親鸞に学ぶ幸福論

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三法印の一つ、諸法無我の意味とは

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【諸法無我(1)】


人間の身体は約60兆の細胞でできており、

そのうち約4000億個の細胞が1日で死に、1日で生れるとのこと、

1日に4000億個の細胞が新陳代謝しているということは、

1時間に約167億個、1分間に約2.8億個、1秒間に約467万個、

このわずか時計の秒針がカチッと一つ進む間にも、

体内ではすさまじい変化が繰り広げられているということです。

 

見た目は何も変わっていないようにしか見えませんが、

それは錯覚であり、実は身体全体が激しく変化しています。

ちょうど滝は遠くからみると垂れている一枚の布に見えますが、

それは錯覚で、実際はおびただしい量の水滴が激しく落下しているようなものです。

人間の身体は何も変化していないように見えますが、

それは私たちの目に暴流のような変化が見えないだけのことです。

 

人体を構成している成分は水分60%、たんぱく質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%だそうですが、

これらがかかる激しい新陳代謝により数年で入れ替わってしまいます。

記憶だって常に情報のインプットと忘却を繰り返し、新陳代謝しているので、

3年前の自分は今の自分と違うし、3年前の自分を明確に復元(思い出す)ことはできません。

さらにいえば今の自分は3年前の自分とは経験値が相当違うので、考え方も性格も変わっています。

とはいえ3年前に犯した犯罪を

「今の私は3年前の自分とは肉体的にも精神的にも別人格なので、その罪を関係ありません」

との主張は通りません。

法律的には指紋やDNAによって人物の同一性が確定されます。

 

仏教に「諸法無我(しょほうむが)」という言葉があります。

「諸法」とはすべてのもの。「無我」とは私というものはない、ということです。

すべてのものは無我である、我というものはない、と教えられています。

ここでいう「我」とは、「固定不変」のこと。

一切は因と縁が結びつくことによって生じた結果であり、

固定した、かわらない実体があると思うのは錯覚であり、迷いであり、そんなものはないというのが

「無我」ということです。

この「諸法無我」の教えは、三法印といわれる仏教の旗印の1つで、

仏教でしか教えられていない特徴です。

 

 

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怒りの心が周りに及ぼす悪影響をよく自覚せよ

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【瞋恚(1)】


仏教では「怒りの心」を『瞋恚(しんい)』といい、

108の煩悩の中でも特に私たちを苦しめ悩ませる三毒の煩悩の1つに数えられます。

お釈迦様は「気をつけなさい」と、重ねて怒りの恐ろしさは説かれているので、

当メルマガでも、さまざまな怒りの悪影響をお話ししています。

今回は怒りの心が、周りに与える悪影響についてお話しいたします。

 

もう10年ほど前ですが、池袋駅のみどりの窓口で大声で怒鳴っている中年男性を見かけたことがあります。

何かのクレームなのですが、窓口の駅員が説明するのが言い訳のように聞こえたようで、

その駅員に「謝れ」と激高しているのです。

そんなに声を荒げるような案件でないのは明らかで、

別に私自身に向けられた怒りではないのですが、

その大人気ない姿に私は不快に思いましたし、

周りで並んでいる人たちも顔をしかめていました。

 

怒っている人にはそれぞれ怒る理由がその人にあるのでしょうが、

それがなんであれ怒っている人が近くにいるだけで、

周りは腫れ物を触るように気を使わなければならなくなり、気が滅入ってきて、

いい迷惑であることをよく自覚しなければなりません。

 

近年ハーバード大学が

「日常的に繰り返される激しい夫婦げんかは子どもの脳を傷つけている」

との研究結果を発表しました。

子供にとって親は、好きでいたい、尊敬する対象でいたい、絶対的な存在です。

その両親がお互い相手の欠点を罵り合うのだから、こんなショックなことはありません。

その影響力も甚大で、両親の暴言や暴力を数年に渡って目撃してきた人は、

視覚野が平均で16%萎縮していたのだそうです。

「いつもあなたはそうだ」とか、「どうせこうだ」とか「いったよね」とか

両親がお互いを責め合い、やがて無視し合うと、

子供は敏感に空気を察知し、

本当は無邪気に自慢話したり、テレビの主人公の真似をして飛び跳ねたいのに、

口数も少なくなり、陰気になっていきます。

その悪影響はその時の居心地の悪さといった限定的なものではなく、

その子の人生全体に悪影響を与えるのです。

 

