親鸞に学ぶ幸福論

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娑婆とは仏教用語でサハーと読む。その意味とは

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【娑婆(1)】


刑務所での刑期を終えた人が出所し、

「やっぱり娑婆の空気はいいもんだ」などと使う「娑婆(しゃば)」という言葉、

元来は仏教の言葉で、刑務所の外という意味はどこにもありません。

私たちが生きている「この世」を指す言葉です。

昔のインドの言葉「サハー」、漢字で音表したのが「娑婆」、

中国の言葉で「堪忍土(かんにんど)」と訳されます。

 

どうして、私たちが生きている世界を「堪忍土」というのかというと、

この世に苦しみ悩みが絶えず、常に堪え忍ばねばならない世界だからです。

 

好きな人と別れなければならないこともあります。

いつまでも一緒にいたくても、お互い生身の身体です、

いつか片方が死に、別れが訪れます。

生き別れもあります。

こちらが別れたくなくても、相手の心が離れてしまえばもう一緒にいられません。

「いやだ。別れたくない」と泣き叫んだって、どうしようもありません。

 

逆に顔も見たくもない相手でも、仲良くせねばならないこともあります。

上司だったり、姑だったり、近所の人だったり、その相手はいろいろですが

どれだけ別れて清々したいと願っても、

その職場や家庭に身を置く以上、離れることは許されません。

 

愛する人に近づきたい気持ちを忍び、

嫌いな人から遠ざかりたい気持ちにも耐え、

みな涙を隠して生きています。

思うままに生きている人は誰もいません。

それは一党支配の独裁者も、超大国の大統領とて同じです。

みな娑婆世界に住む苦悩の衆生なのです。

 

 

 

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キレる高齢者問題。気をつけるべきは瞋恚

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【瞋恚(1)】


コンビニのレジで60~70代の男性が、

10~20代の女性店員に当たり散らしている場面を見たことがあります。

店員も何で怒られているのかわからない様子で戸惑っていて、

店長らしき人がなだめにかかりますが、うまくコミュニケーションもできず、

耳が遠いせいか、どなる声は大きいし、

その場にいた客の人たちもマユをひそめていました。

こういうのが最近言われる「キレる高齢者」というのでしょうね。

 

人間は誰でも歳を取っていきますが、

そうなった時に特に気をつけなければならないのは『怒り』です。

年を重ねると丸くなり、寛容になるかと思いきや、実はその逆で

歳を取るほど短気になる傾向があるようです。

 

高齢者が怒る要因はいろいろ挙げられますが、

脳科学的にもいえることです。

怒りの感情は脳の大脳辺縁系で作られるのですが、

それを抑制するのが前頭葉です。

ところが年を重ねると前頭葉の機能が衰え、

ストッパーの役割が十分に果たせなくなるのです。

 

急速な時代の変化についていけないストレスも影響しています。

ますます企業も個人も変化が求められる時代なのに、

高齢者は昔の成功体験に頑固にしがみつき、

旧態依然とした方法にこだわってしまいます。

そこをなんとか理解を求めて話をするも、

耳が遠くなったり、人の話がうまく理解できなくなっているので、

イライラして、うるさい、と返ってきて、話が続けられなくなります。

 

スマホのSNSで人付き合いをし、

パソコンで消費行動をする今日の社会形態も

相当高齢者にストレスを与えています。

 

若者の高齢者に対する接し方が

昔のように長幼の序を重んじる感覚とは違ってきていることも

腹をたてる要因になっています。

「礼儀がなっていない」「無愛想な態度でいるんじゃない」

と当り散らすケースはよくあります。

 

カルチャーサークルの講師から「会社で高い役職にあった人は扱いづらい」と聞いたことがあります。

退職後、新たな居場所を求めて趣味のサークルに入ってくるものの、

やたらに仕切りたがり、その割りには実際の活動では汗をかこうとはせず、

皆から煙たがられるのだとか。

以前の肩書きやこんな仕事をしてきたというプライドがあるのか、

本人としては「ただのおじいさん」扱いされるのが我慢ならないらしく、

周囲の人たちと軋轢を起こして孤立するのだそうです。

 

仏教でも「怒りの心」は108の煩悩の中でも

特に私たちを苦しめ悩ませる三毒の煩悩の1つに数えられ、

お釈迦様は「気をつけなさい」と重ねて怒りの恐ろしさは説かれています。

自分では自覚なくても、怒りやすくなっているのですから、

よくよく自制していかねばなりませんね。

 

 

 

