親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

仏教を聞くヒマないほど仕事で忙しいという人に

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【聴聞(2)】


浄土真宗中興の祖、蓮如上人が「仕事をやめて仏法を聞け」と言われたのはなぜか、先回からの話を続けます。

「仏法は仕事をやめて聞け」と蓮如上人はなぜ言われたのか、

一つの譬えを通してお話ししましょう。

もしあなたが空と水しか見えない大海原に、ただ一人放り出されたらどうしますか。

泳がなければ沈むだけですから、泳ぐしかない。

ではどこへ向かって泳ぎますか。

 

どこへ、といわれても、360度水平線しか見えない海では方角が立ちません。

さればといってやみくもに泳いだら、早く疲れて土左衛門になるだけです。

そんな時一番大事なのは、陸地や救助の船がどこにあるか、です。

救助の船の場所を知って、その方角に向かって泳いでこそ、「助かった」という時があるのです。

 

さてこの例えで、「どう泳げばいいか」「泳ぎ方」にたとえられたのが、「どう生きる」です。

「どう生きる」とは、どうしたら少しでも長生きできるか、苦しまずに生きていけるか、ということです。

その「どう生きる」に極めて大事なのが「仕事」です。

仕事がなかったら収入がないので生きられませんし、きつくて嫌な仕事だと生き辛くなりますから、仕事はとても大事です。

 

一方この例えで、救助の船にたとえられたのが仏法です。

仏教は、救助の大船と方角をハッキリ教えられた教えです。

もし救助の船がなければ、どれだけ上手に泳いでも空と水しか見えませんから、泳ぎ着いたという時はありません。

遅かれ早かれ力尽き、土左衛門になるだけです。

 

「仕事を辞めて仏法を聞け」という蓮如上人のお言葉に

「働いてお金を得ないと食べていけず、死んでしまうぞ」と人類はあきれて咎める。

それに蓮如上人は「食べておっても死ぬんだぞ」と切り返すのです。

「働くのは食べるため、食べるのは生きるため、働かないと、生きていけないだろ?」との主張は、

先の例でいうと「一生懸命泳がないと、土左衛門になるだろ?」と言っているのと同じです。

そんな人に蓮如上人は、「救助の船を知らずに一生懸命泳いでも、やはり土左衛門になるだけじゃないか」と言い放たれるのです。

仕事さえしていればいつまでも生きられるかといえば、そうではありません。

やがては老い、病気になれば仕事ができなくなり、いつかは死んでいかねばなりません。

それはちょうど大海の真ん中で泳ぎ方ばかりに没頭して、泳ぎ続けた挙げ句、土左衛門になってしまうのと同じです。

 

だから「どう泳ぐか」の仕事も大切ですが、

もっと大事なのが「どこへ向かって泳ぐか」「なぜ生きる」の救助の大船を示されている仏法を聞くことですよ、

と教えられているのです。

この蓮如上人の一節は、

「なぜ生きる」の人生の目的を教える仏法と、

「どう生きる」の生きる手段の仕事と、

その違いを明確にされたご教導です。

次回も続けます。

 

 

仕事を辞めて聞け、と説かれた蓮如上人

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今回から三回にわたってお話ししようと思っていることは、

誰でも読むブログにアップするのは適当ではないかな、

オンライン講座受講者限定で配信しようかな、

といったんは躊躇した内容でしたが、

一人でも多くの方に仏教とはどんな教えか、

特にその要の部分を知っていただきたいので、

思い切ってアップすることにしました。

 

【今日の仏語】は『聴聞』の1回目です。


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浄土真宗中興の祖、蓮如上人は「仕事をやめて仏法を聞け」と言われています。

「そんな無茶苦茶な」という声が聞こえてきそうです。

「仕事やめたら、食べていけんでないか。

明日からの生活どうしてくれるんだ、

妻子も養っていかねばならない責任があるんだぞ」

と誰でも思うでしょう。

 

多くの人は一日の大半を仕事に費やし、仕事を一番重んじています。

仕事をして、収入を得て、生活する。それでこそ一人前だと言われます。

家族や友人との約束も、急な仕事が入れば「仕事なら仕方ないよね」と皆あきらめます。

少々体がつらくても「仕事だから」の一言で頑張って働きに出かけます。

日々どうしたら仕事がうまくいくか、みな仕事のことで頭はいっぱいです。

「その大事な仕事をやめて聞かねばならないのが仏法だ」と蓮如上人は教えられていると聞けば、

誰しも「馬鹿を言え」と一蹴することでしょう。

 

しかしそんな人に

「じゃあ、あなたは仕事をするために人間に生まれてきたのですか」

と訊いたら、どう答えるでしょうか。

「そうだよ」とは胸張って言い切れない思いを持つ人もあるのではないでしょうか。

それはたいていにおいて仕事は苦しいものだからです。

連休明けになると「あ~あ、今日からまた仕事かぁ」と多くの人はため息つきます。

どれだけこなしても次から次へと仕事はくるので、これで終わったということはない、

今月のノルマをやっと果たしたと思ったら、また今月のノルマとの戦いが始まります。

「仕事をするために生まれてきた」とすれば、

「苦しむために生まれてきた」ことになってしまいます。

「そんなバカなことがあるはずはない。じゃあこの蓮如上人のお言葉は、どんな意味なんだろう」

と気にもなってくるのです。

 