これは一例ですが、なにしろ怒りは周りを不幸にさせます。

怒りっぽい人の周りにいる人はみな不幸です。

その人が怒りを抑えたら、周りの人は楽になります。

怒りを抑えるのは強い自制心が求められるので、

抑える人は大変ですが、その努力によって、

周りの人たちはストレスが軽減し、生きやすくなります。

自分の周りの人が幸せになってほしい大切な人ならば、

まず自身が怒りを抑えることです。

 

 

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偏見の壁を乗り越え、御同行と接しられた親鸞聖人

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【御同行(2)】


20代の日本の商社マンがロシアの貿易商アレクセイ氏との商談に臨むにあたり、

『ロシア人との交渉入門』を読み込んで準備したものの、商談は失敗。

落胆する彼に百戦錬磨の上司はこうアドバイスしたと言います。

「君はロシア人を勉強するよりアレクセイ氏を勉強して臨むべきだった」

 

交渉の際、ロシア人の好きな食べ物、ロシア流のあいさつ、礼儀作法、常識、ロシア語の挨拶など学んでいくのも大切ですが、

ロシア人とはこういうものなんだ、と決めつけてかかると、失敗します。

同様にアメリカ人はみな自己主張が強く、日本人はみな協調性があると思い込んでいたら、やはりうまくいきません。

私たちが交渉にあたるのは、みな、さまざまな嗜好、趣味、性格、思想を持つ「個人」なのですから。

 

これは自分のことを考えてみたらわかります。

あなたに接する時「庶務課の社員の一人」として接してくる人と

「○○さん」として接してくる人とでは、どうでしょう。

あなたの心はそうとう変わるのではないかと思います。

私たちが常に接しているのは、「個人」なのです。

 

人種や民族、血統などで枠に括り、

二言目には「これだから中国人は~」「これだから黒人は~」と発言する人がありますが、

その狭い思いこみで相当損をしていることを自覚すべきでしょう。

 

親鸞聖人は京都の貴族として生を受け、

9歳より当時の最高学府であった比叡山で20年間過ごされ、

その後法然上人のお弟子となられますが、

35歳で流刑となられ、当時京の人々から虎狼の住む地とされた越後に赴かれました。

当時は方言も地方によって相当違い、食べ物も風習もあらゆるものが異なり、

親鸞聖人も戸惑われることが多々あったろうと拝察しますが、

文字も知らず、学もないその地に住む農民や漁民と囲炉裏をかこんで親しく話をされ、

当時虐げられていた猟師、商人、遊女の元にも飛び込んでいかれ、

漢字を使われず、わかりやすい言葉を選ばれ、

ただただ懇切ていねいに仏法を説き続けていかれました。

 


ではなぜ親鸞聖人は偏見の壁を軽々と乗り越えられ、

「御同行・御同朋(兄弟よ、友達よ)」と、

文化も習慣も方言も相当異なる越後の人たちと親しく接せられることができたのでしょうか。

それは聖人が、いつの世、いずこの里であろうと、もう変わることのない人間の実態を熟知されていたからでした。

そしてそんなすべての人になんとか弥陀の本願を伝えたい、と常に慈愛の目を向けられていたからでした。

それは流刑の地、越後に赴かれる親鸞聖人の心境を言われたこのお言葉でも知らされます。

「もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の郡類を化せん。是れなお師教の恩致なり」

(もしここ越後に来ることがなければ、どうして越後の皆さんに阿弥陀仏の本願をお伝えすることができたであろうか。

これこそ、越後の人々に、本願をお伝えせよとの、如来のご方便であり、法然上人より賜った勝縁である)

かくして厳寒深雪の越後路は御法の春を迎えたのでした。

 

 

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御同行・御同朋と呼びかけられた親鸞聖人

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【御同朋(1)】


2014年にジェイソン・ロバートというユーチューバーが行った実験は、

アメリカにおける黒人差別の実態を浮き彫りにするものでした。

まず白人であるロバート本人が、

路上駐車してある車(実は自分の車)のドアに針金のような物を差し込み、ガチャガチャと動かす。

やがて盗難警報機がけたたましい音を発しますが、そばを通る人たちは、

車のキーをつけたままドアをロックして困っているんだろうと眺めて通り過ぎるのみで、何もしません。

途中、パトカーが横を通り過ぎましたが、警察官もロバートを無視し、

結局、30分経っても誰にも何も言われずに終わりました。

次に、彼の友人である黒人男性が、同じ状況で同じことを実践すると、

わずか2分後に警察官に取り押さえられたのです。

すぐに誰かがその黒人男性を「泥棒だ」と決めつけ、警察に通報したからです。

ちなみに、アメリカの2011年の統計では、自動車窃盗犯の64%は白人で、34%が黒人となっています。

この研究結果はアメリカ国民に黒人への根深い偏見を示しています。

 

