親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

マンガで学ぶ仏教(8)『生きる意味』

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【出世本懐(1)】


「生きる意味って何だろう」と訊かれて

「生きることそのものに意味があるんだよ」

と答える人がありますが、

答えになっていません。

尋ねた人は

「生きることそのものにどんな意味があるのか」

を知りたいのですから。

 

「精一杯生きれるだけ生きるのが一番大事なんだ」

と答える人も多いですが、これも答えになっていません。

生きる意味を尋ねる人は、

「生きるのが一番大事だと言われる理由」

が知りたくて尋ねているのですから。

 

「何のために生まれてきたのか」

「必ず死ぬのになぜ生きるのか」

何が尋ねられているのか、質問の内容を正しく理解するだけでも簡単ではありません。

 

今日はマンガシリーズ第8弾です。

「生きる意味」をテーマにしたマンガです。

マンガで学ぶ仏教『生きる意味』

そのマンガで問題提起していることを

さらに掘り下げて書いた文章もリンクに貼りましたので、

関心ある方はそちらもお読みください。

 

「子供のころ、死が怖かった」という貴方に

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【後生の一大事(1)】

 


子供のころ、死ぬのが不安で、

「死がこわい」「死にたくない」「死んだらどうなる んだろう」と

そんなことを止めどもなく考えてしまう夜が怖く、

眠れなかった、という人はけっこうあります。

 

それが大人になると、

仕事の悩み、お金の心配、人間関係の問題に追われているうちに、

いつしか死の怖さは記憶の片隅に追いやられ、

「死」は誰でもやってくるのだし、大した問題ではない、

と考えるようになります。

 

年齢を重ねるほど、死が近づくのだから、

子供の時より死が切実な問題と感じられていいはずですが、

実際はその逆で

「死んだら、死んだときだよ」

「ぽっくり死ねたらそれでいい」

と死を軽く考えるようになります。

 

なぜ大人になると子供の時より、死を軽視するようになるのでしょうか。

理由の一つとして考えられるのは

「今まで生きてこれたのだから、これからも生きられる」

と経験からくる自信です。

 

この夏、相次ぐ自然災害に襲われた日本列島でした。

西日本の豪雨では、何十人の人が亡くなり、その多くは高齢者でした。

緊急避難勧告が出されていたものの、「たかが雨」でないかと、

まさか家が流されてしまう事態は想像できず、

その油断が甚大な被害を招きました。

 

もしこれが、「大地震で津波が来る可能性があります。皆さん高台に逃げましょう」

という緊急避難勧告なら、

脳裏に大震災の映像が呼び起こされ、

従った人も多かったのではないかと思います。

あるいは北朝鮮との有事が勃発し、ミサイル警報が出たとか、

何百年ぶりの火山爆発で何々村の人は全員避難してくださいと言われれば

大惨事だとあわてて避難した人が多かったでしょうが、

今回の場合は、いつも見慣れているただの「雨」です。

雨足がいつもより強く、長く降っている、というだけで、

この雨の災害で死ぬ、とはちょっと想像できなかったのかもしれません。

「今までもこんな豪雨で、緊急避難速報が出て避難したことあったけど、何にもなかったじゃないか」

という過去の経験から来る油断もあったでしょう。

 

これは高齢者だけの油断とはいえず、マスコミも、

集中豪雨の前にあった大阪地震の度重なる注意勧告の報道に比べると

明らかに災害当時の呼びかけは少ないものでした。

 

豪雨の次に日本列島を襲ったのが30年ぶりという酷暑でした。

40度を超える暑さに多くの高齢者が熱中症で亡くなりました。

家の中にいながら熱中症で亡くなっている高齢者も多くありました。

熱中症対策にマスコミや行政から、こまめに水分を取るように、

部屋のクーラーを入れるように、と忠告されていたのですが、

「クーラーは嫌いだから」

「家の中に入れば大丈夫だろう」

とそれに順わず、今までの経験からいつものようにし、

熱中症で亡くなりました。

 

