親鸞に学ぶ幸福論

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なぜあの人のことが気になってしまうのか、それには理由がある

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【縁(1)】


仏教に「縁」という言葉があります。

今日の言葉でいえば「絆(きずな)」といってもいいでしょう。

私にも、あなたにも、人にはそれぞれ、

縁の深い人と縁の浅い人がいます。

同じ職場で働いている人の中にも、

縁の深い人と縁の浅い人があります。

縁の深い人とは、同じ部署になったり、

飲みに行ったり、家族ぐるみの付き合いになったりと

発展していきますが、

縁の浅い人とは、挨拶くらいで、

何年経っても顔と名前くらいで、よく分からないものです。

 


こういう話しをしたとき、ある女性が弾んだ声で

「じゃあ今おつきあいしている彼は、私にとって縁が深い人なんですね!」

と尋ねてきたことがありますが、「その通りです」と答えました。

それは間違いないことだからです。

 


しかし愛している人だけが縁の深い人ではありません。

嫌いで憎んでいる人、喧嘩する人も縁の深い人です。

喧嘩は相手と心がぶつかり、お互いを意識している状態ですから、

喧嘩する人も間違いなく、深い縁のある人です。

殴り合い、とっくみあいの喧嘩も、東京と大阪ではできません。

同じご近所だったり、同じ職場だったり、同じ屋根の下だから、

あることなのです。

たまたまテレビで見かけたアフリカの人に

「ちくしょう!」と憎くて仕方ないということはないでしょう。

「死んでくれ」「ひどい目にあったらいい」

と憎くなってくるのは、よく知っている近くの人です。

愛したり、憎んだりするのは、縁の深い人なのです。

 


「縁のある人」は、過去世、幾億兆の生死を(前世)から

接点があった懐かしい人だと仏教では説かれます。

たまたまその人と接点があったのではなく、

深い縁が永い過去世にあったのです。

 


この仏教の教えをことわざで

「袖触れ合うも多生の縁」といわれます。

電車やバスで袖が触れ合っただけの、

そんな些細(ささい)な関係にも、

生まれ変わり、死に変わりを重ねてきた「多生」の間に

幾たびも出会って来た仲なんですよ。

今生はじめてのご縁ではないのだよ、という意味です。

袖触れ合うだけでも、それだけのご縁があったのですから、

好きになる、好かれることになる、

憎くなる、憎まれる、というのは、

どんな深い深いご縁のある人なのでしょう。

 


親鸞聖人は「信順を因と為し、疑謗を縁と為し」と言われています。

「信順」とは、「信じ順う」こと、

私たちが信じ順えるのは、好きな人です。

「疑謗」とは、「疑い謗る」こと、

私たちが疑い謗るのは、嫌いな人、喧嘩している人です。

「好きな人も、嫌いな人も、仲良しの人も、喧嘩している人も、

いずれも因縁のある人ですよ、早く弥陀の救いにあってほしい」

と合掌される親鸞聖人の 教行信証の末尾の一節です。

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