アメリカ以上に世界には人種、民族、性別あるいは血統などを理由に差別、迫害を受けている人が多くあり、

「劣等民族」「民族浄化」といったおぞましい言葉まであります。

日本とてこれから少子化で外国人労働者がますます増えていくので、人種差別問題には傍観者ではいられないと思います。

また人種・民族の他にも、学歴や収入で優劣を決めたり、男女、貧富、美醜など、様々な差別もさまざまな場で横行しています。

 

800年の古、親鸞聖人は、あの身分制度の激しい封建社会にあって、

山上の仏教を山下の仏教に、

貴族の仏教を庶民の仏教に、

出家の仏教を在家の仏教に、大改革をされました。

漢字のわからない人のために、ひらがなで、

長い文章は難しく感じる人には田植えしながらでも口ずさむことのできる「歌」の形で、

まさに大衆の中に飛び込まれ、胸から胸へ、仏法の灯火を点じていかれた方でした。

当時虐げられていた猟師、商人、遊女など社会の底辺に生きていた人たちにも、

そんな親鸞聖人に心を開くようになり、多くの人が親鸞聖人の教えを聞くようになりました。

 

親鸞聖人が当時の常識であった差別の意識を軽々と乗り越え、

「御同行・御同朋(兄弟よ、友達よ)」と全ての人に呼びかけられた信念の源泉はどこにあったのか、

それは万人救済を誓われた阿弥陀仏の本願まことの確信でした。

 

 

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最後の審判を問題にしない親鸞聖人の教え

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【平生業成(1)】


「最後の審判(Last Judgement)」は、

ゾロアスター教およびアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が共有する終末論的世界観で、

神が世界の終わりにあらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、

永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるという信仰です。

 

キリスト教の場合は

「イエスを救世主と受け入れれば、死後の審判で神の国へ入れてもらえる」

と教えます。

しかし信者の心の中には

「本当に神の国に入れてもらえるのだろうか」

「そもそも最後の審判なんてあるのか」

との秘かな疑いがあり、その心がために

「自分は心の底ではイエスを救世主として受け入れていないのでは・・・。こんなことでは神の国に行けないではないか」

と心配にもなってきます。

そこでクリスチャンはその疑いを抑えようと、

弟子たちのイエスの伝記などをまとめた『新約聖書』と、

ユダヤの神話である『旧約聖書』との2冊をよりどころとし、

信じよう、信じようと努めます。

しかしどんなに信仰しても、死ぬまでは天国に行けるかどうかはわからず、不安な心は絶えません。

 

一方、仏教では生きている時にはっきり絶対の幸福になれる、決勝点がある、と説かれています。

これを「平生業成(へいぜいごうじょう)」といいます。

「平生」とは、現在生きている時。

「業」とは、絶対の幸福。

「成」とは、成れる、ということですから、

「平生業成」とは、この世で絶対の幸福になれる、ということです。

 

仏教と他の宗教思想の著しい違いの一つはここです。

死んでみないと、本当かどうかわからないキリスト教やイスラム教と、

この世ではっきりする救いにあう仏教と、ここは決定的な違いです。

この世ではっきりした幸せを獲た人は、死後の審判にやきもきする必要は全くありません。

平生に決着がつくからです。

 

先日アフリカ出身で、現在富山で働いている30代の青年と話をしましたが、

その彼も「平生業成」の教えに関心を寄せていろいろ質問してきました。

彼の祖国では20年ほど前まで戦火が絶えず、

彼の生まれ育った街でも市街戦で多くの死者が出たそうです。

彼自身も死の恐怖を感じ「誰も死を避けることはできない。死んだ後はどこへ行くのか」と疑問を抱くようになり、

キリスト教に答えを求めたものの皆目わからず、モヤモヤしていたとのこと。

全ての人が例外なく抱えているのが、死んだらどうなるかわからな不安な心であり、

この心を仏教では『無明の闇』といい、

この心の闇を破り、この世で絶対の幸福になる教えが仏教だと話をしたところ、

「こんなこと聞いたの初めてだ」と身を乗り出してきたのです。

 

