親鸞に学ぶ幸福論

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ハイデガーは『歎異抄』のどこにそんなに驚いたのか

 

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【歎異抄(1)】


20世紀を代表する哲学者の一人であるハイデガーが

晩年の日記にこう記しています。

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今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異鈔を読んだ。

「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序)

とは、何んと透徹した態度だろう。

もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、

自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。

日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを

生きがいにしたであろう。

遅かった。

自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が

三十名近くも留学して弟子になった。

ほかのことではない。

思想・哲学の問題を随分話し合ってきたが

それらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろう

などという匂いすらなかった。

日本の人達は何をしているのだろう。

日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、

世界文化に貢献するといっているが

私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。

なんにも要らないから

聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。

商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら

何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。

そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、

フランス人はフランス語を、

デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えを

わがものとするであろう。

そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。

二十一世紀文明の基礎が置かれる。

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ハイデガーが、いかに『歎異抄』の内容に心を揺さぶられたか、

伝わってくる述懐ですが、

特に私は「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と書いていることに、

彼の受けた衝撃の大きさを感じます。

 

 

ハイデガーといえば、まぎれもない世界の哲学界の巨人です。

その彼が「ギリシャ語やラテン語の勉強もしなかった」と

言い切っているのはどういうことか、わかられますでしょうか。

西洋哲学を勉強する学者にとってギリシャ語やラテン語は必須であり、

ギリシャ語とラテン語の文章が読めない者は、

西洋哲学の学者としては「お話にならない」のが、

その世界の常識です。

 

 

ということはハイデガーが

「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」

と言っているのは、

「自分は西洋哲学を学ばなくてよかった」

と言っているのと同じであり、

取りも直さずそれは、今日も燦然と輝く彼の世界的業績を

「無かったものにしてもいい」

と、彼自身が言っていることと同じなのです。

 

 

これはちょうどイチローが

「もしこんなスポーツがあることを子供の時に知っていたら、自分は野球をやらなかった、これをやっていた」

と言ったようなものです。

 

 

今までハイデガーが生涯かけて築き上げ、

揺るぎなき世界的評価を受けた哲学を、全部無しにしてもいいから、

自分は日本語を学んで歎異抄を学びたいと言っているのですから、

いかに『歎異抄』の内容に衝撃を受けたか、

この本に書かれている内容をもっと知りたい、と彼が渇望したか、

伝わってきます。

 

 

『歎異抄』は700年前に書かれた鎌倉時代の古典で、

親鸞聖人の言行が、弟子の唯円により、生き生きと活写されています。

『歎異抄』を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、

時に身震いさえ感じます。

きっとハイデガーもそうだったのでしょう、

「何だろう、この心の世界は。。。。」と。

 

 

しかし『歎異抄』は、母国語である日本人が読んでも、

よほど深い仏教の理解がなければ誤解して大けがをしてしまうところから、

「カミソリ聖教」として、長らく浄土真宗では秘本と封印されていた書です。

英訳の『歎異抄』を読んだハイデガーが、

どれだけその内容を理解したか、とは思いますが、

あれほどの人ですから、親鸞聖人の鮮烈な言葉の数々に

「ここには自分が求め続けて果たし得なかった答えがあるのでは」と

何か真実の香りのようなものを直感したのではないか、と思います。

 

 

では『歎異抄』には、何が教えられているのでしょうか。

一言で言えば「摂取不捨の利益」が明らかにされています。

『歎異抄』全十八章を総括する第一章に、

親鸞聖人は万人の生きる目的を

「“摂取不捨の利益”にあづかることだ」

と喝破されています。

 

 

「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とは

文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、

「利益」は“幸福”をいいます。

”ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を

「摂取不捨の利益」と言われるのです。

 

 

考えてみれば私たちは、

学校から、会社から、親から、子供から、健康から、恋人から、友人から、健康から、家庭から、金や財から、名誉や地位から、

捨てられはしないかと、

四六時中、ビクビクしてはいないでしょうか。

「今さえ幸せならあとはどうなってもいい」というドラマのセリフはありますが、

現実は、明日が不幸なら、今日の幸福に暗い影をおとします。

今さえ幸せなら、とは口だけで、

あとの人生が暗かったら、

今の幸せさえも、幸せにならないのです。

時の経つのが悲しくなり、幸せに悲しみが混じるからです。

 

 

いつか捨てられる時がやってくる・・

別れなければならない時がくる・・

薄氷を踏むような不安の中に人間は生きています。

 

 

そんな私たちが心の底で求めているのは、

ガチッと摂め取られて絶対に捨てられない幸せ

たとえ何が起きても変わらない安心、満足です。

歎異抄第一章では、その幸福の厳存を親鸞聖人は

『摂取不捨の利益』と宣言されています。

 

 

では『歎異抄』に『摂取不捨の利益』はどのように説かれているのか、

そのどこにハイデガーは驚嘆したのか、

その核心をひもとく記念講演が10月に予定されています。

歎異抄に魅了され、その真髄を知りたいと志す人が、

日本中はおろか、世界中から集う講演で、

約1万人の来場者が予定されています。

私も指折り数えてその日を待ち望んでいます。

どなたでも聞ける講演です。

どんな講演か、詳しく知りたい方は、私に『講演希望』との題名で

こちらの問い合わせフォームからメッセージください。

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詳細をお知らせいたします。

 

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