親鸞に学ぶ幸福論

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アウシュビッツで人間が見せた精神力に感服

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【人生の目的(2)】

 


人間は生きる明かり、希望をなくしては生きてはいかないことを

前回のメルマガでは、さまざまな例を引いてお話ししました。

今回は、明かりや希望など許されぬ極限状態であってもそれは同じであることをお話しします。

 

ナチスのアウシュビッツ収容所でも明りを見つけて懸命に生きる姿が

心理学者のフランクルがアウシュビッツ収容所での体験記を記した『夜と霧』に書かれています。

それは以前ブログでも紹介しました。

http://kikuutan.hatenablog.com/entry/010712ausyu

このエピソードは、人間がいかに『希望』を生きる力としているかを示しています。

 

では終わりの見えない収容所で、フランクル自身はどうして生き残ることができたのか、

彼の明かりは何だったのか、これが実に興味深いものでした。

それは彼自身が「トリックを弄した」と書いているように、

想像力という武器を持つ人間の強さを感じさせるものです。

ーーーーーー
むごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。
そこで、わたしはトリックを弄した。
突然、わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。
わたしの前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。
そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。
今私わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される……
ーーーーーー

フランクルは、このトリックのおかげで

現在とその苦しみにどこか超然としていられ、

それらをまるで過去のもののように見做すことができ、

私、苦しみ共々私自身が行う興味深い心理学研究の対象とすることができた、

と書いています。

凍てつく大地で重労働を課せられている痩せこけた収容者の頭の中にこんな空想が繰り広げられていることを、

監視していたドイツ兵の誰が想像しえたでしょう。

人間の精神力の屈強さ、したたかさを思い知らされました。

 

 

生きる明かり、生きがいがなければ生きられない人間

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【人生の目的(1)】


人間は生きる明かり、希望をなくしては生きていけません。

マラソンランナーが給水場で定期的に水分を補給しなければ42.195キロを完走できないように、

人間は未来に明かりがなければ生き続けられない存在なのです。

 

江戸時代の農村にも「ケ」と「ハレ」がありました。

「ケ」はいつもの日常、地道な野良仕事。

「ハレ」とは正月や村祭りの日、この日ばかりはごちそうを食べ、酒を飲み、無礼講では目を外す楽しい日です。

「もういくつ寝るとお正月」という歌があるように、

村人は「ハレ」の日を明かりに指折り数えながら「ケ」の日を過ごしました。

代わり映えのない「ケ」の日を黙々とこなすことができるのも、

「ハレ」の日を希望にし、明かりにしているからなのです。

 

「あー、疲れた」と今年もう何回つぶやいたことだろう、

人間は生きる明かり、希望なくしては生きていけない存在です。

生きるにはどうしても希望が必要なのです。

 

現代もそれは同じです。

満員電車で揺られ通勤する人の群れも、その一人一人の心中には

「もうすぐGWの10連休、東南アジアで旅行する予定で今から楽しみ」

「来月は嵐のコンサートで思いっきり発散する」

など、何かの明かりがきっとあるはずです。

 

これは短いスパンでもいえます。

月曜日から金曜日まで働き続けることができるのは、土日があるからです。

「明日は土曜日、ゆっくり寝れる、彼女と会える、ゲームできる」

と、そういった希望があるからこそ、今の仕事をこなせるのです。

毎日が「月月火水木金金」の繰り返しなら、

きっと今よりずっとうつ病や引きこもりは多いことでしょう。

 

もっと言えば、2時間勉強したらコーヒーブレイク、とか、

ここまで仕事したらおやつタイム、とか、

日々の生活にもこまめに明かりを持って生きています。

このように人間は生きる明かり、希望を持って生きているのであり、

そういう明かりなくしては生きていけない存在なのです。

 

