【正信偈(2)】
『正信偈』について話を続けます。
親鸞聖人が「正しい信心」を、
親しみやすい歌の形で教えられたのが『正信偈』です。
先回お話ししたように、すべての人は何かしらの信心を持っています。
何の信心も持っていない人は、ありえません。
ちょっと考えれば分かります。
たとえば(男性限定のたとえになってしまいますが)、
床屋でひげを剃ってもらう時のことを考えてみてください。
床屋はこのとき、カミソリを用いますが、
T型カミソリでなくて、あの本格的なカミソリをのど元やあごの下にあてて、
ひげをそっていきます。
もし床屋が変な気をおこして、このカミソリを横にサーッとひいたらどうなるか。
首には脳に血液を送る太い頚動脈がありますが、
これが切られたら、一気に出血多量で死にます。
そんな頚動脈のある首筋にかみそりを当てるのですから、
赤の他人に命預けているようなものなんですが、
自分自身振り返ってみても、ドキドキもハラハラもしない、
気持ちよくて、どうにも睡魔が襲ってくる。
いや、自分だけではない、
ほとんどの客は寝ているし、中にはいびきかいている者までいます。
なぜそんな平気でおれるのか。
それは「まさか床屋が変な気を起こすこともないだろう」
と床屋を信じているから、です。
今まで私は何度か、夜中に高速道路を友人と交代で運転して、
遠距離移動したことがありますが、
あれも考えてみれば、運転手のハンドルに命あずけているようなものですよね。
もし夜中に運転手が居眠りでもして追突したら、
急ブレーキ音で眠りから起こされた瞬間、
激突の衝撃と共に身体が前のめりになり、
フロントガラスに頭を強打し、そのまま即死です。
「まさかそんなめったなことはなかろう、
夜中の間、自分は眠りこけても、運転手が寝るはずがない」
と、その運転手を信じ込んで、寝てしまうのですから。
医者から薬をもらえば、どんな成分が入っているかいちいち調べてから、
問題ないと確認してから飲むという人はまずいないでしょう。
医者がくれたものに間違いなかろうと、口の中にほおり込んでいます。
医者を信じて生きているということです。
そもそも「明日はこうして、来月はああして、来年にはああなって」と様々な計画を立てているのは、
自分の命を信じて生きているからではありませんか。
ひょっとしたら何か事故か事件に巻き込まれて、今晩限りの命かもしれないのに、
まさかそんなはずがなかろう、と手帳に予定を書き込んでいます。
これは「まだまだ死なない」と自分の命を信じて生きている姿です。
何の信心も持っていない人があれば、
その人は床屋にも、病院にも行けず、タクシーにも乗れず、手帳に予定も書けません。
それでもなお「世の中には信じられるものなんて何もない」
と強弁する者、もしあらば
「ではあなたは、“世の中には信じられることなど、一つもない”
という思想を信じているんですね」
と切り返されるだけでしょう。
人間は何かを信じなければ、
一時として生きていくことはできない存在なのです。
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