親鸞に学ぶ幸福論

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人生に好きな人と嫌いな人が現われる理由とは

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【縁(2)】


どんな人にでも、好き嫌いはあります。

教師にも、担当のクラスの生徒に好き嫌いはあるでしょうし、

職場の上司も、気が合う部下と、気が合わない部下はあるでしょう。

もちろん教師と生徒の間でも、会社の組織でも、

好き嫌いの感情をあらわにするのはあってはならないことですが、

そういう感情があるのは人間である以上、仕方ないものです。

 

そしてこれも言えることですが、

教師に好かれる人は、必ずしも「従順でまじめな生徒」

ということでもありません。

上司の嫌いな人は、必ずしも「仕事のできない人」

というものでもありません。

好き嫌いは、その人との『縁』で決まる、と

釈迦は教えられています。

しかもその『縁』は、今生だけでなく、

何世にもわたる遠い過去世からの縁だと説かれています。

 

あなたの気になる人は縁のある人です。

クラスメイトでも「好きで好きで仕方なかった人」や

「今でもよくその人のことを思い出す人」は縁のある人、

逆に「顔見るのもイヤだった人」も縁のある人です。

名前を聞いても顔を思い出せなかったり、

同窓会で顔を見ても、こんな人いたっけ、という人は、

同じクラスになったのだから、縁の無い人ではありませんが、

あなたと縁が薄い人だったといえましょう。

 

これは教師でもそうで、教師は1~2年で担当が変わりますが、

勤続20年のベテラン教師にもなれば、

相当多くの生徒と接したことになりますが、

その中には十何年経っても、忘れられない

強い印象を残している生徒もあれば、

よく思い出せない生徒もありましょう。

これもその教師とその生徒の縁の問題です。

 

人生には、無視されたり、評価されなかったりして、

辛く寂しい思いをすることもあります。

そんな時、「自分の何が悪いんだろう」と反省して、

努力する心がけも大事なことですが、

いたずらにくよくよして、悶々と悩むのもよくないといえます。

どうしたって自分と縁のない人はあります。

 

自分から人が去っていっても、さほど悲観することはない。

自分を慕ってくる人があっても、有頂天になることもない

縁の問題です。

 

あまりそんなことに悩む時間あったら、

己の本分を黙々と果たすことに、力を注いだ方がいいです。

人生は短い。

「付いた」「離れた」で一喜一憂していてはもったいない。

必ずあなたを待っている人、

あなたの長所を見出して、伸ばしてくれる人、

そういう、あなたと 縁のある人との出会いがきっとあります。

 

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夫婦は過去世、仇同士だった?

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【縁(1)】


「袖振り合うも多生の縁」ということわざがあります。

電車やバスで、たまたま隣に座った見ず知らずの人と

袖や肩が触れ合ったりすることがあります。

偶然に、そうなったと思われるでしょうが、決して偶然ではなく

その人と過去世から何らかの縁があったからですよ、

という意味です。

「多生」ですから過去世、

何度も生まれ変わり死に変わりしてきた魂の歴史の中で、

何度も会っては別れ、別れては会った、深い関係のあった、

因縁のあった人なんだよ、

そんな人だからこそ、今生で袖振り合うことがおきたのだよ、

というのが『袖振り合うも多生の縁』です。

 

袖振り合うだけでも、それだけのご縁があったことを思うと、

好きになり、好かれることになり、

お互い支えあったり、いがみ合ったりしながら、

人生の苦楽を共にすることになった夫婦というのは

これはもう、、、よっぽどご縁の深い人なのです。

「夫婦は過去世、仇(かたき)同士だった」と言われるほどです。

 

「ここで会ったは百年目、盲亀浮木(もうきふぼく)

優曇華(うどんげ)の花、いざ尋常に勝負勝負」

このセリフ、芝居や講談での仇討ちの場面の決まり文句です。

盲亀浮木(もうきふぼく)とは、

目の見えない一匹の亀が、大海に浮く一本の丸太ん棒の穴に

ちょうど首を入れることがあるようなもの、という意味で、

めったにないことを釈迦が譬えられたものです。

「優曇華の花」も、仏典に説かれている、

何千年に一度しか咲かない花のことです。

 

親を殺された侍が、仇討ちのために何年も剣の修行をして、

免許皆伝の腕を身につけた後、仇討ちの旅に出ます。

それから何年も何十年も探し歩いた末に、

ようやく親を殺した仇を見つけた時

「ここであったが百年目」の言葉になるのです。

 

見失ってしまい、会いたい会いたいと探し続けた相手に、

「今生やっと会えた」といえるのが、夫婦なのでしょう。

ほおっておけない相手だからこそ、

恋人・夫婦はケンカもするのです。

 