若きアスリートたちに教えられること

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【忍辱(1)】


以前オリンピックを見ていて思ったことですが、

柔道の判定でも、物言いがついて勝者と敗者が逆転してしまったり、

体操のポイントでも抗議により総得点が入れ替わったり、というのが結構あります。

審判団の問題、とまでいかなくても

極限まで研鑽を重ねたアスリートたちのしのぎ合いなので

本当にちょっとした判定のあやとか零コンマ零何秒の差で

歴然と結果が決められてしまっています。

何年もこの時のこと一つにかけてきたのですから

「こんなことのために」と

どんなにか悔しい事態もあると思います。

 

そんな中でも偉いなと感心するのは、

駄々をこねたり、仏頂面でになったりせず

終われば自分を負かした相手と握手し、

インタビューでは言葉少なに「負けは負けです」と言い、

表彰台に登ればどんなに悔しくても笑顔は作るところです。

 

自分を支えてくれたコーチ、

オリンピックに出たくても出れなかった選手たちのこと、

応援してくれた人

いろいろな人のことを思って自己を律しているのでしょう。

 

人生も同じで、

いや、オリンピック以上に

ほんの些細な差で成功と失敗が決まったり

理不尽としか思えない仕打ちもたくさんあります。

そんな時にもあのオリンピック選手たちのように

「まだまだです」と前向きに受け止め、前進できるだろうか、

身を正される思いがします。

 

 

進化して能力が拡張するのが人生の目的か

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【人生の目的(1)】


人間の脳波と機械をつなげる研究が進んでいることに驚いてしまいました。

センサーを頭に装着し、腕を上げたいと念じるだけで、

脳波を検出して意図を分析して信号に変換し、

義手や義足を操作できるようになるというのです。

脳梗塞やALS(筋萎縮症)などの半身不随で苦しむ人の大きな希望となる朗報です。

他にもAI搭載の自動運転では、乗っている人が生きる危険を察知すると脳から車に信号が送られ、停止するようになるそうです。

また画面にタッチしなくても自己の意思を、パソコンやスマホの画面に文字で表示できるようにもなるとのこと。

電車に乗っている時に手がふさがった状態でも、遅刻だと思った時、

「電車の遅延で遅れます」と文章を作成し、メールで送れるようにもなる、のです。

 

大阪大学の工学博士でアンドロイドの研究で知られる石黒浩氏は、

かかる機械と人間の融合を「人間をさらに高みに連れて行く」と主張し、

「もし人間が技術を使わなかったらただの猿であって、人間でも何でもない」

「進化して能力を拡張させるのが人間の生きる目的だと思う」

と述べています。

 

私は脳波センサーの進化そのものには驚嘆しますが、

この石黒氏の意見にはどうかなと首をかしげます。

確かに人間はかかる進化でより多くの仕事を処理できるようにはなるでしょうが、

幸せになれるかとなると話は別だと思うからです。

そして幸せが人間の個としての目的である以上、

進化して能力を拡張させることが人生の目的とは短絡的です。

 

たとえば先程述べた脳波のセンサーにしても、

人間に恩恵をもたらす一方で、新たな火種の元になりそうです。

「あの人大嫌い」と思った瞬間、その脳波にセンサーが反応し、

それが文章となって相手にメールで送られることもあるかもしれない。

職場でも、あるいは夫婦や親子間であってさえ、

時に「嫌いだ」と思ったり、逆に「好きだ」と思ったり、

感情はころころ変わります。

それがそのまま文字となって相手に知られたら、

私たちはまともな社会生活は営めそうもありません。

それとも人間の本音の部分は、自動運転の急ブレーキのように、

自動制御機能でも付くのでしょうか。

その場合、自分でも本音かどうかわからない微妙な心はどうAIが判断できるというのでしょう。

 

もしくはこんな社会も想定できます。

各個人の暴かれた心の中のデータが国家に、会社に把握され、管理されたらどうなってしまうか、ということです。

国家が権力統制のために人々の心を覗き、

潜在的な危険思想の持ち主は社会の重要なポストに就けないように、

あるいは人々に影響を与えないよう、画策もできるようになり、

会社はそのデータを人事査定に利用するかもしれません。

 

