親鸞に学ぶ幸福論

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「老いる」という人生の実態を直視されたブッダ

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【老苦(1)】


カピラ城に太子として生まれられたお釈迦さまが

出家される動機になったエピソードが『四門出遊(しもんしゅつゆう)』です。

『四門出遊』には、東の門を出られたシッダルタ太子(のちのお釈迦さま)が、

「老い」の実態に驚かれたエピソードが記されています。

ーーーーーーーー

太子が東の門を出ると、活気づいた町並みが広がっている。

町を見渡していたとき、太子の目にとまったのが老人であった。

その時、太子は思った。

「哀れな.......。

 老いるということは、

 腰が曲がり、歯は抜け、

 歩くこともままならず、

 邪魔者扱いされてしまうことなのか。

 自由に飛び回りたいのに、

 老いた身体という牢獄に閉じ込められ、

 自由を奪われている。

 今、若きを楽しむ私にも

 必ず年老いる未来が来る。

 私は衰える体で苦しみ、

 生きていかねばならぬのか」

ーーーーーーーー

それまでのシッダルタ太子は城中で、

自信に満ちた王族や貴族、きらびやかな美女、

若々しい兵士たちに囲まれ、

人生の華やかな一面しか目にすることはなかったのですが、

いったん城の外に出て、そこで太子が目にした光景は、

城内では故意に隠蔽されていた

「老い」という人生の現実でした。

衝撃を受けたシッダルタ太子は

「この老苦を超える道は人生にないのか」

深刻に悩まれるようになります。

 

現代における東の門は、高齢者が死を迎える「老人病棟」といえるかもしれません。

そこでは医師や看護師でもない限り、

一般人が普段目にすることのない老いの厳粛な現実が突きつけられる場であり、

足を踏み入れると、その悲惨さにまず衝撃を受けない人はありません。

人命は尊厳だというけれども、

「このどこが尊厳なのか」と問わざるを得ない状態がそこにはあります。

しかもこれは他人事ではない、自分がやがて行く処なのです。

 

シッダルタ太子が老人の姿を通して悩まずにおれなかったのは、

「なぜ人は老いの苦しみと戦って生き続けねばならないのか」

「必ず死ぬ命、なぜ矢折れ、刀折れ、それでも生き続けるのか。何のためなのか」

という、人類根本の問いでした。

ほとんどの人が目を背ける一大事に、お釈迦様は真正面から挑まれたのです。

 

 

 

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親の死・最後の教育

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【無常(1)】

 

「親の最後の教育」という言葉があります。

学校の教師、塾の講師、部活の先輩、会社の上司、友人、同僚、

私たちはさまざまな人からいろいろなことを学びますが、

なんといっても多くのことを学ぶのは親です。

人生のスタートから、食事のマナー、掃除の仕方、挨拶・返事も、ぜんぶ親から学びます。

言葉も、親が使っている言葉が母国語になります。

親が関西弁なら、子供も関西弁です。

仕事をする、ということの責任の重さも、

仕事をしている親の背中を見て子供は学んでいきます。

やがて親が老いていけば、「老い」とはこういうものなのか、親の介護を通して学びます。

 

そしていつか親が「死ぬ」時、

「死」とはこういうことなのか、と親を看取る中で教えられるのです。

「あんなに苦労して働いてきたお父さん、最後は病気で枯れ木のようにやせて・・・。いったいお父さんの人生はなんだったんだろう」

「最後あんな顔して死んでいったお母さん、私たちに何を言い遺したかったんだろう」

親が死んでいった姿は、厳粛な人生の現実を子供に見せつけることとなり、

「生きるって何だろう」と深く考えさせられます。

これが親から教わる「最後の教育」です。

この「親の最後の教育」をどう受け止めるか、で人生は変わります。

 

親鸞聖人は4歳の時にお父さんを亡くされ、

8歳の時にお母さんを亡くされています。

聖人は「波瀾万丈」という言葉がふさわしい一生を送られた方ですが、

まさに人生のスタートから激しい波が聖人に襲いかかった、といえるかと思います。

 

松若丸(のちの親鸞聖人)は、

ついさっきまで温かい手で自分の頬をなで、

優しい目で語りかけてくれていたお母さんが、

たちまち目が閉じ、顔から血の気が引き、手は冷たくなり、帰らぬ人となっていった現実に

なんてあっけなく「死」はやってくるんだろう、と世の無常に愕然とされるのでした。

その時、松若丸は8歳ですから

「お父さん、どこ行ったんだろう。お母さん、どこへ行ったんだろう。お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」

