【教行信証(2)】
『ローマ人の物語』で知られる作家、塩野七生の言葉が心に残りました。
「私は今必要があってマキャベリの論文や手紙を訳しているが
彼の筆になる500年前のフィレンツェ方言風のイタリア語をまず声を出して何回も読んでいるうちに
マキャベリの文章のリズムというか、調子というものがわかってくる。
それが分かると日本語の訳文も自然に現れ出てくるのだ。
特に彼の文体は生き生きと躍動しているものが多く、悲哀の感情を書いても簡潔で品格が高い。
ただ自分の意図するところを文章で表す能力に自信のある人の常で、しばしば文法を無視した使い方をする。
それでかえって文章が生きてくるのだが、真面目な翻訳者はわざわざ正しい使い方に直して訳すことが多いために、
日本語訳されると愉快なマキャベリが退屈がマキャベリと化してしまうのである。
翻訳とは意訳でもよいのであって、要は原著者の魂を共有することではないだろうか。
これにはどうしたって意味は正確にはおえなくても、原文を読むぐらいの力は必要である」
翻訳のプロ精神に感嘆しました。
と同時に、前回お話しした井上靖の言葉が思い返されてきました。
http://kikuutan.hatenablog.com/entry/011115kyougyou
親鸞聖人は浄土三部経を幾たびも読まれ、
ここで釈迦が示されている真意をどうしたらみなにはっきりとわかってもらえるか、
その目的に一点集中され「教行信証」を著されました。
お釈迦様の説かれた説法はお経となって書き遺されているものの、
その言葉は難解で、たとえ語句の意味を知ることができたとしても
私たちには「ここでお釈迦さまは何を言われたかったのか」くみ取ることができないところが多々あります。
そこを親鸞聖人が、お釈迦さまの「なんとか知ってもらいたい」の熱い心を共有され、
私たちにもわかるよう、書き著わされたのが『教行信証』です。
だからでしょう、私も親鸞聖人の教えを学び始めた18歳の時、
まだ仏教のイロハが何たるかも分かっていなかった時期でしたが、
『教行信証』を初めてパラパラと読んだ時、ところどころの文章に、
言葉も文章の構造も、現代とまるで違うのに、
聖人の息遣いまで感じるような、何かすさまじい迫力と臨場感を確かに感じました。
教行信証に書かれた聖人の一文一文は、なんともいえない不思議な魅力にあふれています。
『教行信証』を哲学者の三木清は「根底に深く抒情を湛えた芸術作品」と評し、
文芸評論家の亀井勝一郎氏は「全巻に大歓喜の声が響きわたっている」と驚嘆しています。
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