こう考えていくと、とても「人間をさらに高みに連れて行く」ようには感じられず、

むしろ暗澹たる気さえしてきます。

科学が進歩しても、その科学を用いるのが人間である以上、

人間の心が変わらない限り、真の幸福は訪れないのではないでしょうか。

 

仏法の『法』とはどんな意味か

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【法(1)】


仏教では三世十方を貫く真理のことを『法』といいます。

『三世』とは過去世、現在世、未来世のことで

「いつでも」ということです。

『十方』とは東西南北上下四惟のことで

「どこでも」ということです。

いつでもどこでも変わらない真理、

古今東西を通じて普遍の真理を『法』といいます。

 

『法』と名が付くものに、憲法、法律、交通法規などがありますが、

私情や気分で変えてはならない、一つのものさしとなるものに

「法」という字が使われているのがわかられると思います。

交通法規で信号機の赤青黄色の意味が毎日コロコロ変わったら大事故が頻発しますし、

法律でも、明日から年金支給は止めますとなったら社会は大混乱ですから、

そうそう変えてはならないものです。

 

とはいえこれら憲法、法律、交通法規は三世十方を貫くものではありません。

スマホしながらの「ながら運転」は12月より罰金三倍、一発で免停、

それで事故を起こした時は場合によっては懲役刑、とかなり罰則がひどくなります。

携帯電話は当初発売されたときは自動車電話といういう名前でした。

車中からでも、運転していても電話ができるというのがセールスポイントだったのです。

それが今や運転時の携帯電話使用は罰金です。

 

憲法だって時代に合わなくなれば、国民投票で変える必要も出てきます。

その時代に合った、その国の事情、環境に合った憲法や法律があるのは当然で、

いつでもどこでも変わらない憲法や法律などあるはずがないです。

 

仏教の「法」は、そのように変わるものではなく、

いつの時代でも、世の中がどれだけ激変しても、もう変わらない普遍的な真理を指します。

その「法」を教えられたのが仏教ですから、仏教のことを「仏法」「教法」ともいいます。

 

快楽のかげにも無常の響きがこもっている

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【快楽(1)】


コカインなどの違法薬物は、

理性を司る大脳皮質よりももっと脳の真ん中にある中枢に強烈な快感をドカンとすり込むそうで、

理性でやめようと思っても、やめられる代物ではないようです。

一瞬にして多幸感、爽快感が心身共にぱーっと広がり、

一気に不安は除去され「人生最高!!」となります。

しかしその快感は薬の効き目がなくなるとすぐに消えてしまい、

その後は長い倦怠感、イライラや不安が続き、

さらに薬物の快感を渇望するようになります。

 

薬物依存の恐ろしさはラットの実験でよく知られます。

ラットの脳に電極をつけ、ペダルを押すだけで興奮の感覚が生み出せるようにし、

美味しい食べ物をもらうかペダルを押すか、ラットたちに選択肢を与えると

ラットはひたすらペダルを押し続け、とうとう空腹と疲労で倒れてしまうというのです。

 

田代まさしが、覚醒剤依存症の恐ろしさを訴える講演で

「覚醒剤があれば何でもできる気持ちになった。やがて覚醒剤がないと何もできないようになった」

と実体験を語りましたが、

彼にとって「何もできないようになった」と語ったそれは、

決して過去形で語れるものではなく、

今なお「何もできない」自己に苦しむあまり、またも手を出してしまうものだったようです。

 

依存は薬物だけではなく、

アイスクリームやコーラなどの糖分、パチンコや競馬などのギャンブル、中毒性の高いゲームなども、

強烈な依存性があると指摘されています。

これらの快感は経験するとその一瞬の感激が忘れられず、

パチンコやゲーム機や炭酸ジュースのない生活の不快感は耐えがたく、

他の何をやっていてもつまらなくイライラして、もうそれなしの生活は考えられなくなります。

 

