【慈悲(2)】
寺の門の両脇に立つ仁王像は、身震いするような激しい形相です。
「慈悲の教えである仏教になぜこのような」と思われるでしょうが、
じつは仏の慈悲の一つの現れとして、仁王像は彫られます。
仁王は、衆生の迷いの心を叱り付けている姿なのです。
【怒る】と【叱る】は、違います。
「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、
怒っているのか、叱っているのか、判断できません。
声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか、
分かりません。
その違いは「心」だからです。
【怒り】は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、
全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる、恐ろしい心です。
自分の言うことを聞かない者や、
自分の悪口を言う者におきる心です。
その人がいると自分の思い通りにならない、
自分にとって邪魔な人におきる心です。
常に発想の中心が「自分」。
自分の損得のことをいつも考えている人におきる心です。
その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、
周りも本人も不幸にさせます。
一方【叱る】のは、相手に何とかよくなってもらいたい、
相手に幸せになってもらいたい、
今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との思いから、
その人のために発する言葉です。
その発想の中心は「相手」です。
叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。
誰も嫌われたくありませんから、
みなつい叱るのを躊躇してしまいます。
それでたいていは叱らないで、
陰で「あれではダメだ」と笑ったり、馬鹿にするものです。
そんな中、嫌われるのも覚悟して、
その言いにくいことを指摘してくれるのが
「叱る」という行為ですから、
これは慈悲心がなければできないことです。
慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば
そんな人は人生にもなかなかいない、
とてもありがたい人なのです。
なかなか有り難いとは思えないのですが、
この心の向きが変われば、がらっと自分も回りも変わっていきます。
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