とどんなにこそ思われたでしょう。

 

松若丸がさらに考え込まれたのは、自身の行く末でした。

「お父さんが死に、お母さんが死んだ。次に死ぬのは自分の番だ。いったい自分は死んだらどこへ行くんだろう」

真剣に我が身の死んだ先を考え込まれ、真っ暗な未来に驚かれるのでした。

 

世の中には父親が死んでも、母親が死んでも、

夫が死んで見せても、妻が死んで見せても、子供が先に死んで見せても、

すべて他人事と受け流し、自分はまだまだ死なないと頑として思い込み、

我が身の確実な行く末に目を向ける人はないものです。

 

松若丸は違いました。

両親の死を縁とし、我が身の生死の一大事に驚き、

なんとしてもこの大問題を解決したいと、

比叡山の慈鎮和尚の門を叩かれたのです。

9歳の時でした。

 

 

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「それがどうした」って、それを言っちゃあ、おしめえだ

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サッカーは相手のゴールポストにボールを手を使わずに入れることを目的とするスポーツです。

その目的に向かう限り、どのパスにも、どのドリブルにも意味があります。

しかし「ゴールポストにボールを入れたところで何になる?」と言い始めたら、

どんなスーパースターの妙技も「だからどうした」となり、

もうサッカー自体が意味をなさなくなります。

時間内に何回ゴールするか、その回数で勝ち負けが決する、これがサッカーのルールなんだから、

としか言いようがない。

ではそのルールに何の価値がある、

果たしてそれは負けと言えるのか、

などと言い出したら、ただの面倒くさい人で、

「いいからお前もう、サッカー観るなよ」

と言われるのがオチです。

 

しかしこれはサッカーを例に取って言っただけのことで、人生もそうだといえます。

例えばある兵士が祖国のために戦死したとします。

その国で、彼は護国の英雄として讃えられます。

しかし祖国とは何か、守ることに何の意味があるか、と

とことん問い続けたら誰だって答えきれなくなってしまいます。

 

世間で「すごい」「偉い」と讃えられていることも、

私たちがその意味を問うのをどこかで止めているからそう言える、といえます。

世にあふれる自己啓発本、成功者の体験談がどこか薄っぺらな印象を与えるのは、

そうやって成功することに何の意味があるのか、という問いに蓋をしているからです。

 

では何の前提もなしに絶対に価値がある、と言い切れるものはあるのでしょうか。

ブッダは「ある」といわれています。

それを私たちに分かるように説かれているのが仏教です。

 

 

 

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不老不死になる方法はあるか、仏教の答えとは

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【老死(1)】


強大な権力を手中にした権力者が最後に臨むのは「不老不死」だと言われます。

闘争に勝利して獲得してきた膨大な黄金と名声が、

我が身の死によって他者に取って代わられるのが耐えがたいのか、

いつまでも手放したくない、という強い執着がそう願わせるのか、

並居る敵を屈服させてきた世界の覇者は、

人生の最期に「老い」と「死」という最大最強の敵に立ち向かうのです。

しかしこの戦いにだけは、勝利した者はついぞ聞きません。

 

中国最初の皇帝、始皇帝は中国全土を統一し、

中原の富と名声とをすべて我が物にしますが、

晩年になって不老不死を求めます。

家来である徐福に、蓬莱の国へ行き不老不死の仙薬を持ってくるよう命じたことが『史記』に記録されています。

不死を求めた始皇帝の願いはかなわず、即位から11年後に死去しています。

 

古代エジプトのファラオたちは永久に生きようと、ピラミッドを建立しました。

幾千、幾万という労働者たちの命をも犠牲にして建てたピラミッドの中に、

いつまでも覇権を振るう為に用意した金銀財宝を納めましたが、

あらかた盗賊に荒らされてしまい、その努力は砂塵にまみれています。

 

スペインが米国のフロリダを発見したのも、

沈まぬ国スペイン王が莫大の富を使って、若返りの泉を探し求めての結果でした。

発見したスペイン兵はアメリカ先住民との小競り合いで死亡し、

その後も新大陸の探検は進められましたが、若返りの泉はいまだに見つかっていません。

 