これも「ただの夏の暑さでないか」という油断があったのだと思います。

年齢とともに免疫機能も低下し、体力も低下しているのですが、

今まで大丈夫だったんだ、これぐらいは今までもやってきた、

という思いから、不安にはならなかったのでしょう。

 

人間は必ず死ぬ。

誰しも分かりきっていることですが、

今までも生きてこれた、

数々の事故や災難にあったけれども死ななかった、

これからだって、まだまだ生きられるだろう、

と自分の経験から

「まだまだ死なない」と思い込んでしまうのです。

 

豪雨で水に流されて亡くなった方、

酷暑で熱中症でそのまま気を失って亡くなった方、

台風で亡くなった方、

土砂崩れで亡くなった方、

それら亡くなる人は皆、災害が起きるその時まで、

「まだまだ生きておれる」と思っていた人ばかりでした。

それが思わぬ最後の瞬間に

「まさか今日が死ぬ日だとは」

と唖然として死を迎えたのです。

 

人は死ぬときになって初めて、

まだまだ生きておれるという思いは間違いだった、

と骨身にしみて己の誤りを知らされ、

その時に子供の頃ぼんやり感じていた

「死がこわい」「死にたくない」「死んだらどうなってしまうんだろう」

の恐怖が明確なものとなって、

その人の眼前に突きつけられます。

これを仏教では「後生の一大事」といいます。

 

 

 

 

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法然上人を生涯の師と敬慕された親鸞聖人

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【善知識(1)】

 


親鸞聖人は75歳の時、

法然上人を称える20首もの歌を作られています。

親鸞聖人が法然上人と今生最後の別れをされたのは35歳の時。

以来40年間、親鸞聖人はずっと法然上人を慕い、尊敬し続けられ、

75歳で法然上人のことを歌にしようと思い立たれ、

20首の和讃を作られたのでした。

その20首の和讃はいずれも

「真実の仏教を教える法然上人に巡り遇えた親鸞は、なんと幸せ者であったのか」

とあふれんばかりの聖人のよろこびが満ちあふれています。

 

離れ離れになって40年も経ち、

すでに亡くなってこの世にいない人のことなど、

「去る者は日々に疎し」で、

あまり思い出さなくなるのが、世の常です。

夜も眠れぬほど好きだった人も、

刺し違えようかとまで憎かった人も、

40年も経てば、

「そういえばあんな人もあったなぁ」

と時々思い出す程度です。

私も高校、大学時代の友人のことをふと思い出して、

「あいつの名前、何て言ったかな」

とにわかに思い出せないことがありますが、

その時はお互いのアパートで寝泊まりするほどの仲だったのに、

今では1年に1度思い出すかどうか、

20年、30年経つとそんなもんです。

ところが親鸞聖人は40年前に別れられた法然上人を、

片時も忘れられることなく、敬慕し続けられたのです。

 

さらにいえば親鸞聖人が法然上人から直に教えを受けられたのは、

29歳から35歳までのわずか6年間です。

90歳まで長生きされた親鸞聖人のご生涯からすると

6年間というのは、まことに短い間だったと言えます。

しかし聖人にとってこの6年間は、

90年の生涯の中でも、最もかけがえのない、忘れられないひと時だったのです。

 

あなたはいかがでしょうか。

今までの人生を振り返って、

最もかけがえのないひと時はいつだったでしょうか。

「あの時期が自分の人生の中で最も大切で、かけがえのない時期だった」

という時です。

親鸞聖人ならそれは、

法然上人から直接教えをいただいたあの6年間でした。

 

親鸞聖人の法然上人への強い敬慕の念は

親鸞聖人の主著『 教行信証 』からも窺えます。

晩年まで推敲を重ねられた『教行信証』は、

法然上人の『選択本願念仏集』の解説書なのです。

親鸞聖人の法然上人から教えていただいた真実の仏教を、

少しでも速やかに知ってもらいたい、

と関東での激しい布教の合間を縫って

筆を取られたのが『教行信証 』でした。

90歳で亡くなられるまで幾たびも修正し、加筆され、

絶えず推敲を重ねられた『教行信証』の筆の跡には、

「なんとしても法然上人の御心を正しくお伝えせねばならぬ」という、

一貫した聖人の誓いが、まぶしく光っています。

 

