親鸞に学ぶ幸福論

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他人の批評が文章向上の近道

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私は自分の書いた文章を、

「分かりにくいところを教えてくれ」

とお願いして、親しい友人や家族に読んでもらうことがあります。

あるいは車中で助手席の家族に文章を朗読してもらい、

それを第三者の文章をぼーっと聞き流す感覚で

引っかかるところを探します。

これは文章を書く人は心がけていることだと思います。

自分の文章は思い入れもあり、どうしても独りよがりになるので、

欠点が分かりません。

他の人の批評こそが、向上の近道なのです。

 

しかしそう理解していても、意見を言われると、

釈然としない思いがもたげてきます。

「そんなこと知っている」

「わかっててわざとこういう表現にしたんだ」

「それは浅い視点だ」

と、いろいろ思いが出てきます。

何日もその文章をずっと考えてきた一角の自負がありますから、

他人の意見をスッと聞き入れられないのです。

 

しかし世にこの文章が出てきてから読む人は、

さっと読んで、続けて読みたいとなるか、つまらないとなるか、

あっという間に判断されてしまうのですから、

思い入れなくさっと読み流して判断する、

他人の意見こそ重要なのです。

「もっと執筆者の深い視点を探ってみて下さい」

と要求することは、筆者のわがままに過ぎません。

 

ある執筆者が、編集者に文章を批評してもらうために

している独自の工夫に感銘を受けました。

その工夫とは、部屋に衝立を立て、

執筆者が自分の書いた原稿を大きな声で読む。

編集者は衝立の影にいて、

分かりにくい箇所だと思ったら鈴をたたく。

執筆者はチーンと音がしたら、その箇所に印をつけ、

後で文章を練り直す。

手に入れた文章を再度、衝立の影から聞いてもらう、

こういう過程を繰り返すそうです。

 

執筆者、とくにそれが名声や立場のある人になると

自負もありますので、

「お前に何が分かる」という、穏やかならざる気持ちも出てきます。

 

編集者の方も、たとえ文章にいろいろ気付くことがあっても、

その道の専門家に向かって意見を言うのはおこがましいし、

自分の思いが間違っているかも知れないと遠慮してしまいます。

その点、鈴をならすのでしたら、誰が指摘したかも分からず、

人間関係に歪みが生じないということで、

よく考えられているすぐれた方法ですね。

 

 

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