そして現代。

今度はグーグルが、数百億円を投じて作った子会社「キャリコ」を創業し、

「不老不死」に挑戦しています。

老化こそ死因につながるすべての病気の最大のリスク要因だと位置づけ、

老化そのものを治療することを目的と掲げ、

人の寿命を500歳まで延ばすことを目標としています。

 

しかしたとえ500歳まで生き長らえたとしても、

それで人類は老いと死を克服したと言えるでしょうか。

未来の憂鬱をちょっと先延ばしにしただけではないでしょうか。

 

仏教を学ぶと『十劫の昔』とか『八万劫の間』といった単位の言葉がありますが、

一劫は4億3千2百万年です。

そんな時間軸を舞台に説かれる仏の眼からすれば

『人の一生は電光朝露の夢幻のごとし』

人の命の長さは、パッと光って消える稲光、瞬く間に消える朝露のようなものなのです。

信長は「人生50年」と謳いましたが、

それが80年になろうが、人生100年時代が来ようが、

グーグルによって500年時代が到来しても、

仏教からすれば50歩100歩で、

『電光朝露の夢幻』の実態は何も変わりません。

結局どうあっても「死ぬ」のですから。

 

その一瞬の朝露のような人生にどんな意味があるのか、

ここに悩まれ、出家されたのが、シッダルタ太子(のちのお釈迦様)でした。

そして35歳、仏の悟りを開かれ、お釈迦様は、

この一瞬の人生に「尊い目的がある」と宣言されたのです。

「迷いを続け、流転を重ねてきた永遠の生命に終止符を打ち、

未来永遠の幸せになれる素晴しい目的が、この一瞬の人生に存在する。

だからこの一瞬の人命に、尊く、かけがえのない価値があるのだ」

と説かれているのが、仏教です。

 

 

 

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動物には心はあるのか、ないのか

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【宗教(1)】


キリスト教では、神が人間に不滅の魂を与えた、と教えます。

不滅の魂を持っているのは人間のみで、動物は魂がない、と教えるキリスト教の世界観では、

動物の立ち位置は「エキストラ」であり、「人間の食物」です。

エホバの神は「動物を支配せよ」「動物はお前たちの食物だ」と、

動物の家畜化や殺害にお墨付きを与えています。

 


17世紀の哲学者デカルトは、

心で何かを感じたり、渇望したりするのは人間だけで、

他の動物はロボットや自動販売機と同じで心を持たない自動機械だ、

と述べています。

「なんてごう慢な」とあきれますが、

これは別に珍解釈でも何でもなく、

キリスト教の世界観が基軸だったデカルトの時代のヨーロッパでは、

広く受け入れられた考えでした。

 

人類がこんなごう慢な思想を身につけたのは、いったいいつ頃からなのでしょう。

まだ狩猟採集民だった時代には、自分だけが心を持っており、動物には心がない、など、

ちょっと思えることではなかったはずです。

人類の居住区は、膨大な数の野生生物に囲まれており、

それぞれの動物の欲求を理解し、尊重しなければ、とても生存できなかったからです。

イノシシが今何を望んでいるのか、

オオカミはどう考えているか、

絶えず問い続けていないと、イノシシを狩ることもできなければ、

オオカミから逃れることもできない時代でした。

 

それが人間は文明の発展と共に、他の動物より格段に強くなり、

家畜として管理し、生殺与奪も人間の思いのままとなり、

動物界の圧倒的な権力者、独裁者の地位に君臨するようになったので、

こんなごう慢な思想を振りかざすようになったのだろうなと思います。

 

 

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イチローの引退記者会見に共感したと語る白鵬

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【有無同然(1)】

 


イチローの引退の記者会見の感想を聞かれた横綱白鵬の言葉が印象的でした。

イチローの

「プロに入って最初の2年、1軍に行ったり来たりの時は結構楽しかった。

3年目で急に番付を上げられちゃって、そこから先はずっとしんどかった」

との言葉に白鵬は「共感した」と述べ、

「自分も相撲が楽だったのは、大関、横綱を倒そうとやっていた関脇のときまでだった」

と語っていました。

 

イチローと白鵬といったら、

もう彼らの記録を破る者は現われないだろうといわれる金字塔を打ち立てたアスリートであり、

球界や角界のみならず、日本のスポーツ界を代表するヒーローですが、

その彼らが「苦しい」と言っているのに、その道の険しさを思い知らされます。

 