仕事を辞めてでも聞かねばならないほど大事なことって何なのでしょう。

それが仏教に説かれているってどういうことなのでしょうか。

蓮如上人はなぜ「仕事をやめて仏法を聞け」と言われたのか、次回、明らかにします。

 

 

 

瞑想や内観では己の姿を知ることはできない

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【法鏡(3)】

 

仏教は自己を知る鏡だとお釈迦さまが説かれていることを前回、前々回でお話ししました。

こう話をすると「自分のことぐらい自分が一番よく知ってるよ、別に人に聞く必要なんかない」と思われる方もあるでしょう。

確かに自分が何をやっているか、人は知らなくても、自分はよく知っています。

他人は自分の一部しか知りません。

24時間自分が何をしているか、知っているのは自分だけです。

大衆の前でマイクを使って話すこと、会議などで発言することなら多くの人もわかりますが、

ヒソヒソ話、ここだけの話はその言葉を聞いているわずかの人しか知りません。

まして心の中で何を思っているかとなると、誰もわかりません。

自分しかわからないことです。

 

ならば自分のことは自分が一番よく知っているに間違いないと思いますが、

仏教では、どれだけ深く反省し、己を真面目に見つめても、

私たちは本当の自分を知ることはできない、と説かれています。

 

どうしても私たちは誰かと比較して、

この人のようにはできないけれどもあの人よりもマシだ、

と比較する見方しかできません。

例えば刑務所は悪いことをした人が集まる場所ですが、

覚せい剤使用で服役している人に

「何でそんな悪いことをしたんだ」と言うと、

「いいことをしたとは思わんけれども、別に人に迷惑かけたり、傷つけたりしたわけではない。あいつは振り込み詐欺で高齢者を騙してなけなしの貯金を奪ったそうだ。そういうことはおれにはできない」と口にします。

では振り込み詐欺で服役している人に

「なんでそんな悪いことをしたんだ」と聞くと、

「いいことしたとは思わんが人を殺すことまではしていない。たくさん持っている者から取って社会にお金を還元したんだ」と言ってくる。

では殺人犯に「何でそんな悪いことをしたんだ」と聞くと、

「人を殺したのは良くなかったが、誰だってあいつが俺にしたことを聞けば殺意をいだくと思う。でもあそこにいる奴は誰でもよかったと言って殺したそうだ、ああいう人間の気が知れん」と答えるという。

どこまで行ってもなかなか自分のことを本当に悪い人間だとは認められないようです。

自分の良心に照らし、真面目に見つめようとどれだけ努めても、

本当の自分の姿を知ることはできません。

 

ではお釈迦さまは私たちの本当の姿をどう教えられているでしょうか。

釈迦に赤裸々にされた人間の実態とはいかなるものか、

それを聞くと、あまりの内容に絶句されることと思います。

 

以下は人間の赤裸々な姿をお話ししているブログです。
心の中を暴く

 

 

「よもすがら仏の道に入りぬれば」源信僧都

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【法鏡(2)】

 

お釈迦さまは仏教を『法鏡』と言われ、

私たちの本当の姿を映す鏡だと教えられました。

仏教とは自己を知る教えなのです。

 

平安時代の高僧、源信僧都は

「よもすがら仏の道に入りぬればわが心にぞたずね入りぬる」

と歌いました。

よもすがら(夜も徹して)

仏の道に入りぬれば(お釈迦様の教えを聞き求めていくと)

月灯りの下、あるいはろうそくの灯の下でお経を読み進めていくと

わが心にぞたずね入りぬる(いつしか自分の心の中にたずね入っていく心地がした)

と源信僧都は言われています。

 

これは源信だけでなく、仏教を重ねて聞かれれば、

みなさんも自分の姿に訪ね入っていく感覚を持たれることと思います。

1日よりも1か月、1ヶ月よりも2ヶ月、1年よりも3年、

聞けば聞くほど知らされて来るのは本当の自分の姿です。

 

「私は仏教を聞いてもう3年になるけれど、自分が何者かなんて少しも考えたこともないし、問題に思うこともない」

という人がもしあるとしたならば、

それは鏡には向いていても目をつぶっているような人です。

 

仏教聞けば自分の姿が知らされてきますから

「仏教を聞きなさい」とは「自分の本当の姿を知りなさい」ということなのです。

 

 

仏教を聞くとは、法鏡に近づくということ

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【法鏡(1)】


仏教を『法鏡』ともいわれます。

仏教を鏡に譬えられたのは、他ならぬお釈迦様ご自身です。

仏教とは仏の説かれた教え、

「仏」とは今から約2600年前インドに現れたお釈迦様のことです。

お釈迦さまが35歳で仏の悟りを開かれ、

80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、

仏として説かれた教えが仏教です。

お釈迦様の説かれた教えは今日書き残されおり、「一切経」といいます。

私たちが「お経」と呼ぶものですね。

一口にお経といっても、なにしろ45年間の釈迦の教えですからその数は膨大で、7000冊以上に上ります。

 