平生業成の教えは聞く人が聞けば驚く内容です。

くわしく知りたい方のために無料メール講座でお話ししています。

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刻一刻と老いと病と死に向かう人類

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【無常(1)】


5年ぶりの免許の更新に行ってきました。

新しい免許証を手にして「老けたなあ」とちょっぴり嫌な気持ちになりました。

5年前の自分が写った今までの免許証と歴然と違う今回の免許証の老けた顔に、

否応なしに老いを自覚させられたのです。

じつはその時思い出したのですが、

この更新の5年前、同じこの教習センターで免許証を更新した時も、

私はできあがった免許証の自分の顔に同じようにショックを覚えたのです。

あれから5年経った今から思えば、

その時ショックを受けた写真はまだまだ若く見え、

5年間という時の流れがもたらす無常の実態を思い知らされました。

 

毎日自分の顔を鏡で見ていると、昨日と今日とでは変わっていないように見えるので、

老いの実感はありません。

ところがこのたびのように5年前の写真と比較してみると歴然とわかります。

ということは気付かぬだけで、日々着実に老いが忍び寄っているということです。

徐々に肌がくすみ、しわが増え、顔がたるみ、髪も薄くなっていっているのですが、

毎日鏡を見ている自分には、その静かな変化を察知できないだけで、

改めてこんな機会に気付かされるということです。

 

一切は無常、移ろい変わります。

自覚するにせよしないにせよ、それに例外はありません。

車も家も街も職場も家族も変わり続けています。

中でも深刻なのは、我が身の無常です。

自覚ないまま、刻一刻と老いと病と死に向かって進んでいるのが、「私」の実態なのです。

 

 

 

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何をしてもつまらない人と充実している人との違いはどこにあるか

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【人生の目的(1)】


ニーチェは『道徳の系譜』に、

生きる意味がはっきりすれば「人間は苦悩を求め、欲しさえする」と書いています。

“人間は苦しみには強い、しかし意味のないことには耐えられない存在だ”

とニーチェは言うのです。

 

もしあなたが中東のどこかの国の捕虜となり、

砂漠の炎天下、建築現場でスコップを渡され、

ひたすら土を掘る重労働を命じられたらどうでしょう。

それは誰だって、暑いし、砂は舞うし、疲れるしで、嫌で嫌でしょうがないでしょう。

しかし同じように砂漠を掘り進む重労働でも、

あなたが大発見した遺跡の発掘で、

次々と考古学の歴史を塗り替える土器や貴金属が見つかっているとなればどうか。

汗も筋肉痛もどこへやら、一掘り一掘りにわくわくし、

疲労も充実に変わります。

その重労働に意味があるからです。

 

どんなに重労働でもその行動に意味があれば、

私たちはその苦労も喜びにすることもできます。

逆にどんなに肉体的には楽なことでも、

意味がないことには耐えられません。

 

たとえば誰かから「ひたすら腕時計の秒針の動く様を見つめ続けろ」と命じられたらどうでしょう。

「決して目を離してはいけない。いつまでも見つめ続けろ」と言われたら、

あなたなら何分くらいそのまま見つめ続けられますか。

好きな芸術作品ならじっと見続けることもできます。

おもしろいテレビ番組なら見続けることはできます。

しかし何の変哲もない時計です。

それをただ見続けろ、と言われたらどうでしょう。

時計版の模様を見たり、アラビア数字を眺めてみたり、なんとか見続けることに意味を見出そうとするでしょうが、

せいぜい頑張って10分くらいでもう観察することもなくなります。

そこからさらに20分、30分と見続けろといわれたらどうか。

肉体的には楽ですよ、暑くないし、静かだし、筋肉使うわけでもない。

でもずっとそのことをひたすらし続けろと言われたら、誰も耐えられません。

やがて気が狂う者も出てくるでしょう。

なぜ時計を見続けることが苦しいのか、それはその行動に意味がないからです。

時計というのは時々ちらっと見て時間を確認するためのものであって、じっと見続けるためのものではありません。

それは意味のないことで、意味のない行動をやり続けることができるほど強い人間はいないのです。

 

生きる意味が見いだせないと、何をしていてもつまらなく退屈でうんざりする。

生きる意味がはっきりすれば、苦悩を求め、欲しさえする。

それが人間の強さであり、弱さでもあり、人間の人間たる所以でもあります。

 

 

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