親鸞に学ぶ幸福論

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人生の黄昏時に「生きる意味」を想う

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【無常(3)】


育児日記には「できるようになったこと」チェックシートがあります。

「首がすわった」「寝返りができた」「歯が生えた」「お座りができた」「初めて離乳食を食べた」「バイバイができた」など、

初めてできた日にちを記入できるスペースがあり、

これを埋めていくことにパパとママは喜びを感じるそうです。

 


こうして毎週、目に見えて成長していく子供の将来は、前途明るく楽しみですが、

その対極にあるのが、高齢者です。

高齢者はどんどんできないことが増えていきます。

育児日記ならぬ、老人日記があれば、

そこには「できないようになったこと」チェックシートがあり、

「歯が抜ける」「免許証を返す」「人の名前を思い出せなくなる」「立てなくなる」「固形食がのみこめなくなる」など、

だんだんチェック事項を埋めていくことになります。

 


育児成長日記は書き込んでいくのも楽しみで、売れていくでしょうが、

高齢者衰退日記の方は書き込みたくもないし、見たくもない、

制作しても売れないのではないかと思いますが、

これも、人生の黄昏時、人生の下り坂、といわれる、私たちの確実な行く先には違いありません。

 


どんどん老いていき、やがて死ぬ、この無常の人生に何の意味があるのか、

そこをごまかさず直視し、老と病と死を超えた本当の幸福を求めて、

シッダルタ太子が出家されたのは、29歳の時でした。

 

 

  

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仏教の説く「無常」と「無情」の違いとは

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【無常(2)】


友人と二人、駐車場脇の花壇に咲くあじさいの前を通ったときのこと。

ついこないだまできれいに咲き誇っていたあじさいの花が

夏の日差しでか、さび色に朽ち果てているのを見て、

「無常だよな」と私がぼそっと言ったところ、

横にいる彼は、私が「無情だよな」と言ったと誤解したことがありました。

連日の猛暑でぐったりしたあじさいを

私が「かわいそうだ」「哀れだ」という意味で、

「無情」という言葉を使ったと思ったそうです。

 


その後の会話のやりとりで

「無常」を「無情」と受け止めていたのが分かったのですが、

読み方が一緒なのと、一般的には「無常」より「無情」をよく使うので、確かに誤解しやすいですね。

ただ意味自体を考えれば、あながちに間違いともいえません。

確かに「無常」は「無情」だからです。

 


かつてはその業界で「○○にその人あり」と権勢を誇った人が、

脳梗塞や難病で体が思うように動かず、病床で呻吟する姿に、

「無常」を見せつけられますが、

まさにその姿は「無情」でもあります。

20代の看護師におむつの交換をしてもらい、

介助なしでは食事も取れない有り様に

「あれがあの辣腕でならした△△さんか」

と、見舞いに訪れたかつての部下も言葉を失うそうです。

 

 

十何年ぶりにテレビで懐かしの女優を見かけたりすると、

「老けたなぁ」と驚くことがあります。

無常の世ですから老いるのは当然とはいえ、

それが美しい人だとなおさら、その「無常」は「無情」、残酷なものです。

 


高齢化が進む日本で深刻化しているのは、介護問題です。

私の知り合いにもご本人も65歳以上なのに、

さらに高齢の親を介護している方があります。

これを「老老介護」というそうですが、さらに深刻なのは「認認介護」です。

「認認介護」とは、認知症の夫を、同じく認知症が進んできた妻が介護することです。

今日、在宅介護の世帯の約10パーセントが「認認介護」状態だといわれ、その割合は増加する一方です。

無常の世の中、やがて我が身にも訪れる現実とはいえ、

痛々しいばかりで、あまりに「無情」です。

 


病院でも無常の嵐が吹き荒れています。

末期医療を施す病棟では、

入院して一ヶ月足らずでベッドが空き、また次の人、次の人と入れ替わり、

恒例の事務処理手続きのように、医師も看護士も慣れていくそうで、

その姿にも「無情」を感じます。

 


無常の風の吹きすさぶ、無情の世にあって、

真に変わらない幸せはないか、人は心の底で渇望しています。

 

