親鸞に学ぶ幸福論

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一休禅師の言葉が深い

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【旅人(4)】

 


仏教では人生を旅に譬えられますが、なぜ人生は旅なのか、

先回まで3回にわたって話をしてまいりました。

では人生という旅の目的は何でしょうか。

どこを目指しての旅なのでしょうか。

目的地はどこなのか。

まさにお釈迦さまが人間を旅人に譬えられた最たる理由はここにあります。

 

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休)

室町時代の禅僧一休は、正月で賑わう京都の辻を、この歌を朗々と詠んで歩いたと言われます。

「こんなめでたい日に、なんて不吉な」

と当時の都の人々も眉をひそめたでしょうが、人生の本質を捉えた歌といえます。

 


年が明け、門松が玄関先に飾られる元旦を迎えると、

みんな「おめでとう」「おめでとう」と言います。

しかし一休は喝破します。

「何がめでたいんだ。元旦とは冥土の旅の一里塚ではないか」と。

 


「冥土の旅の一里塚」とは、どういうことでしょうか。

一里塚(いちりづか)は、街道を旅する人の目印に、

一里(約4キロメートル)毎に設置した土を盛った塚のことです。

塚の側には榎などの木が植えられたり、

江戸まであと何里、と書かれた標識を立てたりしていました。

今でいうと、高速道路に設置されている「東京まで何キロ」と書かれた緑の標識のようなものです。

高速を運転している私たちがあの標識を見て

「まだまだかかるな」とか「もうあとちょっとだな」とか改めて認識するように、

当時、街道筋を行く旅人は一里塚を見て

「旅はまだまだ続くな」とか「もうすぐ終点だ」と

行く先に思いを馳せたのです。

 


一休はここで、元旦を旅の一里塚に例え、

その旅は「冥土への旅」だと言っています。

「冥土」とは、死んだ後の世界です。

生あるものは必ず死に帰す。

生きている人は皆死に向かっています。

一日生きたということは、紛れもなく、一日死に近づいたことに他なりません。

一日過ごせば一日、一夜明ければ一夜、「死」に近づいていくのです。

新元号へのカウントダウン、東京オリンピックまでのカウントダウンなどいろいろありますが、

私もあなたも当日を迎えられる保証はありません。

もう間違いないカウントダウンはただ一つ、「死」です。

これは万人にとって100%確実なカウントダウンです。

元旦を迎え、一年経ったということは、

それだけ大きく自分が死ぬ歳に近づいたということです。

まさに元旦は「冥土の旅の一里塚」なのです。

 


私たちは、死ぬのは嫌だ、寂しい、怖い、と心の底で感じ、

頑なに死から目を背けようとしますが、

着実に毎日、毎年、墓場へ向かって行進しているその歩みを止めることができない存在です。

すべての人が、未だ知り得ぬ、死後の世界へ向かう旅人なのです。

 


そんな己の行く先を忘れ、元旦を迎えたからと

めでたい、めでたいとはしゃぐ人々に一休は

「何がめでたいんだ、元旦は死に向かって進む旅の一里塚ではないか、

こうしてどんどん進んでオレも死んでいくんだな、と確認させられる日が元旦だぞ、

めでたいはずがなかろう。めでたいのは、おまえの頭でないのか」

と皮肉ったのが、

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

の歌なのです。

 

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令和時代に向けて書いたブログと出会い・別れを繰り返す人生

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新元号は「令和」になりました。

響きは近未来的です。

今後「令和の歌姫」「令和の怪物」といわれる人物も現われるんでしょうね。

厳しい寒さのあと、春の訪れを告げるように梅の花が咲く、

との意味があるとのことで、

3年前に書いた記事の内容とピタッとくると思ったので、再掲いたします。

http://kikuutan.hatenablog.com/entry/2015/02/12/155421

 

 

では改めて今日の仏語は【旅人】の3回目です。

 

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お釈迦様が人生を旅に譬え、人間を旅人に譬えられているのは、

昨日から今日、今日から明日へと、一カ所にとどまれず、時間の旅をし続けている有様と、

さらにその人生行路は平坦なものではなく、山あり谷ありで難儀することを過去2回でお話ししました。

今回は「なぜ仏教では人生を旅に譬えられているのか」その3回目です。

 

