親鸞に学ぶ幸福論

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「目には目を、歯には歯を」の危険性

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【愚痴(1)】


「あいつのせいでオレはこんなひどい目に遭った」と、

人をうらみ、憎む人は多いですが、

うらみや憎しみの感情は決してその人を幸せな気持ちにさせませんので、

その感情から早く離れることが大事です。

 

お釈迦様はうらみ憎しみの心の恐ろしさを再三再四説かれており、

その心にとらわれるな、とりつかれるな、と教えられています。

したがってこの仏教・親鸞聖人の教えを学ぶメルマガでも、

うらみ、憎しみの心を忘れよう、離れようと縁に触れ、お話ししています。

 

しかし離れろといったって、

実際あいつのせいで今こんな目に遭ったのだから、

この思いを忘れられるものか、

と思われるのも痛いほどよく分かります。

「言うは易く行うは難し」

私自身「お前はできているか」と問われれば、

下を向いてしまいますので。

 

とはいえです。

このうらみ憎しみの情は当然であり

報復は正当であり、仕返しが正義であると意気込んでしまうのは、

自分にとっても周りにとっても大変恐ろしい事態を招くのでやはり危険です。

 

そういう意味では、キリスト教、イスラム教のルーツとなった旧約聖書に

「目には目を。歯には歯を」という一節があるのも危険だなと思います。

「オレは片目を潰されたのにあいつが両目なのは許せない」

「私は殴られて歯を折られたのだから、いつかあいつを殴って歯をへし折ってやらねば気が済まない」

と思うのは確かに人間として自然な感情かもしれませんが、

問題は聖書にそれが書いてあれば、それを信仰している世界の多数の人たちが

仕返しを神がお墨付きを与えた、報復は神が望んでいる、

と取ってしまうので、危なっかしい一節だと思うのです。

 

聖書のこの一節は知らなくても

報復は正当な権利、みんな望んでいる、正義の怒りだと思い込むのは

やはり同様に危なっかしい思考です。

 

お釈迦さまはこうしたうらみ憎しみの心はバカな心である、と断言されています。

自分の首を自分で絞めている愚かな心であると説かれます。

うらみの心を起こすな、といっても人間である以上出てきてしまうのですが、

その時、その感情を「バカな心が出ているなあ」と思うか

それとも正義の怒りであり、報復をみんなが、神が、世界が待ち望んでいると思い込むのとでは

大違いです。

 

この仏教精神をよく表していると私が思うのは

勢至丸の出家の動機のエピソードです。

勢至丸は、漆間時国という武士の子でした。

九歳の時、源定明という武者がふとしたことから時国を大層恨み、

ある夜半、大勢の手下とともに時国の館を襲い、寝首をかいたのです。

騒ぎに目を覚ました勢至丸が時国の寝所に行ってみると、

すでに賊の姿はなく、血まみれの父が、臨終の虫の息で横たわっていました。

「父上、さぞかし無念でございましょう。

武士が互いに一騎打ちをして武芸つたなく敗れたのであればともかく、

寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊ども。

勢至丸が成長した暁に、敵は必ず取ってごらんに入れます」

けなげに敵討ちを誓う勢至丸に、時国は必死にこうさとしたといいます。

「勢至丸よ、志はうれしいが、それは父の望みではない。

無念の死はわが前世の業縁によるもの。

もし敵討ちが成就しても、敵の子はまた、そなたを敵と恨むだろう。

そうなれば、幾世代にもわたって敵討ちは絶えない。愚かなことだ」

はらはらと涙を流す勢至丸の手をかすかに握り、最後の力を振り絞って言葉を重ねます。

「父のことを思うてくれるのなら、出家して日本一の僧侶となり、菩提を弔ってくれ……

よいか……これが父の最後の望みだ」

言い終わるや、息絶えたのでした。

この遺言にしたがい勢至丸は仏門に入り、

のちに日本の仏教史に不滅の功績を遺す法然上人となられています。

 

 

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