ではお釈迦様はこの45年間どんなことを教えられたのでしょうか。

お釈迦様が亡くなられる直前にお弟子の一人が、

「お釈迦様が説かれた45年間の教えを一言で表すとしたら何とお呼びしたらいいでしょうか」

と尋ねています。

その問いにお釈迦さまは「汝らに法鏡を授けたんだよ」と言われています。

 

お経は死んだ人のごちそうだという人もあれば、

魔除けになると思ってる人もありますが、

お釈迦様ご自身は「私の説いた教えは法の鏡である」と言われているのです。

 

今日1日振り返ってみて、皆さんも鏡を何回か見られたと思います。

私たちの二つの眼は色々なものを見ることができますが、

肝心要の自分自身の姿を見ることはできませんから、

どうしても鏡の厄介になるしかありません。

今日一日過ごしたけれども一回も鏡を見なかった、という人はまずないでしょう、

私たちの生活に欠かせない一つが鏡です。

 

ただお釈迦様が説かれた仏教はただの鏡ではありません、法鏡です。

「法」とはインドの言葉で「ダルマ」といい、「真実」という意味ですから、

法鏡とは、本当の私を知る鏡、真実の自己を知る鏡、ということです。

お釈迦様は本当の自分を知る鏡をお前たちに与えたんだ、と仰ったのです。

よって仏教を聞くとは、法の鏡に近づくことであり、

仏教を求めるとは、本当の自分の姿を知ろうとすることです。

 

 

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自因自果の視点を持って、私が世の中を変えると覚悟する

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【自因自果(1)】

 

段取りが悪い上司に一人の部下がイライラし、かげで不平を言っています。

もう一人の部下は上司が仕事を進めやすいよう、サポートすることに努めています。

当然、出世するのは後者です。

 

部下の意見を聞いてくれないワンマン上司がいます。

その下で働く部下にも二通りあり、一つはやる気をなくし、いやいや順うタイプ、

もう一つは自分の意見をとりあげてもらえるよう、どう働きかけたらよいか、考えるタイプ。

これも当然、頭角を現すのは後者です。

 

オレが苦しむのは上司のせいだ、

上司が考えを改めない限りオレの運命は変わらない、と思えば、

出てくるのは怒りや不平、うらみばかりになって、

その思いは上司にも伝わりますから、関係はどんどん険悪になっていくでしょう。

 

夫婦関係でも同じです。

なんで直してくれないのか、と奥さんが怒りのあまり「言ったよね!?」と目くじら立てると、

夫も、しまった、とは思いながらも「その言い方はないだろ」と素直に謝れなくなり、

夫婦げんかにまでなります。

どうしても相手の態度を改めようとすることに躍起になってしまいがちですが、

その前にまず大事なのは、

どうしたら夫は直してくれるか、どういう言い方が効果的か、

自分の言い方を改めてみることです。

またふだんからの自分は相手の要望に応えているだろうか、

不快にさせていないだろうか、考えてみることです。

 

商談でもそうです。

どうしてあの人は承諾しないんだ、とイライラしても事態がよくなるのではない。

その不満はよけい相手を頑なにさせるだけです。

それよりも自分の提案の何がまずいんだろう、相手は何が嫌なんだろう、

こちらは何を変えたらいいんだろう、と考えてみることです。

 

あくまでも、相手は原因ではなく、縁です。

相手を原因と思い、相手が変わらなければ私の運命は変わらないんだと、

相手に自分の人生をゆだねた生き方では幸せは訪れません。

相手を変えるのではなく、自己を変える、

これがどうにもならないと思っていた苦しい現状に一気に風穴を開ける視点なのです。

 

 

世人薄俗にして共に不急のことを争う

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【財欲(2)】


「成功すると親戚が増える」と言われるように、

カネができるとみんな寄ってきます。

「あなたの才能を活かせる場があります」

「一緒にやりましょう」

「好きです。そばにいさせてください」

自尊心をくすぐる誘惑があちこちからやってきます。

自分がすごいので集まってくるのではない、皆カネに集まってくるのです。

この人といると得をする、おカネが入る、となれば、みな愛想笑いと揉み手で近づいてきます。

カネに頭を下げる人ばかり。

その金額が多くなればなるほど、下げるお辞儀の角度も変わってきます。

明かりに群がる夏の虫のように、カネのあるところに皆集まっていくのです。

 

逆にこの人といても儲からない、損するとなれば、さっと背中を向けます。

「カネの切れ目は縁の切れ目」とはよくいったもので、

カネがある間はちやほやされますが、

カネがなくなると潮が引いたように自分の周りから人は引いていきます。

 

カネは生きる目的ではないと言いながらも、

カネのことで頭を悩ませ、気力、体力の全てを注ぎ込んで、

なお足りぬと悩んでいるのが人類の実態です。

財欲に追いたてられて命をすり減らしていく人間の実態をお釈迦さまは、

「世人、薄俗にして、不急のことを諍う。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長男女とも、銭財を憂う」

と説かれています。

 

 

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