このように快感依存の実態を知らされると、

人間にとって幸福とは何なのか、わからなくなってきます。

至福の瞬間、胸躍る感覚、といっても、それを多く経験すればするほど、

不快感の耐性が下がり、快感への渇望が募っていくならば、

それは幸福と呼べるものではなかったことになります。

幸福は快感とは違うのか。

違うのならどう違うのか。

快感の追求は実は苦しみの元に他ならないなら、

いったい幸福とは何なのか、

考えさせられます。

 

その昔、シッダルタ太子(のちのお釈迦さま)は

出家を止めようと説得しにきた5人の家臣に厳然とこう言い放たれました。

ーーーーーーーーーーー

お前たちにはわからないのか、あの激しい無常の嵐がまだわからないのか。

ものはみな常住しないのだ。

いずれの日にか衰え、いずれの日にか亡ぶのだ。

快楽のかげにも無常の響きがこもっているのだ。

美女の奏ずる絃歌は欲をもって人を惑わすのみだ。

三界は悩みのみ。猛き火の如く、浮かべる雲の如く、幻や水泡の如し。

若きを愛すれど、やがて老いと病と死のために壊れ去るのだ

ーーーーーーーーーーー

太子の火の玉のような求道心に心打たれた家臣たちは、

ともに太子のそばで修行に打ち込むようになった、と伝えられてます。

シッダルタ太子の言われた「快楽のかげにも無常の響きがこもっている」の言葉が重く響きます。

やがて消え去る快感や快楽は幸福とはいえない、

無常の嵐を前にしても微動だにもしない安心満足こそ目指すべき真の幸福ではないか、

と城を出て入山学道されたのがシッダルタ太子でした。

 

 

説得とは、得を説く、と読む。決して押しつけてはならない

 

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【自利利他(1)】


先日報道されていたことです。

あるコンビニのオーナーが、元日は営業しないという意思を本社に伝えました。

アルバイトが集まらず、客も少なく、とても自分の身体が持たないからというのが理由でした。

本社は、それは契約に反する、とさっそく社員に「オーナーを説得してこい」と命じました。

ところがオーナーは頑なで、説得に応じないとのこと。

最近よく話題になるコンビニ長時間労働問題です。

 

さてこの報道でも出てきた「説得」という言葉、あまりいい響きがありません。

「説得する」立場でも疲れるし、嫌われるし、

「説得される」立場ならおもしろくないし、憂鬱になるし、で、

できれば説得するのもごめんだし、説得されたくもない。

そう思ってしまうのは、「説得」と聞くと、

相手をこちらの意図通りに動かせるためにあれこれ話をする、

というニュアンスがあるからでしょう。

 

本来「説得」とは、字の意味からいうと「得を説く」、

“相手が得をすることを私が説く”ということです。

誰だって得する話なら聞いて悪い気になる人はありませんし、

行動しようという気になります。

ところが“私が得することを相手に説く”ことに躍起になって

それが説得だと思っている人が多く、

それではどんなに言葉巧みに流ちょうに話をしていても、

相手の気持ちは動きません。

嫌な感じを与えるだけです。

たとえその時は相手を動かすことができても、

禍根を残したり、裏切られた思いにさせてしまいます。

 

商売でも、ついつい

「どうやったら相手の財布のひもが緩むか」

「相手にどうやってこちらの商品を認めさせるか」

ばかりに頭がいっぱいになりますが、

それは客のお金や時間や気持ちをこちらに引っ張り込もうとすることなので、

客からしたらおもしろくなく、結局上手くいきません。

 

相手が動くのは「相手の得を説いて、それをわかってもらえた時」です。

相手の得を少しも考えることができない人に、人は集いません。必ず離れていきます。

逆に相手の得を説き続ける人には、たとえ口下手でも不器用でも、必ず人が集まり、

十年後はその人の周りに人垣ができています。

利他の精神(相手を思いやる気持ち)が、古今東西変わらぬ成功の秘訣なのです。

 

 

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