しかしどんなに深い縁でも「しばらくの間」のこと。

いつまでも一緒にはおれません。

今日あって、明日どうなるか判りません。

悲しいことですが、いつかは別れていく相手です。

いや、だからこそ、

「今、かけがえないこのご縁を大切にしていこう」

と育む気持ちが生まれるのでしょう。

謝罪する人は損するようで得をしている、と説かれた釈迦

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【禅定(1)】


仏教で教えられる六度万行の一つに『禅定』があります。

「禅」は「しずめる」、「定」も「定める」こと。

散乱する自分の心をしずめ、定めることをいいます。

人のことばかり「あいつが悪い」と非難する心をしずめ、

自分の問題点や失態を反省することです。

 

たいてい私たちは人の問題点やミスには厳しくあたりますが、

自分の問題点やミスとなると、なかなかメスが入らないものです。

自己を反省し、悪いところを認め、謝罪するのは

口で言うほど簡単ではなく、大変難しいことですが、

それはお釈迦様が勧められた、良い種まきですから、

やがて幸せな花が咲きます。

 

今から話すことは事実を基にして創作したフィクションです。

場所は小学校の放課後。

A君は、友人B君とサッカーをしていて、

教室の花瓶を割ってしまいました。

その花瓶はみんなの寄せ書き入りの大切な花瓶だったのです。

怖くなった2人は、すぐその場から逃げました。

 

翌日の放課後、サッカーボールと壊れた花瓶の状況証拠から

誰がやったのか、緊急のホームルームの時間になりました。

正直に申し出る者が出るまでホームルームは続行だ、という教師に

教室中「やった奴、早く言えよ~」という雰囲気です。

 

いたたまれなくなったA君が、B君の方に目をやると、

ちょうどB君と視線があいました。

B君は真摯な顔もちで、ゆっくり静かにうなづきました。

「あー、これは自分達がやったのを告白しようと

B君は言っているんだな」とA君は判断し、

静かにうなづき返しました。

 

一呼吸置いて覚悟を決めたA君、

「はい、自分がやってしまいました」と手を挙げました。

当然、後に続いてB君の手をあげる声が聞こえるかと思いきや、

なんとB君は知らん振りしています。

 

結局、教師から叱られたのはA君だけでした。

B君のうなづきは

「とにかく黙っていようぜ、どうせわかりっこないんだから」

というサインだったのです。

 

ホームルームが終わり、B君がやってきてA君に言いました。

「お前、馬鹿だな。黙っていれば俺たちってわかるわけないだろ、

なんで言うんだよ、ば~か」と耳元で言います。

 

こんなときに「あ~、格好悪い・・」

と悔やんだ、ということですが、

これは本当にA君は格好悪いといえるでしょうか。

 

A君一人謝り、叱られ、恥をかき、

B君は謝ることなく、誰からも叱られず、

A君は損をし、B君は得をしたように見えますが、

それは近視眼的な見方です。

もっと高所大所から見れば、本当は謝罪したA君は得をし、

B君は損をしているのです。

 

もしあなたがこのときの小学校の教師でしたら、

申し出たA君に対して、どんな気持ちを持たれますか。

決してマイナス評価にはならないのではないでしょうか。

むしろ「人間的に見込みがあるな」と、

好印象を持つのではないかと思います。

失態を正直に申し出て謝罪するのは基本中の基本ながら、

大人でもなかなか実践できないことですから、

正直に申し出たA君を立派だなと思うと思います。

もちろん立場上叱りはしますが、心の中では、

A君の正直さを好ましく思うのではないでしょうか。

 

クラスメイトとて、A君のことを格好悪いと思わないでしょうし、

すぐ忘れてしまいますし、成熟した生徒ならかえって

「あいつ、まっすぐな奴だな」と、

別の意味で記憶してくれるでしょう。

 

一方、ごまかしたB君はどうかといえば、

教師やクラスメイトの記憶にも残らず、

もしあとで目撃者の発言で、B君も共犯だったと発覚したときには

教師からもクラスメイトからも著しく信用を失い、

悪い意味で記憶に残り、それこそ「格好悪い」結果を招きます。

 

その場その時の事象だけ見るのではなく、

長いスパンで視野を広げれば、

どちらが幸せになるか、明らかでしょう。

 

さらにいえば、人がどう思うかどうかに関係なく、

謝罪のできる人は、やがて問題点を克服し、向上していきますが、

謝罪せずごまかす人は、向上できず、

同じ失態を繰り返し、

ごまかしを重ねなければならなくなります。

慢性化したごまかしは、裏表のある人格になり、

顔つきや態度口調にも、それはにじみ出て、

ごまかしきれないものとなっていきます。

「まいた種は必ず生える」の仏説通りです。

 