 

 

  

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『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の無常観

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【無常(1)】

 

日露戦争における日本の勝利は、

世界が驚嘆した「大番狂わせ」「ジャイアントキリング」であり、

戦勝を知った日本国民の狂騒ぶりは、「半端なかった」そうです。

W杯勝利の渋谷のスクランブル交差点のニッポンコールのようなかわいいものではなく、

戦勝の号外が出るやその夜、東京では10万人以上の大々的な提灯(ちょうちん)行列となり、

夜が昼に一変する大騒ぎとなり、その熱狂の混乱で、20人の死者までもが出ています。

 


その日露戦争勝利までの推移を小説にしたのが、

司馬遼太郎の『坂の上の雲』です。

あの長編歴史小説のクライマックスは、

連合艦隊とバルチック艦隊の激突、日本海海戦です。

「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」

決戦を前に、総司令官東郷平八郎はこう各艦に打電しました。

『坂の上の雲』では、これを聞いた兵士の気持ちをこう記してます。

「伝声管の声はカン高く、しかも文語であるため意味はよくわからなかったが、

この海戦に負ければ日本は滅びるのだというぐあいに理解し、わけもなく涙が流れた」

 

 

今日も日露戦争は、日本人が欧米列強に対して起こした奇跡としてたびたび語られますが、

司馬遼太郎の視点は、日本の誇りを謳い上げたものでもなければ、英雄たちの武勇伝でもない、

あの作品の底に流れるのは、仏教の教えに相通じる『無常観』だと私は感じます。

 


それが色濃く出ているのは『坂の上の雲』最終巻のあとがきに司馬遼太郎の文章です。

そこで司馬氏は、日露戦争後、日本の国民と国家が勝利を絶対化し、

神国日本は負けないと慢心し、太平洋戦争に突入していく過程を述べた上で

「敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にするとすれば、

長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものは、誠に不思議なものである」

と綴ってます。

 


屈辱や敗北も、いつの日か「あれがあったればこそ」と喜びに転じることもあれば、

成功や栄光も、いつしか「あれは何だったんだろう」と失意に変じてしまうこともある。

勝った負けたと狂騒したのも「夏草や 兵どもが 夢の跡」ではないか、と

語りかけてくる、印象的な締めくくりでした。

 

 

 

 

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世間さまって、誰のこと

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【空事・たわごと・真実あることなし(2)】

 

日本人は子供の頃から

「人様に迷惑をかけるようなことだけはするなよ」とか

「世間さまに笑われるような人間にはなるなよ」とか、言われて育ちます。

理不尽なことでも年長者から

「世間とはなぁ、そういうもんなんだ」

と言われると、その主張が通ってしまうものです。

 


日本人に特に強い、一種の「世間」信仰とでもいいましょうか。

イスラム教の国ならば、何かと「マーシャーアッラー(神の心のままに)」ですし、

キリスト教ならば「エホバの神に従いなさい」ですが、

そこへ行くと日本は「神様」でも「仏様」でもなく、

「世間さま」に恥ずかしくないように、と教え込まれます。

 


しかし考えてみると、「世間」というのは一体何なのでしょうね。

「世間さま」「世間さま」って、さっきからうるさいけど、

「世間さま」って、いったい誰なんだ、

「世間さま」とやらを、ちょっとここに連れてこい、といったら、

どうなるだろう。

 


たとえば先回のメルマガでお話しした「三国志」の

妻の肉を主君に提供するという猟奇殺人エピソードも、

『三国志』の時代の中国では「世間さま」から感心される美談でした。

http://kikuutan.hatenablog.com/entry/sanngokusi

 


日本の江戸時代の村落では、

夜中密かに忍び込む「夜這い」が公然たるもので、

忍び込まれる側の親も大目に見ましたが、

もちろん今日こんなことをしたら「世間」が黙っていません。

即刻訴えられて刑務所です。

 


一切の行動の規範のように語られる「世間さま」ですが、

それは結局、周りの大多数の人が間違いないと思っている意見のことであり、

それは、時代や場所によって、コロコロと変化します。

間違いないものではありません。

「万のこと・皆もって、空事・たわごと・真実(まこと)あることなし」と、

の「万のこと」の一つなのです。

 

