【法鏡(1)】
「あなたは誰?」と聞かれたら、
通常は名刺でも差し出して、
「私は○○物産××部△△部長の■■と申します」
と言います。
すると相手も
「あっ、○○物産さんの。おっ、部長さんで。それはそれは・・・」
と反応してきます。
それで自己紹介ということなのですが、それも定年までのこと。
定年退職後に「あなたは誰?」と聞かれ、
「○○物産、元課長です」というわけにもいきません。
もう15年ほど前ですが、アメリカの新聞に、
つい一年前までは数百万ドルの金を稼いでいた
プロバスケットボールの若手選手のことが報じられました。
こんな内容でした。
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この若者は、友人や弁護士、会計士たちが、
自分の金をむしりとっていった、と嘆いていた。
そのせいで、いまではわずかの給料で、
洗車場で働いているというのだ。
まだ29歳の若さのこの青年は、車を洗う時に、
現役時代の優勝の記念である指輪をはずすことを拒んだために、
洗車場を首になった。
彼は虐待と差別を理由に、
解雇を不服として訴えを起こしていた。
自分に残されたものはこの指輪だけであり、
それをはずしたら、自分は何者でもなくなってしまう、
というのが、彼の主張だった。
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過去の栄光にすがっても、それは今の私ではありません。
ドストエフスキーの『罪と罰』の中に、
カテリーナ・イワーノヴナという登場人物があります。
高貴な家柄の出なのですが、
結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、
娘を売春までさせて生計を立てているのですが、
「今じゃ想像もできないけどねえ、
おじい様の暮らしていたころは、
それはそれは楽しく、華やかだったよ」
と誰彼となく、如何に自分の家柄がいいか、
昔は高貴な暮らしをしてきたかを語るのですが、
周りは失笑し、本人も精神を病んでいきます。
地位や経歴や家柄といったレッテルをはがされた【本来の自分】とは、何者なのでしょうか。
哲学発祥の地アテネの知の殿堂、デルフォイ神殿にも
「汝自身を知れ」と彫られている。
常に哲学の出発点は「己とは何か」にあります
いや、哲学だけではない
医学も、心理学も、文学も、物理学も、生物学も、経済学も
あらゆる学問はこの問いに答えんと目指しているといえましょう。
「仏道を習うというは自己を習うなり」
法鏡に映し出された『真実の自己』とは何か、
「私」とはなにか。
これを知る教えが仏教だから
【仏教は法鏡なり】と説かれるのです。
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