旅をしていると、出会いと別れを繰り返します。

新しい村に着くと、そこで初めて顔を合わせる人があります。

多くの人との出会いがそこにあります。

それからしばらくの間、心を通わせ、時にはいがみ合い、

やがて旅人はその村を離れるときがきます。

その時には、それらの人と別れなければなりません。

別れたらもう二度と会わないであろう人がたくさんあります。

旅というのは、出会いと別れの連続なのです。

いつまでも一緒にいることはできません。

 

私たちの人生もまたそうです。

特にこの3月、4月は出会いと別れの季節ですね。

卒業式、入学式、退職、入社など、さまざまな出会いもあれば、さまざまな別れもあります。

感傷的な別れも「去る者は日々に疎し」で

去って行った人はだんだん記憶の片隅に追いやられ、

やがて時々思い出しては「あんな人もいたなあ」という存在になってしまいます。

あなたも今月初めて会った人もあったことでしょう。

その人とは今後どういう仲になっていくのか、

一回きりのご縁なのか、

今後何年と縁を深めることになるのか、

それとも人生において大きな影響を与える仲になるやもしれません。

今あなたが心を通わせる人も、お付き合いしている人も、

初めて出会ったという時があったはずです。

 

さまざまな出会いと別れを繰り返しながら、私たちは日々生きています。

それは出会っては別れるのを繰り返す旅人のようなものです。

 

 

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山あり谷ありの人生行路に思うこと

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【旅人(2)】

 

お釈迦様はなぜ人生を旅に、人間を旅人に譬えられたのか、先回から話をしております。

先回は、昨日から今日、今日から明日へと、

移ろい変わっていく時間の流れの中を生きる人間の有様を旅に譬えられていると話しました。

今回も人生を旅に譬えられたのはなぜか、続けて話をいたします。

 

旅をしていると山あり谷あり、晴れの日もあれば、雨の日もあります。

横殴りの雨が叩きつける嵐の日もあれば、

吹雪の中、積もった雪をかき分けて行かねばればならない時もある。

湿地帯のぬかるみの中、泥まみれで進まなければならないこともあれば、

落石もあるような危ない山岳地帯を登らなければならない時もある。

旅をしているとさまざま難儀することがあります。

 

人生もまた同じで、さまざまな苦しみが待ち構えています。

楽な人生行路はほとんどありません。

受験戦争を抜けてやれやれと思ったのもつかの間、

今度は就職難をくぐり抜け、

ノルマやリストラに怯えて働き、

老いや病魔も襲ってくる。

まさに山あり谷ありの人生です。

 

人生は旅に例えられたと言っても、いわゆる「旅行」とは違います。

今度の10連休のGW旅行のような楽しい意味で「旅」と言われたのではありません。

「かわいい子には旅をさせろ」のことわざにある、あの意味での「旅」です。

最近ではかわいい子には旅行をさせよう、楽しい思いをさせようという意味だと思っている人もあるようですが、

このことわざの本来の意味は「子供を成長させたいと思うなら、苦労させなさい」という意味であり、

「旅」は苦しいものであるという意味で使われています。

お釈迦様が人生を旅に例えられたのも、

人生は苦しみがたくさんあるからそのように例えられたのです。

 

苦難の山河を越え、数々の回り道、曲がりくねった道にさまよい、

足を棒にしながら歩き続ける、私たちの人生行路の目的はいったいどこなのでしょうか。

お釈迦様は静かに問いかけられています。

 

 

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人生を旅に譬え、人間を旅人に譬えた仏教

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【旅人(1)】

 

お釈迦様は人間を旅人に例えられています。

これはお釈迦様の専売特許ではなく、古今東西、多くの詩人によって、

人生は旅に例えられ、人間は旅人に例えられてきました。

今日でも多くの歌謡曲に、人生を旅、人間を旅人、に譬える歌詞がよくあります。

たとえば美空ひばりの『川の流れのように』。

「生きることは旅すること」というフレーズで始まりますね。

 

人間は村人ではありません。旅人なのです。

村人ならその村に生まれ、その村に育ち、その村で田畑を耕し、その村に所帯を持ち、その村で死んでいきますが、

人間は旅人ですから、一カ所に止まってはおれません。

一つの村から次の村、次の村から次の街へと、どんどん旅をしていきます。

その旅の途中に、すごく歓迎され、居心地のいい村もある。

「いいなぁ、いつまでもここに居たいな」と思っても、

旅をしている以上、いつまでもその村に居続けることはできません。

逆によそ者扱いされ、疎んじられる村では、

「いやだな、早く立ち去りたい」と思いますが、

旅をしているのだから、そこにいつまでもいなければならないことはありません。

しばらくの間で、やがて離れる時があります。

 

