親鸞に学ぶ幸福論

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門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

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【生死の一大事(1)】


室町時代の禅僧一休は、アニメ「一休さん」で有名です。

快活で、賢くて、つぶらな瞳の「一休さん」。

あのイメージが強かったせいか、図鑑で一休の肖像画を初めて見たとき

「えっ、これが一休さん?」と驚いたのを覚えています。

頬がこけ、無精髭を生やし、どこかふて腐れたような、肝が据わった風貌には

アニメの「一休さん」のイメージはまったくありません。

 


仏教を聞くようになり、一休の書き遺した、反骨精神に満ちた、

毒舌と称してもいい歌や文章を知ってからは

アニメの一休さんの方が虚構で、

肖像画に描かれている姿が実像なんだろうなと、納得しました。

 


毒舌と悪口は違います。

悪口は単なる非難中傷ですが、

毒舌は辛辣であるものの、そこに一面の真理が光っているものです。

だから悪口は誰でも言えますが、

毒舌は本質を見抜く眼を持った人しか言えません。

今日は、一休の毒舌を含んだ一首の歌を紹介します。

 


「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休)

一休は、正月で賑わう京都の辻を、この歌を朗々と詠んで歩いたと言われます。

「こんなめでたい日に、なんて不吉な」

と当時の都の人々も眉をひそめたでしょうが、人生の本質を捉えた歌といえます。

 


年が明け、門松が玄関先に飾られる元旦を迎えると、

みんな「おめでとう」「おめでとう」と言います。

しかし一休は喝破します。

「何がめでたいんだ。元旦とは冥土の旅の一里塚ではないか」と。

 


「冥土の旅の一里塚」とは、どういうことでしょうか。

一里塚(いちりづか)は、街道を旅する人の目印に、

一里(約4キロメートル)毎に設置した土を盛った塚のことです。

塚の側には榎などの木が植えられたり、

江戸まであと何里、と書かれた標識を立てたりしていました。

今でいう高速道路に設置されている、東京まで何キロ、と書かれた緑の標識のようなものです。

旅人は一里塚を見ては「旅はまだまだ続くな」とか「もうすぐ終点だ」と

行く先に思いを馳せたのです。

 


一休はここで、元旦を旅の一里塚に例え、

その旅は「冥土への旅」だと言っているのです。

 


「冥土」とは、死んだ後の世界です。

生あるものは必ず死に帰す。

生きている人は皆死に向かっています。

一日生きたということは、紛れもなく、一日死に近づいたことに他なりません。

年が明けて一年経ったということは、

それだけ大きく自分が死ぬ歳に近づいたということです。

まさに元旦は「冥土の旅の一里塚」なのです。

 


私たちは、死ぬのは嫌だ、寂しい、怖い、と心の底で感じ、

頑なに死から目を背けようとしますが、

着実に毎日、毎年、墓場へ向かって行進しているその歩みを止めることができない存在です。

すべての人が、未だ知り得ぬ、死後の世界へ向かう旅人なのです。

 


そんな己の行く先を忘れ、元旦を迎えたからと

めでたい、めでたいとはしゃぐ人々に一休は

「何がめでたいんだ、元旦は死に向かって進む旅の一里塚ではないか、

こうしてどんどん進んでオレも死んでいくんだな、と確認させられる日が元旦だぞ、

めでたいはずがなかろう。めでたいのは、おまえの頭でないのか」

と皮肉ったのが、

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

の歌なのです。


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生死の一大事

 

 

 

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