【人生の目的(3)】
ルソーは「人間は呼吸するために生きているのではない。何かをするために生きているのだ」と言いました。
その“何か”とは何か、はっきりしている人がどれくらいいるでしょうか。
何のために生きているかわからない人間の実態を室町時代の禅僧一休は、
「人生は 食て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる」
と詠みました。
こう聞くと「食て寝て起きて糞たれて、それだけが人生か」と思いますが、
その「それだけ」がいかに大変なことか。
食べていくのも大変です、お金が要る。
寝て起きて、だって簡単ではない、住むところを確保しなければならない。
その時にまず先立つのはお金です。
お金がなければ、そのために働かなければ。
働き続けるには、心身共に健康でなければ務まらないですし、人間関係も大事になるし、資格や才能も要求される。
そのためにはどうしたらいいか。
畢竟、人間の営みは「どうしたら金を得て生活し続けていけるか」に向けられていると言っても過言ではない。
生き続けるために人間の知力、体力、精神力はすべて注ぎ込まれています。
しかし「生きなきゃ」「生きなきゃ」とがんばって進む先には何があるか、といえば
やがて「生きられなくなる」だけです。
歩かなきゃ、歩かなきゃ、とただ歩いている人はやがて歩き倒れあるのみのように。
一休はこの歌で
「来る日も来る日も家庭と職場の往復で、“食て、寝て、起きて”の繰り返しでは、死を待つだけの人生ではないか」
と痛烈に皮肉っているのです。
では私たちは何をするために生きているのでしょうか。
何を果たすためにこの世に生れてきたのでしょうか。
この人生究極の問いに答えを見出すヒントを、フランスの哲学者パスカルはこう言っています。
「つまらぬ情動に流されて生きたくなければ、あと1週間の命と思って日々を過ごせ」
あと1週間の命となったら、ふだん私たちが、忙しい、忙しいと駆けずり回っているほとんどのことは、
どうでもよくなってしまうのではないでしょうか。
今後の生活のことを思えば、毎日の仕事も、面倒な人間関係もやっていますが、
あと一週間の命となったらどうでしょう。
嫌なことをこなすことに残された命を使うのがもったいない。
本当に「生きた」と言い切れることをして死にたい、と思うでしょう。
ではそれは何か。
あと一週間の命で、株や投機に走るだろうか。
マイホームを建築するだろうか?
本を読むだろうか?
服を買うだろうか?
お料理教室に通うだろうか?
英会話を習いにいくだろうか?
それが何になるのか、と思うなら、では何をやるのか?
分からない。
分からないけれど、日頃、大事と考えていたものが絵空事に見えてきて、
今まで人生の大半を、どうでもいいことに使ってしまったのではないか、と不安と焦燥感が襲います。
死は、一人一人の胸に「人生で一番大事なことは何か?」という切羽詰った問いを突きつけます。
そのとき自己の奥底にある闇黒の心の深淵をのぞき見るでしょう。
しかし『闇に泣いた人だけに光にあった笑いがある』ように、
これが本当の幸せになる第一歩なのです。
死を真面目に見つめることはいたずらに暗く沈むことではなく、
現在の生を日輪よりも明るくする第一歩なのです。
これを仏教では
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
と説かれます。
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