【出世本懐(1)】
私たちには、町で歩いている人を見ても、
みな「何時までに駅に行かなきゃ」などと
目的を持って歩いていますから、とても夢遊病者には見えません。
なぜお釈迦さまは全ての人は夢遊病者のようなもの
と言われたのでしょうか。
私たちが生きているこの人生を、一つの部屋に例えてみましょう。
生まれた時が、この部屋に入った時です。
私たち一人一人、ある時「この世」という部屋に入りました。
いや、正確に言うと、物心ついた時には、もう部屋の中にいました。
親から「お前は○年○月○日にここに入ってきた」
と教えてもらったので、「その時、この部屋に入ったのか」と
学んだということです。
しかし親も、他の誰も、私がどこから来たのか、知りませんし、
なぜこの部屋に入ってきたかも知りません。
「それは知る必要の無いことだ、ここでとにかく過ごせ」
と皆言います。
この部屋で過ごすのはけっこう大変で、
努力しないとこの部屋は居心地悪くなり、
出ていかねばならなくなります。
いや、努力したところで、
結局はみんなこの部屋からは出て行かねばならない、
「部屋から出る」とは、「死ぬ」ということです。
好むと好まざると関係なく、否応なしに部屋から出る時が来る、
ということはつまり、この部屋で過ごせるのは
「有限」だということです。
人は皆、それぞれの期間、ここで過ごし、
やがてここを去っていくのです。
では私たちは、この人生という部屋から出たら、どこへ行くのか。
それも、誰も知りません。
皆に聞いても「知らなくていい」と言います。
考えても無駄なことだから不問にして、
とにかくこの部屋での過ごし方を考えよ、と言います。
つまり私たちはどこから来たのか分からぬまま、
しばらくの間、人生という部屋で過ごし、
いつかどこか分からないところへ行くのです。
夢遊病者に「どこから来たの?」と聞くと
「さあ・・」と首をかしげる。
「じゃ、どこへ行くの?」と聞くと「さあ・・」
「じゃ、どうして歩いているんだよ」と聞くと、やはり「さあ・・」
そういう人を夢遊病者と言いますが、
私たちもまた、どこから来たのか分からずに、この世にいる。
死んでどこへ行くのか知らず、この世にいる。
なぜこの世に生まれてきたのかも分からず、
なぜこの世にいなければならないのか、その意味も知らず、
何をしたら人生という部屋を満足して出ていけるのか、
何も知らないで、ただ生きている。
仏教はそんな私たちの姿を、夢遊病者のようだと説かれたのです。
みな夢遊病者のような迷いの真っ只中にある、
そんな中、その迷いの闇を晴らし、真の転迷開悟を教示されたのが、
釈迦の教え、仏教なのです。