 

 

 

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作り笑いはなぜバレるのか

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意業(1)】

 


表情や態度から人の心理を読み取る「メンタリスト」と呼ばれる人たちがいますが、

彼らによると、心から笑っているか、それとも作り笑いか、は

人間の表情の中でも、最も見抜きやすい一つだそうです。

メンタリストでなくても、

たいてい相手にばれてしまっているのが「作り笑い」です。

 

顔には非常に多くの筋肉がありますが、

筋肉には意識的に動かすことができる随意筋と、

意識的に動かすことができない不随意筋とがあるそうです。

作り笑いは100%随意筋ですが、

心の底からおかしいと思ったときの笑いは不随意筋も動くので、

自然な笑い顔になるとのこと。

 

カメラの前で「笑って」と言われての笑顔は、

意識的に筋肉を動かす笑顔で、

不随意筋が動かないので、どこかぎこちない。

赤ちゃんのケラケラ笑う姿は、自然と不随意筋が動いていて、

見ているこっちまで不随意筋が動いて、思わず笑顔になってしまいます。

 

「目は口ほどにものを言う」とのことわざの通り、

心で何を思っているか、隠そうとしても隠せないのが

私たち人間だということですね。

 

人と接していても、

「あの人、オレのこと、嫌っているな」

「彼と話していると、どこか壁を感じるな」

となんとなく感じてしまうのも、

その人の表情や目線、声のトーン、態度などに、

その人の本音が現われてしまっていて、それを感じ取るからです。

 

仏教で「身業」(すること)、「口業」(しゃべること)よりも

「意業」(思うこと)を最も重視する理由も実にここにあります。

心が口や身体を動かす本体だからです。

 

心で思ったことが口や身体に現れるのは、

あたかも川の上流と下流のようなものです。

上流に塗装工場の赤いインクを大量に流し込めば、

下流は赤く染まります。

逆に上流に青いインクを流し込めば、

下流は青く染まります。

上流が心です。

下流は口や体です。

心で思ったことしか、口や体は動かないのです。

 

だからこそ仏教は心を重視します。

体や口の行為(言動)には気をつけるものの、

心で何を思っているか、に気を張る人は少ないようです。

しかし身体を動かす心、口に言わせる心、

その心にこそ、真にその人がやったり、言ったりしていることの根源があるのです。

 

 

 

 

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ハイデガーは『歎異抄』のどこにそんなに驚いたのか

 

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【歎異抄(1)】


20世紀を代表する哲学者の一人であるハイデガーが

晩年の日記にこう記しています。

ーーーーーーーーーーーーー

今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異鈔を読んだ。

「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序)

とは、何んと透徹した態度だろう。

もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、

自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。

日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを

生きがいにしたであろう。

遅かった。

自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が

三十名近くも留学して弟子になった。

ほかのことではない。

思想・哲学の問題を随分話し合ってきたが

それらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろう

などという匂いすらなかった。

日本の人達は何をしているのだろう。

日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、

世界文化に貢献するといっているが

私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。

なんにも要らないから

聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。

商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら

何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。

そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、

フランス人はフランス語を、

デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えを

わがものとするであろう。

そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。

二十一世紀文明の基礎が置かれる。

ーーーーーーーーーーーーー

 

ハイデガーが、いかに『歎異抄』の内容に心を揺さぶられたか、

伝わってくる述懐ですが、

特に私は「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と書いていることに、

彼の受けた衝撃の大きさを感じます。

 

 

ハイデガーといえば、まぎれもない世界の哲学界の巨人です。

その彼が「ギリシャ語やラテン語の勉強もしなかった」と

言い切っているのはどういうことか、わかられますでしょうか。

西洋哲学を勉強する学者にとってギリシャ語やラテン語は必須であり、

ギリシャ語とラテン語の文章が読めない者は、

西洋哲学の学者としては「お話にならない」のが、

その世界の常識です。

 

 

ということはハイデガーが

「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」

と言っているのは、

「自分は西洋哲学を学ばなくてよかった」

と言っているのと同じであり、

取りも直さずそれは、今日も燦然と輝く彼の世界的業績を

「無かったものにしてもいい」

と、彼自身が言っていることと同じなのです。

 

