【聴聞(2)】
浄土真宗中興の祖、蓮如上人が「仕事をやめて仏法を聞け」と言われたのはなぜか、先回からの話を続けます。
「仏法は仕事をやめて聞け」と蓮如上人はなぜ言われたのか、
一つの譬えを通してお話ししましょう。
もしあなたが空と水しか見えない大海原に、ただ一人放り出されたらどうしますか。
泳がなければ沈むだけですから、泳ぐしかない。
ではどこへ向かって泳ぎますか。
どこへ、といわれても、360度水平線しか見えない海では方角が立ちません。
さればといってやみくもに泳いだら、早く疲れて土左衛門になるだけです。
そんな時一番大事なのは、陸地や救助の船がどこにあるか、です。
救助の船の場所を知って、その方角に向かって泳いでこそ、「助かった」という時があるのです。
さてこの例えで、「どう泳げばいいか」「泳ぎ方」にたとえられたのが、「どう生きる」です。
「どう生きる」とは、どうしたら少しでも長生きできるか、苦しまずに生きていけるか、ということです。
その「どう生きる」に極めて大事なのが「仕事」です。
仕事がなかったら収入がないので生きられませんし、きつくて嫌な仕事だと生き辛くなりますから、仕事はとても大事です。
一方この例えで、救助の船にたとえられたのが仏法です。
仏教は、救助の大船と方角をハッキリ教えられた教えです。
もし救助の船がなければ、どれだけ上手に泳いでも空と水しか見えませんから、泳ぎ着いたという時はありません。
遅かれ早かれ力尽き、土左衛門になるだけです。
「仕事を辞めて仏法を聞け」という蓮如上人のお言葉に
「働いてお金を得ないと食べていけず、死んでしまうぞ」と人類はあきれて咎める。
それに蓮如上人は「食べておっても死ぬんだぞ」と切り返すのです。
「働くのは食べるため、食べるのは生きるため、働かないと、生きていけないだろ?」との主張は、
先の例でいうと「一生懸命泳がないと、土左衛門になるだろ?」と言っているのと同じです。
そんな人に蓮如上人は、「救助の船を知らずに一生懸命泳いでも、やはり土左衛門になるだけじゃないか」と言い放たれるのです。
仕事さえしていればいつまでも生きられるかといえば、そうではありません。
やがては老い、病気になれば仕事ができなくなり、いつかは死んでいかねばなりません。
それはちょうど大海の真ん中で泳ぎ方ばかりに没頭して、泳ぎ続けた挙げ句、土左衛門になってしまうのと同じです。
だから「どう泳ぐか」の仕事も大切ですが、
もっと大事なのが「どこへ向かって泳ぐか」「なぜ生きる」の救助の大船を示されている仏法を聞くことですよ、
と教えられているのです。
この蓮如上人の一節は、
「なぜ生きる」の人生の目的を教える仏法と、
「どう生きる」の生きる手段の仕事と、
その違いを明確にされたご教導です。
次回も続けます。