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仏教の眼施とはどんな意味か解説する

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【布施(3)】


「眼施(げんせ)」という言葉があります。

『雑宝蔵経』(ぞうほうぞうきょう)に説かれる「無財の七施(むざいのしちせ)」の一つで、

「眼を施す」「眼を与える」という親切です。

といってもアイバンクのことではありません。

温かいまなざしで人と接することを「眼施」というのです。

 

「人は見た目が9割」ともいわれるので、

頭のてっぺんから足のつま先まで気を抜けませんが、

特に人間が注視するのは「顔」です。

「顔色を伺う」というくらいだから顔は重要です。

では、顔を見ていると言っても、どのパーツが特に見られているかというと

「眼」なのです。

それはなぜか。

「眼」にその人の感情や人柄が出るからです。

 

「眼は口よりも物を言う」

「眼は心の鏡」と言われるように、

眼にはその人の心が現れます。

たとえ笑顔していても「目が笑ってない」とわかってしまいます。

「目を尖らせる」

「据わった目つき」

「咎めるような目」

「目が泳ぐ」

「哀れみの視線」

「決然たる瞳」

「目がハートマークになってた」・・・・・・

これらの表現の数々からも、私たちが人と接する際、

その人から発せられる言葉よりも、

その人の眼でその人の心を測っているのがわかります。

どうしても眼は心に現れてしまうからです。

 

ということは温かいまなざしで人と接する「眼施(げんせ)」とは、

そう意識して眼を演じなさいというのではなく、

温かい心で人と接しなさいという勧めだとおわかりだと思います。

 

温かい心で人と接するままが、眼に和やかな光がたたえられ、

それがどんなにこそ人をなぐさめ、励ますことでしょう。

ひとみに現れた小さな親切が、接する人の大きな幸せの栄養源になっていくのです。

 

 

 

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日本に滞在する外国人との接し方で思うこと

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【布施(2)】


イタリア文学者の須賀敦子さんは、

日本とイタリアの文学作品の翻訳を通して、

両国の交流に多大な貢献を果たした人ですが、

意外にも学生時代はフランスに熱い憧憬があり、

フランス文学を学ぶために留学したそうです。

そんな彼女がどうして20代半ばにしてイタリア文学に転身したのか、

その理由をエッセイに明かしていました。

 

留学先のフランスでは絶えず自分の話すフランス語をけなされ、

そのうちコミュニケーションを取るのも萎縮してしまったそうです。

ところがその後、イタリアへ移り住むと、

わずか二か月で、日常に不便の無い程度に話せるようになったとのこと。

その理由は、彼女が新しい表現を覚えるたびにイタリア人が、

「ブラーヴァ(うまい)」とほめてくれ、

イタリア語を話すのが楽しくなったからだったそうです。

フランス人は一人の日本人留学生のしゃべるフランス語をダメ出しし続けたばかりに、

多くの日本文学に接する機会を失ってしまったということですね。

 

この話を読んだとき、私もアメリカ滞在中の記憶が思い返されてきました。

郵便局で英語がうまくしゃべれない私に、

郵便局員が露骨にイライラした顔をしたので、

その郵便局に行くのがおっくうになってしまったこと。

日系人で日本語の話せる方と仲良くなり、

その方の自宅のホームパーティーに招待されたものの、

パーティー会場にその人以外に日本語が通じる人は誰もおらず、

英語の会話に交じれぬ私は手持ち無沙汰になり、

疎外感を感じ、早く帰りたくなったこと。

これらアメリカでの経験は私にとって、

ちょっとした苦い思い出の一つになっています。

 

そういう経験があるからでしょうが、今でも

外国人がウェイトレスの注文やスーパーのレジなどでミスしたり、まごまごしているのを

イライラした顔で応じたり、語調が荒くなっている日本人を見ると

同じ日本人として恥ずかしいですし、諫めたくなります。

そういう言動の一つ一つが、日本と彼らの母国との壁を築き、

お互いの理解を妨げることになっていることを感じます。

 

一方で焦りながら対応している外国人には応援したい気持ちになります。

言葉も文化も慣れない日本に来て、

ストレスを感じることも多いだろうに、

精一杯がんばっているのですから、

日本に来て良かった、と感じてほしいなと思います。

 

 

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嫌いだった父親の気持ちが今はわかる

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【布施(1)】

 


夫のことを『旦那(だんな)』といいますが、

そもそもなぜ夫のことを「だんな」と呼ぶようになったのか、

実は元来は仏教由来の言葉なのです。

「旦那(だんな)」「檀那(だんな)」とは、『布施』のこと。

『布施』とは、人に財物などを施したり、幸せを念じて教えを説くことを指し、

仏教で教えられる6つの善い行い(六度万行)(六波羅密)の一つに数えられます。

昔のインドの言葉では「ダーナ」といい、「与える」という意味です。

 