 

これはちょうどイチローが

「もしこんなスポーツがあることを子供の時に知っていたら、自分は野球をやらなかった、これをやっていた」

と言ったようなものです。

 

 

今までハイデガーが生涯かけて築き上げ、

揺るぎなき世界的評価を受けた哲学を、全部無しにしてもいいから、

自分は日本語を学んで歎異抄を学びたいと言っているのですから、

いかに『歎異抄』の内容に衝撃を受けたか、

この本に書かれている内容をもっと知りたい、と彼が渇望したか、

伝わってきます。

 

 

『歎異抄』は700年前に書かれた鎌倉時代の古典で、

親鸞聖人の言行が、弟子の唯円により、生き生きと活写されています。

『歎異抄』を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、

時に身震いさえ感じます。

きっとハイデガーもそうだったのでしょう、

「何だろう、この心の世界は。。。。」と。

 

 

しかし『歎異抄』は、母国語である日本人が読んでも、

よほど深い仏教の理解がなければ誤解して大けがをしてしまうところから、

「カミソリ聖教」として、長らく浄土真宗では秘本と封印されていた書です。

英訳の『歎異抄』を読んだハイデガーが、

どれだけその内容を理解したか、とは思いますが、

あれほどの人ですから、親鸞聖人の鮮烈な言葉の数々に

「ここには自分が求め続けて果たし得なかった答えがあるのでは」と

何か真実の香りのようなものを直感したのではないか、と思います。

 

 

では『歎異抄』には、何が教えられているのでしょうか。

一言で言えば「摂取不捨の利益」が明らかにされています。

『歎異抄』全十八章を総括する第一章に、

親鸞聖人は万人の生きる目的を

「“摂取不捨の利益”にあづかることだ」

と喝破されています。

 

 

「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とは

文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、

「利益」は“幸福”をいいます。

”ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を

「摂取不捨の利益」と言われるのです。

 

 

考えてみれば私たちは、

学校から、会社から、親から、子供から、健康から、恋人から、友人から、健康から、家庭から、金や財から、名誉や地位から、

捨てられはしないかと、

四六時中、ビクビクしてはいないでしょうか。

「今さえ幸せならあとはどうなってもいい」というドラマのセリフはありますが、

現実は、明日が不幸なら、今日の幸福に暗い影をおとします。

今さえ幸せなら、とは口だけで、

あとの人生が暗かったら、

今の幸せさえも、幸せにならないのです。

時の経つのが悲しくなり、幸せに悲しみが混じるからです。

 

 

いつか捨てられる時がやってくる・・

別れなければならない時がくる・・

薄氷を踏むような不安の中に人間は生きています。

 

 

そんな私たちが心の底で求めているのは、

ガチッと摂め取られて絶対に捨てられない幸せ

たとえ何が起きても変わらない安心、満足です。

歎異抄第一章では、その幸福の厳存を親鸞聖人は

『摂取不捨の利益』と宣言されています。

 

 

では『歎異抄』に『摂取不捨の利益』はどのように説かれているのか、

そのどこにハイデガーは驚嘆したのか、

その核心をひもとく記念講演が10月に予定されています。

歎異抄に魅了され、その真髄を知りたいと志す人が、

日本中はおろか、世界中から集う講演で、

約1万人の来場者が予定されています。

私も指折り数えてその日を待ち望んでいます。

どなたでも聞ける講演です。

どんな講演か、詳しく知りたい方は、私に『講演希望』との題名で

こちらの問い合わせフォームからメッセージください。

お問い合わせ

詳細をお知らせいたします。

 

自利利他は商売の基本

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【自利利他(1)】


商売の基本は「自利利他(じりりた)」です。

「自利利他」とは、

【人の幸せを考えること(利他)が、そのまま自らが幸せになれる道(自利)ですよ】

と説かれた釈迦の教えです。

自利利他の基本を忘れたら、他の何ができていても、

商売はうまくいきません。

たとえうまくいっても、決して長続きしません。

 

