親鸞に学ぶ幸福論

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家康が心から欲しいものはただ一つだった

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【流転輪廻(1)】


以前、Twitterでこんなつぶやきをしていた人があり、心に残りました。

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学生時は社会人すげー
新卒時はトップセールスすげー
会社員時は独立すげー
フリーランス時は社長すげー
って思っていました。
でも、そうなったり、なりそうな時はあまり達成感はなくて、むしろここからまた始まるから頑張らなきゃと、いつもリセットされ、再スタートする。
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このつぶやきに共感する人も少なくないのではと思います。

もちろんこのつぶやきを発している人は、トップセールスになり、独立し、社長となっていく階段を上る中でこういう発言なのですから、デキる人に違いなく、若者らしい向上心あふれる意欲的な発言であり、おそらくこれに「いいね」「リツイート」する人も、前向きな意味で刺激を受けたということでの反応なのだと思います。

ただ同時にこのつぶやきは、どこまで行けば満たされるんだろう、との本人のぼんやりした思いも含まれているように感じます。

そしてそのぼんやりした思いにこそ共感する人もあると思うのです。

 

わたしはこのTwitterのつぶやきに徳川家康の遺訓の一節を思い出しました。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」

(オレの一生は苦しみ悩みの重荷を背負って歩き続けるようなもので、死ぬまでその重荷は下ろせなかった)

この述懐に「さすが家康、苦労人だな、そうやって努力を重ねてきたから天下人になれたんだな」と感心する人もあるでしょうし、事実偉人の名言として知られる一節です。

 

しかし決してこの歌は、人生の勝利者としての言葉ではなく、どこの誰もがしんみりと感じ得る人生の実態ではないでしょうか。

なぜならこの歌、「重荷を背負う人生行路だったけど、天下を取って今重荷を下ろしたぞ」と満足している家康の言葉ではないのですから。

天下を取っても重荷は下ろせない、と家康は述懐しているのです。

 

人質から始まった彼の人生は苦労続きでした、

桶狭間の戦を経て一国一城の主になりますが、織田、武田などの大国に囲まれ、常にそのプレッシャーの狭間で重荷は下ろせません。

妻や子供や家来にも気を遣い、時に非情な選択をし、他の武将が次々と失脚する中、着々と領土を広げますが、秀吉に領地換えをさせられ、ここでもまた、忍従を強いられる。

秀吉亡き後、ついに征夷大将軍となり、幕府を開きますが、天下を取ってなお、大阪の秀頼の存在を憂い、島津や伊達の江戸侵攻を恐れ、最後は老いと病という重荷に苦しみました、

そして最後に詠ったのがあの遺訓です。

 

家康が心から欲したものは何だったのだろう。

本人は自分の本心に気付かなかったかもしれませんが、それは天下統一でもなければ、幕府を開くことでもなかったはず。

物心つくときから晩年までただ一つ家康が望んだことは「重荷を下ろしたい」これ一つだったに違いない。

しかしついに重荷を下ろせなかった、と言って息を引き取っているのです。

 

このように、どこまで行っても完成やゴールがない人生の実態を仏教では「流転輪廻」といいます。

この流転輪廻からの解脱が仏教の目的なのです。

 

 

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