 

 

 

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万の事・皆もって、空事・たわごと・真実あることなし

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【空事たわごと真実あることなし(1)】

 


「三国志」にムチャクチャなエピソードがあります。

劉備玄徳の家臣が、主君劉備を接待するのに

自分の妻を殺して肉料理としてふるまったという話です。

しかもそれを「三国志」の著者は美談として紹介し、

後日その事実を知った劉備は、その主人の厚意に深く感謝したとあります。

さらに、この後にこの話を聞いた曹操もたいそう感動し、

その主人に金を送ってます。

 

現代なら、カニバリズムの猟奇殺人、

食べさせられたものもたまったもんじゃない、と激怒するところです。

(ちなみにこのエピソードは、あまりに現代の価値観と異なっているので、

三国志の小説、マンガではカットされています)

 

自分の家族を殺して主君をもてなすのを美談にする価値観を持った人が

もしあなたの上司になったら?と考えたらいかがでしょう。

パワーハラスメントどころではありません。

 


このように現代の私たちの感覚ではとんでもない極悪非道も

時代や場所が変われば美談として語られるということです。

逆に今日は常識、良識とされることも

その時代や国によっては、大変な重罪に問われることだってあるのです。

 


たとえば現在の日本では、主権国民が常識ですが、

昭和の戦時中の日本では、天皇に忠義たることが

国民の最高の美徳とされ、道徳の規範でした。

その当時、「主権在民」「労使平等」などと叫べば

たちまち「アカ」「非国民」とレッテルを貼られ、投獄、拷問でした。

 


政権が転覆すると憲法も変わり、

収監されていた者も、一夜にして無罪放免、

昨日までの権力者は糾弾され、断罪される国もあります。

 


欧米では親や教師から、自己主張の大切さを学びますが、

日本では周りのことを考えた行動をとるよう、教育されます。

周りの空気の読めない人は日本ではひんしゅくを買い、見下げられますが、

欧米では、自分の意見を持たない人、自己主張できない人が見下げられます。

 


このように人間の決めた憲法、法律、常識、モラルは、

時代や場所によって大きく変動しますから、

あてにならないものなのです。

親鸞聖人が「万のこと・皆もって、空事・たわごと・真実(まこと)あることなし」と、

歎異抄に言われている「万のこと」の1ページ、といえましょう。

 

 

 

 

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依存と自立の関係を『愛憎』の仏説から語る

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【愛憎(1)】

 


先日のブログで「愛憎」について書いたところ、

お二人のメルマガ読者の方から

「では人を愛さない方がいいということでしょうか」

とのご意見(ご指摘?)をいただきました。

その方々へのお答えとして書いたメールの内容を元に、

今日のメルマガでお話しいたします。

 


 
人を愛し、信じ、たよりにし、支えにすると、

分かってくれないことにショックを受け、

裏切られれば憎くなり、悲しくなってくる、

これを仏教では「愛憎一如」と説かれます。

 


では、そんな苦しみに陥らないようにするには、どうすればいいか。

「愛さないことだ」という人もあります。

「愛するから傷つくんだ。愛さないこと、期待しないこと、依存してはダメ、自立しなければ」

と自らにも言い聞かせ、人にもそう勧める人があります。

 


しかし誰にも依存しない生き方が、自由で幸福に満ちているかというと、

それはそれでまた違う苦しみがあるものです。

 


誰にも依存せず、自立した女性を目指して頑張ってきたら、

皮肉にも買い物依存症になった、という女性の実体験を聞いたことがあります。

「依存はダメ」「依存はダメ」と気負いすぎて、

結局違う何かに依存してしまうケースも少なくありません。

 


薬物やアルコールなどの依存症が取りざたされる機会が多くあるので、

「依存」という言葉には、相当マイナスな響きがありますが、

依存症と呼ばれる病的な状態が問題なのであって、

依存することそのものは、否定されるべきものではありません。

そもそも私たちは 何かに「依存」しなければ生きていけない存在だからです。

 