お釈迦様がインドで「ダーナをしなさい」(人に幸せを与えなさい)と勧められました。

その「ダーナ」を中国の人が漢訳したのが『布施』です。

夫のことを「旦那(だんな)」と呼ぶのが、

この「ダーナ」からきているのは、

夫は家族を支え、妻子を守る、いわゆる「与える人」だからです。

 

40代のAさんは「最近よく自分が中学、高校時代の頃の父親の姿を思い出す」と語りました。

「あの頃の父親の年齢に自分が近づいたからでしょうね。私にはあの時の自分と同じく、中学生の息子がいますし」

その頃のAさんの目に映るお父さんの姿は、

夜9~10時頃に帰宅し、居間で晩酌しながらテレビを見て、不機嫌そうにしている姿でした。

Aさんはそんなお父さんのことが好きになれなかったそうです。

父が帰るととたんに居間は居心地悪い空間になり、

子供たちのお茶の間での団らんタイムは終わり、

父親が着替えている間にAさんと兄弟は

そそくさと子供部屋に行くのでした。

 

そんなある日、家族でフェミリーレストランに行った時のこと。

たまたま父親が仕事関係の人と出会ったらしく、

家にいる時とは別人のように相手にニコニコと近づき、

ハハハと声を上げて笑いながら相手と話し始めるのです。

「ふだんろくに受け答えしない寡黙な父が?!」

その光景は自分にとって衝撃で、

それは家族全員そうだったらしく、

みな呆然とその姿を眺めていました。

 

「家の中ではむっつり威張っているくせに、

なんだよ、外ではあんなに愛想笑い浮かべてペコペコ頭下げて」

とますます父親が俗っぽい小市民に見えてきて、

その時以来、Aさんはよけい父親のことが嫌いになりました。

 

そんなAさんも社会人となり、営業の仕事に就き、

結婚し、子供も中学生になりましたが

今になって、当時の父親の姿が思い出されてくるそうです。

現在Aさんは営業成績を上げるのに必死で、

お得意先を訪問したり、接待したりの日々で、

毎月の営業ノルマ達成に心身をすり減らしています。

営業成績が棒グラフで表示され、常に叱咤され、

成績が悪ければ給与にも響くし、リストラになるかもしれない。

そうなったらとても妻や子供を支えていけないのですから、

疲れた身にむち打って仕事をしています。

 

一日が終わると心も体もくたくたで、

家に帰るとテレビ観ながらぼーっとしているそうで、

「あっ、あのときの父と同じだな」と気付くそうです。

「父もくたくただったんだな。

今ならあのときファミレスで愛想笑いで近づいていった父の気持ちもよく分かる。

家族を支えるために必死になっていた姿だったんだな」

と、感謝の心がこみ上がり、

今度は自分が支える番だと思うそうです。

 

このように妻や子供を支えるという重い責任を背負って一生懸命がんばっている一家の長の姿に

「旦那」(与える人)と呼ぶようになったのでしょうね。

 

 

 

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出家と在家を差別しない浄土真宗

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【道俗(2)】


“「出家(僧)」も「在家(俗)」も差別なく、みな一緒である”

と親鸞聖人が説かれたことは

当時の仏教界には青天の霹靂でした。

それまでの仏教は、極楽に往き悟りを開くのは、

仏道修行を積み、煩悩を落とすことができる「出家(僧)」だけとされ、

「在家(俗)」は仏道修行の器にあらず、とその違いは明確に分けられていたからです。

仏教界の常識を破壊するとんでもない奴だ、と

天台や真言の僧侶は親鸞聖人を激しく誹謗迫害し、

やがてそれは越後流刑を引き起こします。

 

親鸞聖人の肉食妻帯に騒然としたのは仏教界だけではありません。

在家の人たちも、「出家(僧)」も「在家(俗)」も何の違いもない、

と言い切られる親鸞聖人の教えは衝撃でした。

彼らにとって、法衣に身を包み、煩悩のなきように振る舞う僧侶の姿は、

さすが山で厳しい修行をし、徳を積んだ僧侶だと映っていたからです。

在家の人がそのように誤解していることは出家の者にとっては、

彼らの読経や祈願の依頼でふところが潤うことにつながるので都合が良く、

徳の高い僧侶に見られるような立ち振る舞い、言動に力を入れていました。

 