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忖度って何?と頭抱える外国人記者を何とするか

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【出世本懐(1)】

 

「忖度(そんたく)」という言葉が、話題です。

外国人への記者会見で籠池理事長が

「口利きはなかったが、忖度はあったと思う」

と発言したことから、

「What is sontack?」となってしまった、というもの。

 

日本人でもあまり使わない言葉ですから、

日本語のできる外国人もわからなかったのでしょうが、

それでも日本人なら意味を説明されれば、肌感覚で

言葉の持つ意味を理解できると思います。

しかしこれが日本人独特の文化と生活を知らない外国人には

この言葉の意味を理解するのは、確かに難しいかもしれません。

通訳も相当困ったみたいです。

 

「慮る」「気を遣う」「空気を読む」など、

「忖度」に近い言葉は日本にはいろいろありますが、

「忖度」とは何か、ストレートに言えば

「(言われなくても)意向を察して行動する」

という意味でしょうが、そういう意味ですよといった時点で

「忖度」の意味を失うような気がして、

何しろ難しいところです。

 

ところがこれが日本社会では非常に重視されており、

こういうことに長けている人は、日本の組織では重宝され、

特に政治家なんかにはまず間違いなく求められる資質だと思います。

 

デーブ・スペクターはやはり日本通で

「“忖度”は、便利なようでずるい日本語。

“よろしくお願いします”って、

色んな意味を含み過ぎて英訳できない。

その悪い部分が前面に出た」

と言っていましたが、

「よくわかっていらっしゃる」と言いたくなるコメントです。

 

これがNYタイムズの記事には

「忖度」を、日本政府側の「不法な財政的な行為」と

アメリカ人がスッと分かる表現に変えられ、

分かったようで分からない事件になってしまいました。

 

どこまでを「口利き」といい、どこから「忖度」なのか、

証拠も残らず、法で裁けず、このたびのようなことは

これからも繰り返されるでしょう。

 

「忖度」は、ある意味、“世界にない日本の美徳”として

称賛されるケースもあると思いますし、

このたびのように“世界にない日本の悪徳”として

非難することもありましょう。

結局、「忖度」する人、される人の志、目的、

そこに大義があるか、という根本問題になってくるかと思います。

 

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「もっと信心しなさい」と口にする者は仏教を知らない人

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【信心(1)】


宗教の教祖や古参の信者が、信者に幸福なことがあると、

「信心しているおかげだよ、よかったねえ」と言います。

一方、不幸なことがおきると、今度は

「信心が足りないからこうなったのだ」と言います。

あるいは「信心しているから、それくらいの不幸で済んだんだ」

と諭して納得させるケースもあります。

なにしろ、信心が強いか弱いかで、

運命が良くなったり、悪くなったりするという宗教は

日本だけでも、ごまんとあります。

 

そういう宗教の集会に行くと、

「こんな不幸が、信心したら、こんな幸福になった」

という体験談のオンパレードです。

いくつも聞かされるうちに、

「私もこれを信心したら、そうなれるのかな」

と思うようになります。

 

「いや、ならんでしょう」と苦笑する人は冷静な人ですが、

人間は苦しくなり、追い詰められた心境になると、ふだんなら

「よくそんな根拠のない、いい加減な話しを信じられるものだ」

とあきれる話しにも【溺れる者はワラにもすがる】で、

助けを求めて、すがってしまうのです。

 

「信心しなさい」「もっと信心しなさい」

「もっともっと信心しなさい」「信心が足りない」

とずっと強いられます。

これに完成はありません。

そういう人たちは、疑わないように、疑わないように、

懸命に力んでいる人ばかりです。

 

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真田昌幸の嘆きにショーペンハウエルの言葉を思い出す

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有無同然(1)】


昨年の大河ドラマ「真田丸」で、草刈正雄扮する真田昌幸が、

秀吉の家臣となり、秀吉やその側近の顔色を窺う日々に嫌気が差し、

「信濃の国衆と共に、北条や武田と渡り合った日々は、

明日をも知れぬ命だったが、あの時の方がよかった」

と述懐する場面がありました。

 

戦乱の相次ぐ混乱期から

秀吉の天下統一、家康の江戸幕府と安定していきましたが、

それはある面、自由が束縛され、管理される

窮屈な時代の到来でもありました。

真田昌幸のように、その閉塞感を疎んじ、

個々が非常にバイタリティを持って表現できた

群雄割拠の世を懐かしんだ人は、

武将の中にも相当あったように思います。

 

