親鸞に学ぶ幸福論

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弁円の恨みとねたみが、懺悔と転じて明法房となる

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【愚痴(4)】


「釈迦にダイバ、親鸞聖人に弁円」という言葉があります。

釈迦や親鸞聖人のような徳の高い方でも、

誰もが尊敬したのではない、

中にはお釈迦さまを害せんと画策したダイバ、

親鸞聖人の命を付け狙った弁円のような者もありました。

 

ダイバにしても、弁円にしても、彼らの殺害動機は

「まさるを妬む心」でした。

愚痴、まさるを妬む心の恐ろしさについて

何回か回数を重ねましたが、

最後に、弁円という人を通してお話しいたします。

 

親鸞聖人が関東の稲田(今の茨城県)に草庵を構えられ、

布教を始められたのは40歳過ぎでした。

親鸞聖人が来られる前の関東では、

仏教は、家内安全や病気治しなどの

厄よけの祈祷だと思われており、

その当時、関東一円に巨大な勢力を誇っていたのが

弁円率いる修験道の一派でした。

弁円は厳しい修行の末、孔雀明王の威神力を体得したと言い、

その力で加持祈祷すればどんな病気も治る、どんな願いもかなう、

これぞまことの仏教と公言していました。

 

弁円は、末寺三十五、門弟百余人を擁したといわれます。

関八州(関東全域)の山伏の総司となり、

民衆の尊敬を一身に集めていました。

「権勢国中を風靡せり」と記録にあります。

まさに弁円は関東の輝ける星であり、修験道の最大の実力者でした。

 

親鸞聖人が、関東でご布教を始められた当初は、

弁円も「親鸞比叡山の修行がつらくて、逃げ出した男」

「越後に流された罪人」「肉食妻帯の堕落坊主」とバカにし、

全ての人がそのままの姿で救われる阿弥陀仏の本願を

「軽薄な教え」と信者に注意するくらいでしたが、

聖人のご説法を聞き求める人々が徐々に増えていき、

弁円に祈祷を頼みに来る者が減ってくると、

内心、苛立ちと焦燥感に悶々とするようになります。

 

日が経つにつれ、信者が自分から離れ、自分の寺が閑散となり、

親鸞聖人の御法話に多くの人で賑わうようになり、

弁円の腹の底では、うらみ、ねたみの心がとぐろを巻き、

どす黒い怒気がたまっていくのでした。

 

その弁円の忍耐もついに耐えがたき事件がおきました。

弁円の元から15、6人の弟子が抜け出して、

親鸞聖人の教えを聞くようになったのです。

「おのれ親鸞、もう許せん」と怒り狂った弁円は、刀を抜いて、

親鸞聖人のおられる稲田の草庵へ駆け込みます。

悔しさと怒りで血走った目をむき、

「御仏に代わってオレが成敗してくれる」と叫ぶ語気は

火を噴くように烈しいものでした。

 

ところが弁円の尊さが私たちの胸を打つのは、この後です。

弁円は親鸞聖人と初めて会われ、すぐに自己の恐ろしい誤りを知らされ、

その場で懺悔したのです。

「稲田の繁栄を妬み、己の衰退をただ御身のせいだと憎み、

お命を狙っていたとは」と熱い悔恨の涙が、

弁円の眼からとめどもなくあふれ出るのでした。

その場で親鸞聖人のお弟子となり、

親鸞聖人のお弟子の中でも特に知られている二十四輩の一人、

「明法房」として、今に名を残しています。

 

普通はこのように自己を反省できないものです。

恨んでいる人は自分が恨んでいると気がつきませんし、

ねたんでいる人は、自分がねたんでいることを知りません。

この時の弁円の心もそうでした。

仏教を破壊する悪魔を御仏に変わって成敗する」

という彼の言葉にも表れているように、

自分の正義を信じて疑っていません。

 

そんな弁円が、今の運命はすべて己のまいた種であった、

と自己の誤りを知らされ、

親鸞聖人のせいにして恨んでいたとは、なんと馬鹿だったのか

と己の姿を懺悔したのです。

ずっとそういう気持ちになれないまま、

恨みとねたみで虚しい一生を終えていく人ばかりの中、

弁円の深い仏縁にただただ頭が下がります。

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