人生もまた然り。

私たちはにとって、幸せな時というのもいつまでも続きませんし、

逆に苦しくて不幸で辛い時もいつまでも続くものではありません。

昨日から今日、今日から明日へと、私たちは時間の旅をしています。

松尾芭蕉が「月日は百代の過客である」と言ってるように、

どんどん月日は過ぎていきます。

 

去年の旅が終わり、今年の旅が始まったと思ったらも、もうまもなく桜咲く4月。

私は昭和生まれですが、昭和から平成、平成から次の元号と、

どんどん移り変わりながら私たちは生きております。

この旅は止まることはできません。

いつまでも平成31年3月27日にいたいと思っても、それはかないません。

抵抗できない強い力で、ゴーっと音を立てて月日は流れていきます。

私たちは村人にはなり得ません。

時を移ろう旅人なのです。

 

 

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ゲノム編集ベビー・デザイナーベビーは人類の尊厳を問うのか

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【人身受け難し(1)】

 

ゲノム編集による「デザイナーベビー」が現実化してきました。

すでに農業の分野では遺伝子の配列を書き換え、

生産性の高い品種を作り出す技術は一般化し、

この夏にもゲノム編集食品は店頭に並ぶ見通しと報道されています。

この技術は作物、家畜だけでなく、人間にも応用でき、

すでに昨年、中国の科学者がゲノムを編集して双子の赤ちゃんを誕生させ、

世界に衝撃を与えました。

 

人は生れたときにさまざまな個性を持って生まれます。

先天的に健康状態、容姿、知能指数、運動神経、みな違い、

私たちはさまざまな運命をいっぺんに受けます。

誰しも屈強な肉体で、頭脳は明晰、才能は豊かに、容姿も端麗で生れてきたかったとは思うものの、

これは人間の力ではどうにもできないことだとし、

キリスト教では「神が与えた運命」としてきました。

才能のことを「ギフト」と呼ぶのも、

ズバ抜けた才能の子供を「神童」と呼ぶのも、そういう理由からです。

 

ところがゲノム編集の技術は、「神の領域」だった誕生時の運命をも

人間がデザインできることを可能にしてしまいました。

森を切り開き、畑を耕し、自らの手で周りの環境を変え、暮らし方を変えてきた人間が、

ついに自分自身の設計図を変えることまでできるようになったのです。

 

先天的な疾患や心身の障害を回避させることができるとなれば、

親ならたとえ大金を投じてもゲノム編集を、と望むでしょうし、

人間の欲は止まりませんから、

ノーベル賞を取れるような頭脳を、女優のような容姿を、金メダルアスリートの才能を、と望むようになり、

デザイナーベビーが誕生します。

ゆくゆくはデザイナーベビーを利用できる人と利用できない人とに分かれ、

貧富の格差は、生まれた子供の先天的な格差となる世界となりそうです。

 

また遺伝子の改変は想定外の結果を生み出す可能性があり、

そのために生まれた子供が苦しむことになるかもしれません。

そしてそれは、その子だけの苦しみではなく、

改悪された遺伝子はその子の子供、孫、子々孫々に受け継がれ、悪影響を与えてしまいます。

両親を非難し、訴える子供も出てくるでしょうし、

その裁判で裁判官はどう判断すればいいのか、

といろいろな問題が勃発しそうです。

 

デザイナーベビーの出現は

「平等」「自由」「リスク」「運命」など、

あらゆる概念を変えてしまうのではないか、と多くの識者が警鐘を鳴らしています。

これはもはや科学者だけでは対応できる問題とは違います。

 


「ナイフはパンを切ることができるが、人を殺すこともできる」

ナイフ自体に善し悪しはないが、それを使う人間の心によって、

便利な道具ともなり、凶器ともなる、という西洋の格言です。

ゲノム編集も同様のことがいえます。

良いものでも悪いものでもありません。

人間がどう使うか、が問題となり、

その時には「人はなぜ生きるのか」「人間の尊厳の理由とは」「運命は何によって決まるのか」

を問う哲学思想が真に求められます。

 

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雑毒の善を説かれる龍樹菩薩(ナーガールジュナ)

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【雑毒の善(2)】

 


お釈迦様は、私達のやる善には毒が雑じっている、と言われ、

これを『雑毒の善』と説かれていることを、先回から話をしております。

ここでいう「毒」とは、「私が、誰々に、何々をしてやった、してあげた」という心です。

 

