これは私の先輩で
弁護士をされている方からお聞きした話です。
先輩の友人で、
少年事件を担当する裁判官が言ったそうです。
「審判を担当した時は、よく子供が泣いてしまってね」
そのとき先輩は思わず尋ねたそうです。
「審判ではいつもそんなに厳しく子供を叱られたのですか」
すると裁判官は苦笑して言いました。
「違うよ。
子供の立場に理解を示して同情すると、
思わず涙ぐむ子が多いんだよ」
犯罪を犯してしまった場合、
その結果としての事実だけしか耳に入りませんから
「あいつ、何やってるんだ。ひどいよな。」
と眉をひそめたり、
「あきれた。。あんな人だとは思わなかった。」
と親戚や友人達のうわさ話しにされるものです。
いかなる事情があったのか、
どれほど追い詰められていたのか、
どんなに孤独だったか
犯罪を犯すまでの胸の内を聞けば、
「無理もない」
「もし自分でもそうなっただろうな。。」
他人事に出来る人は誰もいないと
わかってくるのですが、
理解してくれるまで
話を聞いてくれる人もいない。
みんな自分のことで精一杯で
聞いてくれない。
犯罪を犯してみて、
裁判を通じて始めて自分の環境を語り、
それをまた始めて聞いてもらえた
ということが多いようです。
慈悲の象徴としてよく彫刻にもなっている
音とは「衆生の愁嘆の声」。
「観る」とはここでは「聞く」という意味ですから、
人々の憂い嘆きの声を
ひたすら聞く、という意味だそうです。
以下はたくさんの青少年を見てきた
ある精神科のお医者さんが言っていた言葉です。
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『荒れる』のは、
それだけ、鬱屈した感情があるからですし、
『引きこもる』のは、
そうでもしないとどんどん傷つく現実があるからです。
『ウソをつく』のは、
本当のことを言ったら、余計ひどい目にあうからですし、
『やる気がない』のは、
やる気で意見を言っても必ず否定されてきたからです。
そんな中、よく今まで生きてきたね、と
声をかけたくなることも少なくありません。
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この精神科のお医者さんも
どんなことをしてしまっても
そうなった背景を
とことん聞いて下される方です。
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