稀勢の里が引退して親方となってからのインタビューをテレビで観た時も

「えっ、これが稀勢の里?」と驚いてしまいました。

表情も温和で、声も明るくて、今までとあまりのギャップだったので。

けがを押して横綱として出場しては負けて途中休場していた、あの険しい表情、

口数少なく、思い詰めたような様子とはうって変わったような穏やかさに、

横綱としてのプレッシャーがいかほどだったか、思い知らされます。

 

アスリートだけでなく、ビジネスでも、芸能界でも、権力の世界でも、

これはどんな世界でもいえることですが、

その世界で頭角を現すのは並大抵ではありません。

ましてやトップになるのはもっと大変です。

しかしそれ以上に壮絶なのは、そのトップを維持し続けることです。

その苦しさの本当のところは、

イチローや白鵬のような人でないと分からないのかもしれません。

 

 

 

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為政者(権力者)の力を借りて仏法を広めようとするな、といわれた親鸞聖人

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【為政者(1)】

 

米中覇権争いが宇宙、貿易、通信、資源、海洋等で勃発しています。

アメリカには、あの自国優先主義、力による横暴、

トランプ大統領自身に垣間見える人種差別意識など

好きになれない点が多々ありますが、

それ以上に今の中国に警戒してしまうのは、

反対意見を許さぬ、あの政治体制と、人権を軽視した思想です。

習近平主席や共産党を批判したり、茶化したりするのを一切許さず、

SNSでそういう発言をしようものならすぐに削除され、

発言した者は目をつけられ、拘束、逮捕され、死刑もあり得ます。

しかもそういう都合の悪いニュースはまったく報道されないあの陰湿さは、

世界の次世代リーダーにするにはまったくふさわしくないものです。

 

トランプ大統領はスキャンダルを暴かれ、マスコミに叩かれ、

安倍首相も疑惑をマスコミや野党に追及されますが、

ああいうことが言えなくなれば、民主主義は崩壊です。

こんな火急の国際情勢で、スキャンダルだの疑惑だの、国会で時間取ってる場合か、という意見も分かりますが、

力を持つ者に弱者が何も言えなくなり、

多数派の前に少数派は黙るしかない、迎合するしかない、というのなら、

そもそも国会はいらなくなり、

言論の自由が束縛される今の中国のような政治体制を認めることになってしまいます。

 

日本にもかつて言論の自由が許されない時代がありました。

アメリカとの開戦時、国会も世論も威勢のいい意見が大勢を占め、

敗戦の可能性などとても言及できない雰囲気となり、

戦局が悪化した際にも、降伏の是非を論じようものなら、

たちまち「士気を落とす非国民」として糾弾されました。

沖縄が落ちても、軍部は「本土決戦」「一億玉砕」と叫び、

当時連合国が突きつけたポツダム宣言に、

讀賣新聞では「笑止、対日降伏條件」、

毎日新聞では「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」

と一面で書き立てています。

全国の各都市が空襲で焼け野原になり、ソ連が参戦し、原爆が落とされるまで、

それは続いたのです。

 

権力者に何も言えない世の中、少数意見を排除する世の中は、必ず悲劇が起きます。

悲劇の犠牲者は常に弱者です。

権力者は、力のない者の気持ちを察することができません。

利用することしか考えてないからです。

 

権力者といっても人によるでしょう、と思われるかもしれませんが、

これは「例外なく」です。

最初はそうでなくても、権力を持つと、人はそうなります。

自分の心をまじめに見ると分かると思います。

もし自分の思い通りになる世界ができたら

自分を悪く言う者の意見に寛容でいられるでしょうか。

 

権力を持つと、本性が露わになります。

権力がないときは、本性を出すと皆から攻撃されるので、

本性を出さないよう慎んでいますが、

権力を持つと、誰も何も言わなくなり、

それどころか阿諛追従する者に囲まれるようになるので、

私利私欲を押し通していてもそれを正義だと思い込んで突き進んでしまうので、

恐ろしいのです。

 

親鸞聖人はお弟子に向けたお手紙で

「為政者(権力者)に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと決して考えてはならない」

とクギを刺されています。

人間の心の実態をよく知っておられたからこそ、

権力を持つことの恐ろしさもよくよく分かられたのでしょう。

 

 

 

 

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