【有無同然(1)】
昨年の大河ドラマ「真田丸」で、草刈正雄扮する真田昌幸が、
秀吉の家臣となり、秀吉やその側近の顔色を窺う日々に嫌気が差し、
「信濃の国衆と共に、北条や武田と渡り合った日々は、
明日をも知れぬ命だったが、あの時の方がよかった」
と述懐する場面がありました。
戦乱の相次ぐ混乱期から
秀吉の天下統一、家康の江戸幕府と安定していきましたが、
それはある面、自由が束縛され、管理される
窮屈な時代の到来でもありました。
真田昌幸のように、その閉塞感を疎んじ、
個々が非常にバイタリティを持って表現できた
群雄割拠の世を懐かしんだ人は、
武将の中にも相当あったように思います。
徳川家康は、戦乱の世を終わらせる、という大義を掲げ、
江戸幕府を開き、
「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」と評される、
260年の長きにわたる泰平期を築きましたが、
その平和な時代は、ある面、退屈で、窮屈で、
自己の存在理由が見いだし辛かった人も多かったでしょう。
司馬遼太郎は戦国時代を「明るくて風通しがよく、
個々の人生に可能性があった日本史上最もアクティブな時代」
と評し、「平和な江戸時代の方が暗かった」と述べています。
では、どこから敵が攻めてくるかもしれぬ、
いつ家臣が寝返るかもしれぬ、
肉身が人質となり引き裂かれ、無残に殺される、
痛ましい戦乱期の地獄を見てきた人たちは
誰かこの戦乱を収めて平和な暮らしを実現してくれる人はないか、
と切に英雄の出現を、やはり望んだのではないでしょうか。
さて、今日の日本ですが、戦争を経験し、
その悲惨さを嫌というほど味わった世代は、80~90代であり、
毎年、次々と亡くなっています。
そういう人は「本や映画では、戦争の悲惨さはわからない」と
言います。
今後ますます日本は戦争を知らない人ばかりになっていきますが、
その中で少なからぬ人たちが、
今の日本の不自由で退屈な日常にため息を覚えています。
「いっそのこと、戦争でもおきたら、閉塞感なくなるだろうに」
という空気もなんとなく漂っています。
ショーペンハウエルは
「(人生は)苦痛と退屈のあいだを、振り子のように揺れ動く」
といいました。
戦って苦痛になると、それを嫌がって平穏を求め、
やがて退屈となると、それを嫌がって戦いを求める
人類の歴史は、それを振子のように
繰り返しているようなものかもしれません。
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