親切は「受ける」よりも「与える」方が喜びが大きい、

という事実を知っている人はあっても、

親切したとき「与えた」という意識から離れきれる人はありません。

「私が与えたんだ、誰のおかげで与えてもらったと思ってるんだ、他でもない、この私がしたんだ」

という心が毒なのです。

「あなたに与えたんだ、あなたが困っていると思って、あなたのためと思って与えたんだ。

あなたねぇ、涼しい顔して受け取ってるけど、私があなたのためにと思ってしたことなんだよ」

と言いたくて仕方ない。

「私だって余ってたから与えたんじゃない、こんな苦労もあったし、こんな大変なこともあった、それなのに与えたんだ」

とわからせたくなる。

そういう心をお釈迦様は「毒」と言われているのです。

 

しかもこの毒は与えたモノが大きければ大きいほど、毒性を強めます。

「してあげた」という恩着せ心は大きくなる、ということです。

 

何かの時に持ち合わせがない友人に1000円貸し

「悪い、今度返すな」と言われたものの、

その後何度も会っているのに、いっこうに返さない。

そうなっても「まぁ、忘れたんだろうな」くらいで

そんなにも腹は立たず、穏便に済ませることができるのは、

金額が1000円くらいだからです。

ところがこれが100万円だったらどうでしょう。

自分にとっても大金だけど、困っている友人を助けられるなら、と思いきって渡したのに、

その後いっこうに返そうとしない、なればどんな気持ちになりますか。

「なんで平気でおれるんだ。申し訳ないとか思わんもんかい。こいつ、人格おかしいんでないか」

と腹が立ってきて、友人への親切を「与えるんじゃなかった」と後悔するようになります。

 

こんな人間の善の実態を、小釈迦とも称される龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は

『大智度論(だいちどろん)』に、こうあります。

ーーーーーーーーー

四十里四方の氷の大氷原がある。

そこに二升や三升の熱湯をかけると、いったんは、地面の氷が解けるが、

翌朝行ってみると、氷が盛り上がっている。

ーーーーーーーーー

 

自分の冷たい心がいやで、

温かい心の人間になりたくて、

他人に善いことをしたのに、

期待どおりの見返りが返ってこないと

「あんなにしてやったのに」と

猛然と、怒り、憎しみの感情がわいてくる。

そんな私達の善の実態を、説かれたたとえです。

 

こんな雑毒の善しかできない人間が、本当の幸福になるにはどうしたらいいのか、

徹底して教えられているのが、仏教の教えです。

 

 

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人間の善には毒が雑じっている

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【雑毒の善(1)】


仏教に『雑毒の善』という言葉があります。

「毒の雑じっている善」という意味です。

私達のやる善行には毒が混じっている、とお釈迦さまは説かれています。

ここでいう「毒」とは、見返りを期待する心、お礼を要求する心、手柄心、恩着せ心のことです。

私が、あなたに、こんなことを、してあげた、してやった、と思う心です。

 

ある商店街で「正直魚屋さん」の記事が町内新聞に出ました。

拾った千円札を商売道具を放り出して、警察へ届け出たとの記事を読んだ近所の人が、

「馬鹿正直だなあ、千円ぐらい貰っておけばよかったのに………」

と言うと、その魚屋さん、

「いやいや、千円だったから届けたのさ」

と言ったそうです。

千円が落ちているのを見た瞬間、頭の中で算段を始める。

さて、ポケットに入れてしまうか。

それとも拾得物として届けるか。

届けたら町内新聞なんかに「正直な魚屋さん」の記事が出るかもな。。

となると、その記事が広告効果となって魚が売れるだろう。。

いつもの2割増しで客が買うと見積もると。。

千円の広告費だと思ったら安いものだ。

よし、じゃあ!

と計算する。

一万円だったら、誰が届けるかい、といったところでしょう。

そんなときの頭の中の計算は速いものです。

 

「人のため」と書いて「偽」。

「偽善」とは、「人のためにやる善」という意味になります。

いっけん私利私欲のない立派な善行だと思われるときでも

そこに何かの計算が含まれているものです。

 

まだこの魚屋さんの場合、

打算で動く自分を客観的に分析しているようですが、

たいてい良いことと判断して行動する場合、

自分の中に「見返りを期待する」私利私欲の汚い心が秘められていること自体、気がつきません。

 

だから相手がうっかりほめもせず、お礼もないと、

「こんなに~してやっているのに」

「あんなに~してあげたのに」

と怒り心頭になるのです。

 

 

 

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