依存するとは、言い方を変えれば、たよりにする、支えにする、力にすることです。

夫は妻にいろいろな面で依存しています。

奥さんがいなければ、靴下がどこにあるかも知らない、アイロンのかけ方も知らない、

そういう男性は多いと思いますが、奥さんにあらゆることで依存しているといえます。

妻も夫に依存しています。

苦しい時に相談する存在であり、一緒に対処法を考えてくれる夫

お互い支え、支えられているのは、言い方を変えれば、依存し、依存されている姿です。

 


夫婦でありながら、お互い少しも相手に頼らない、支えにもしない、

全く依存しない関係のというのもどうでしょう。

 


親は子供をたよりにし、子供は親をたよりにしています。

子供が成長して少しも自分を頼らなくなると、

頼もしく感じる反面、親からすると寂しくもあります。

子供にしても、親が全然自分に依存してくれないと寂しく思うものです。

面倒をかけたくないからと、年をとっても一人暮らししている方はいますが、

もっと子供に頼ったらいいのにと思いますし、

またそれを子供も期待してるというケースもあります。

 


何もかも「依存してはだめだ」「たよったら負け」と生きてきた結果、

いつしか自立は孤立になり、誰にも弱音一つ言えず、孤独に震える人もあります。

 


以前の心理学では、依存心の少ない人=自立している人、というように、

自立と依存は反対概念のように扱われていました。

ところが最近はそうではなく、

依存すべき時に依存し、そのことを認識し、感謝することによって自立する、と言われます。

依存の大切さを忘れて自立しようとしても、自立できるはずがないのです。 

 


相手に支えられて今の自分があることを感謝し、

そんな相手を自分もまた支えようと向上する関係でありたいものです。

 

 

 

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『歎異抄』の「弥陀の誓願不思議に助けられ」の意味を解説すると

 

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【生死の一大事(3)】

 


先回と先々回の2回で、

「生きる」とは「冥土の旅」であり「滝壺に向かう小舟」だと譬え

生死の一大事』の解決が仏教を聞くただ一つの目的である

とお話ししてまいりました。

 


よって仏の救いとは、この『生死の一大事』から救われることなのです。

有名な『歎異抄』の冒頭『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』の一節で、

親鸞聖人が「弥陀の誓願によって助けられた」と言われているのも、

ことさらに「何から助けられた」と言われていなくても、

当然、「生死の一大事から助けられた」ことに他なりません。

『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』とは、

「親鸞は弥陀の誓願によって生死の一大事から助けられた」

と告白されたお言葉なのです。

 


一般的に「救われた」「助かった」といっても、その体験もいろいろです。

砂漠でノドの渇きに苦しむ人が、水を与えられたら「ああ、救われた」と口にします。

どの医者からも見放された難病患者が、名医の手術で完治すれば「助かった」と言います。

冬山での遭難を救助隊に発見され、九死に一生を得たときも「助かった」と喜びます。

 


しかし、これらの場合「助かった」といっても「一時的な」救いです。

ノドはまた渇きますし、病気は再発もありえますし、

冬山から救助されても、また何かの災害や事故に遭うこともあります。

「その時は助かった」ということであって、

いつか何かのことで「今度ばかりは助からなかった」と、

死を迎えねばならないときがきます。

 


名医の手術も、冬山の救助隊も、

滝壺に進んでいく小舟のスピードを少しでも遅くする努力であり、

それでは本当の意味で「救われた」とはいえません。

私たちの「助かった」は、一時的な救いであり、

誤解を恐れず、辛辣な言い方をしてしまえば、

しばらく死ぬのが先に延びた、に過ぎません。

 


親鸞聖人の『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』の告白は

そんな一時的な救いではなく、根本的な救いです。

それは死の滝壺に向かう一大事から救われた大きな喜びと深い感謝なのです。

 


「必ず死ぬのに、なぜ少しでも長く生きようとするのか」

「間違いなく死ぬのに、なぜ生きねばならないのか」

この難問が「この幸せな身になるためだったのか」と氷解したときが

弥陀の誓願不思議に救い取られた時。

そして、その喜びと感謝が紙面一杯綴られているのが『歎異抄』です。

 

 

 

 

 

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