徳川家康は、戦乱の世を終わらせる、という大義を掲げ、

江戸幕府を開き、

「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」と評される、

260年の長きにわたる泰平期を築きましたが、

その平和な時代は、ある面、退屈で、窮屈で、

自己の存在理由が見いだし辛かった人も多かったでしょう。

司馬遼太郎は戦国時代を「明るくて風通しがよく、

個々の人生に可能性があった日本史上最もアクティブな時代」

と評し、「平和な江戸時代の方が暗かった」と述べています。

 

では、どこから敵が攻めてくるかもしれぬ、

いつ家臣が寝返るかもしれぬ、

肉身が人質となり引き裂かれ、無残に殺される、

痛ましい戦乱期の地獄を見てきた人たちは

誰かこの戦乱を収めて平和な暮らしを実現してくれる人はないか、

と切に英雄の出現を、やはり望んだのではないでしょうか。

 

さて、今日の日本ですが、戦争を経験し、

その悲惨さを嫌というほど味わった世代は、80~90代であり、

毎年、次々と亡くなっています。

そういう人は「本や映画では、戦争の悲惨さはわからない」と

言います。

今後ますます日本は戦争を知らない人ばかりになっていきますが、

その中で少なからぬ人たちが、

今の日本の不自由で退屈な日常にため息を覚えています。

「いっそのこと、戦争でもおきたら、閉塞感なくなるだろうに」

という空気もなんとなく漂っています。

 

ショーペンハウエルは

「(人生は)苦痛と退屈のあいだを、振り子のように揺れ動く」

といいました。

戦って苦痛になると、それを嫌がって平穏を求め、

やがて退屈となると、それを嫌がって戦いを求める

人類の歴史は、それを振子のように

繰り返しているようなものかもしれません。

 

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紀伊国屋亦右衛門が仏門に入ったエピソード

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【出世本懐(1)】

 

かつて日本国内の長者番付で上位に入った不動産会社の社長は、

70歳を過ぎてからこんな思いを抱くようになったと、

雑誌社の取材で答えています。

「70歳を過ぎた瞬間に、すべてが虚しくなりました。

自分の人生を振り返って、人間として今後いかにあるべきか

を考えるような年齢に達したんです。

いまの商売はもう広げません。後片付けの段階ですね。

私の友人でも、資産家が4~5人いましたが、

みんな50歳前後で逝ってしまいました。

みんな、いまが永遠に続くと思っていたんですが、

おカネはあの世に持っていけませんからね。残酷なものです」

 

この方は70歳まで、商売を広げ、高収入を目的に、

人一倍突き進んでこられたのでしょうが、

己の死を見つめられた時

「おカネはあの世に持っていけない」と直感され、

すべてを虚しく感じられたのでしょう。

 

この方だけではない、

みな財産と名誉を追い回し、日々、一喜一憂していますが、

そんな日常のまどろみに、突如として「死」が襲います。

一人一人の眼前に「なぜ生きる」と突きつけられる時です。

その時、今までの信念は総崩れになり、

底知れない闇に一人ぼっちで向かう己の姿に愕然とするのです。

 

そんな闇黒の死がいつ襲いかかるか分からないから、

何をどこまで手に入れても、常に人生が虚しいのだよ、と

釈迦は説かれています。

 

この真実に驚いて仏門に入った人のエピソードを紹介して、

今日の内容としたいと思います。

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京都の紀伊国屋亦右衛門は若い頃、大きな商家で働いていた。

非常に才気があり利口だったので大変可愛がられた。

あるとき主人が亦右衛門を呼んで言った。

「おまえはいかにも商売向きの才能を持っている。

金百両を与えるから、思う存分好きな商売をやって

一千両にしたら帰ってこい」

 

大層喜んだ亦右衛門は、早速、商売に出かけた。

初めから大きな商売をしては失敗するかもしれぬ。

小さい商いから始めて確実に利益をあげてゆこうと考えて、

まず紙屑を買ってちり紙にすき直して売った。

三年間に三百両でき、五年間でついに千両の財産を作った。

「先年頂きました百両で、千両の資本を作りました」。

亦右衛門は帰ってお礼の挨拶をした。

 

主人は彼の商才に感心して、

「才能のある人間だと見込んではいたが、驚いた奴だ。

今度はその千両で一万両作ってみないか」と激励した。  

五、六年して亦右衛門は、言われたように一万両にして帰ってきた。

主人は驚嘆して今度は十万両にせよと言ったので、

三年後にそれも成し遂げた。

 

ますます欲が深まってきた主人は、

さらにそれで百万両儲けて帰れと命じた。  

この時、亦右衛門は、

「十万両を百万両にするのは百両を一万両にするよりも

容易いことですが、命あっての金であります。

どれだけあっても金は、これで十分とは思えません。

人間の欲には限りがない。

限りなき欲の奴隷に私はなりたくはありません」。

きっぱりと主人の要望を断り仏門に入ったという。

 

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