そんな時代にあって、親鸞聖人は「出家(僧)」も「在家(俗)」もなんら差別もなく、

みな煩悩具足の凡夫(欲に渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりの人間)であり、

だから苦しみ悩みから離れられない悲しい存在でもあり、

そんな者だからこそ救いたもう阿弥陀仏の救いがあることを宣言されたのです。

 

今日でも大企業の社長、裁判官といえば、

世間一般の人よりずっと分別もあり、品行方正の人格者と映るので、

スキャンダルや事件を起こすと、「まさかあの人が....」と

周りの人を驚かせます。

「裁判官が盗撮だなんて信じられない」

と驚いていますが、

もともと盗撮するするような者が

きっかけがあって裁判官の資格をとっただけ、

と思えば何のおかしなこともありません。

「大企業のトップがのあの人が恐喝だって?」と唖然としていますが、

恐喝するような者が

たまたま企業のトップになっていただけと思えば

何の不思議なことはありません。

 

酒屋に行くと一升瓶に特級酒とか一級酒といったラベルが貼ってあり、

そのラベルによって値段の桁が一つ違うのを見ると、

ずいぶん日本酒の値段って幅があるんだなと思いますし、

桐の箱に入っていたり、和紙に包まれていたりすれば、

さぞおいしい味なんだろうな、と思います。

ところがどれも中身はただの水だったとしたらどうでしょう。

ただラベルによって高級そうに、有り難そうに、おいしそうに見えているだけで、

中身はどこにでもある水道水だとすれば、どうだろう。

 

実はそれと同じことで、人間はみな欲に渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりであり、

これを『罪悪深重・煩悩熾盛の衆生』と親鸞聖人は言われています。

~大臣だ、~長だ、と張り付けてある表面のラベルに騙されてしまっているのですが

欲と怒りにまみれた人間の実態は何ら変わるものではない、

と知り抜かれた親鸞聖人にとっては、「僧」も「俗」もなかったのです。

 

 

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道俗を差別しない教えが仏教だと説かれた親鸞聖人

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【道俗(1)】


「道俗」という言葉があります。

「道」とは僧侶のことで、出家の人、ともいいます。

家庭を持たず、肉も食べず、仏教の戒律を守り、仏道修行に打ち込む人のことです。

「俗」とは俗人のことで、在家の人、ともいいます。

家庭を持ち、肉も食べる一般の生活を送る人です。

 

その昔、天台や真言の僧徒たちは、

「道」と「俗」の違いは厳密に定義し、その違いが強調しました。

天台宗の比叡山や真言宗の高野山などが長らく女人禁制で猟漁りが禁じられていたのは

戒律を守る僧侶、いわゆる「道」が、修行し、生活する山であったからです。

そこは俗人が足を踏み入れてはならないところでした。

 

俗人が修行の山に入る時には、

出家得度の式で髪を剃り、

世俗の名前を捨て、僧侶とならねばなりませんでした。

そうして仏の道に入った僧侶でも、

もし戒律を破り、俗人のふるまいをしたら、

修行の山からは破門され、

「破戒僧」「堕落坊主」と軽蔑され、生涯、嘲笑誹謗されたのです。

 

この「道」と「俗」の鉄壁を取り払い、

すべての人が等しく救われる大道を開かれたのが親鸞聖人その人です。

浄土真宗、親鸞聖人の教えでは、出家の人と在家の人を差別しません。

親鸞聖人は僧侶、俗人を差別されることなく、

どんな人とも分け隔てなく親しく仏法を説かれました。

ご自身もまた20年の仏道修行を捨て、結婚され、

俗人としての生活を全うされています。

 

そんな親鸞聖人を歴史家は

「山上の仏教」を「山下の仏教」に、

「出家の仏教」を「在家の仏教」に、

「貴族の仏教」を「庶民の仏教」に、

日本の仏教の形、ありかたを変えた人として紹介します。

 

ではなぜ親鸞聖人は、このような大変革を断行できたのでしょうか。

それは仏の眼から見れば、「出家」「在家」の違いなど何もないことをよくよく知っておられたからです。

着衣、剃髪、生活スタイルを変えて在家の人とは違いがあるように振る舞っているが、それは表面のこと、

心の底まで見透す仏の眼からご覧になれば、

すべての人の中身は一様に何も変わらない「煩悩具足の凡夫」です。

欲が渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりであることは

「出家」だろうが「在家」だろうが、何の違いもないことを

はっきり知らされた親鸞聖人は

「出家」と「在家」を一切差別されなかったのです。

 

 

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