それは客の立場に立ってみれば、よくわかることです。

あなたは、「原価は」「人件費は」「売上げは」「客単価は」「対年前比は」と、

儲けばかり考えるコンサルタントがプロデュースするレストランと

料理を作ることが大好きで、お客様においしいと言ってもらえることに

喜びを感じているシェフがいるレストランと、

どちらのレストランで食事されたいですか。

 

客は命の次に大事なお金を店に出すのです。

よほどその店が客に喜びを与え、感謝されるものを提供しなければ、

そんな大事なものを出せないのは、当然です。

お客に喜びを与え、お客に貢献する商売人が

儲かり、成功していくのは、古今の鉄則です。

 

自利利他の精神を表す、こんな言葉があります。

ーーーーーーーーー

「何か自分に出来ることはないか」

「他人のために出来ることはないか」

「自分が楽をしようというのではなく、人のために尽くそう、とできないか」

「常に人の喜べることは出来ないか」

これを十年続ける人に、周りに人垣ができる。

ーーーーーーーーー


つい私たちは「どうすれば認められるか」「どうすれば儲かるか」と

自分の喜びばかりを追いかけてしまいがちですが、

その発想を「回れ右」して、

周りに喜びを与えることだけを考えてみたらどうだろう。

その方がずっと速やかに、確実に認められ、

恵まれる人になりますよ、と

釈迦は教えられています。

 

これはきれいごとでも何でもなく、

「自利利他」「与えるものが与えられる」は、

三世十方の道理(いつでもどこでも成り立つ真理)だからです。

 

 

 

 

 

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レッテルを剥がした本当の自分の価値は何か

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【法鏡(1)】


「あなたは誰?」と聞かれたら、

通常は名刺でも差し出して、

「私は○○物産××部△△部長の■■と申します」

と言います。

すると相手も

「あっ、○○物産さんの。おっ、部長さんで。それはそれは・・・」

と反応してきます。

それで自己紹介ということなのですが、それも定年までのこと。

定年退職後に「あなたは誰?」と聞かれ、

「○○物産、元課長です」というわけにもいきません。

 

もう15年ほど前ですが、アメリカの新聞に、

つい一年前までは数百万ドルの金を稼いでいた

プロバスケットボールの若手選手のことが報じられました。

こんな内容でした。

ーーーーーーー
この若者は、友人や弁護士、会計士たちが、

自分の金をむしりとっていった、と嘆いていた。

そのせいで、いまではわずかの給料で、

洗車場で働いているというのだ。

まだ29歳の若さのこの青年は、車を洗う時に、

現役時代の優勝の記念である指輪をはずすことを拒んだために、

洗車場を首になった。

彼は虐待と差別を理由に、

解雇を不服として訴えを起こしていた。

自分に残されたものはこの指輪だけであり、

それをはずしたら、自分は何者でもなくなってしまう、

というのが、彼の主張だった。
ーーーーーーー

過去の栄光にすがっても、それは今の私ではありません。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』の中に、

カテリーナ・イワーノヴナという登場人物があります。

高貴な家柄の出なのですが、

結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、

娘を売春までさせて生計を立てているのですが、

「今じゃ想像もできないけどねえ、

おじい様の暮らしていたころは、

それはそれは楽しく、華やかだったよ」

と誰彼となく、如何に自分の家柄がいいか、

昔は高貴な暮らしをしてきたかを語るのですが、

周りは失笑し、本人も精神を病んでいきます。

 

地位や経歴や家柄といったレッテルをはがされた【本来の自分】とは、何者なのでしょうか。

哲学発祥の地アテネの知の殿堂、デルフォイ神殿にも

「汝自身を知れ」と彫られている。

常に哲学の出発点は「己とは何か」にあります

いや、哲学だけではない

医学も、心理学も、文学も、物理学も、生物学も、経済学も

あらゆる学問はこの問いに答えんと目指しているといえましょう。

 

「仏道を習うというは自己を習うなり」

法鏡に映し出された『真実の自己』とは何か、

「私」とはなにか。

これを知る教えが仏教だから

【仏教は法鏡なり】と説かれるのです。

 

 

 

 

 

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