど、

人間の一切の営みは、この人生の虚しさをごまかす努力だ、と説かれます。

国会で論じていることも、ノーベル賞級の研究も、ルーブル美術館の作品も、

世界中の宗教儀式も、オリンピックも、宇宙旅行も、国家間の戦争も、

あれら全部、人生の虚しさをいかに目を背けるか、のために存在している、だなんて。。。

身もフタもない、衝撃的な釈迦の教えだと思われませんか。

 


漢の武帝が「歓楽極まりて哀情多し」と詠んだのも、人生の虚しさを感じてのことでした。

苦労してようやく手にした歓び、楽しみなのに、

この虚しさは何だろうと、自己の胸の内を告白しています。

 


ビートルズのジョン・レノンはこのように言っています。

「ビートルズは、欲しいだけの金を儲け、好きなだけの名声を得て、そして何も無いことを知った」

 


夏目漱石も死の前年、こう記しています。

「今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した」

 


どれだけのことを成し遂げても埋めることのできない、この得体の知れない虚しさを

どうすれば晴らすことができるのか。

仏教の目的はそこにあります。

 

 

 

 

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