親鸞に学ぶ幸福論

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モンスターには決してムキになってはいけない

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【瞋恚(2)】


先回のメルマガでお釈迦さまの「怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」のお言葉をお話ししました。

この釈迦の一節は

「ののしられた時ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返し、闘いを挑まれ闘い返す、それはは愚かなことですよ」

と教えられたものです。

 

批判体質の人はどこにでもいるもので、

そんな人を最近は「モンスターペアレント」「モンスタークレーマー」「モンスター部下」などと言われ、

周りからおそれられます。

「モンスターペアレント」・・・学校などに自己中心的かつ理不尽な要求をする親

「モンスタークレーマー」・・・商品やサービスにクレーム(苦情)をつけ、身勝手で不当な要求をする客

「モンスター部下」・・・常軌を逸した要求や主張で上司を悩ませる部下

こういうモンスターたちのつまらぬ中傷にむきになって応じているうちに、

やがて非難の応酬となり、こちらの心も荒み、

いつしか自分もまたモンスターに変貌してしまうのです。

ニーチェはそのことを

「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい」

と言っています。

 

人間というのはおかしな生き物で、

ふだん幸せになりたいと思って生きているのに、

ときにその思い以上に、嫌いな人が幸福になることが我慢できないようで、

「自分は幸せにならなくてもいいから、あいつだけは幸せにさせない」

とまで思い詰めてしまうことがあります。

私は不幸になってもかまわないからあいつだけは許せない、

とは、なんとも愚かな心ですが、

そういう恨みねたみの心は誰の心にも巣くっています。

 

こんなブラックジョークが西洋にあります。

魔法のランプを拾った男、家に帰ってランプをこすると魔人が出てくる。

「ご主人様。何でもお望みのものを差し上げます。ただしお隣さんにはその2倍差し上げます」

男は考える。

家が一軒欲しいが、あいつは二軒も手に入れるのか・・・

100万ドル欲しいが、あいつは200万ドルも受け取るのか・・・

呻吟した挙げ句、男はひらめいた

「欲しいものがわかったぞ」と魔人に向かって行った

「俺の目を一つ取り出してくれ」

 

嫌いな人の幸福がおもしろくない、

その人の不幸を見るのが愉快だ、

そういう醜い心を仏教では『愚痴』といって、三毒の煩悩の一つに数えられています。

人を執拗なまでに非難したり、陥れることに情熱を傾ける人の中には、

本人には自覚がなくとも、

その愚痴の心がモチベーションになっているケースが多々あります。

そんな人に抗議したり、不当な中傷を謝罪させようといきり立つと、

相手の憎悪の火に油を注ぐことになりかねません。

 

昔から「人を呪えば穴二つ」といわれます。

他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるので、墓穴が二つ必要になる。

人をダメにしようとすれば自分もまたダメになっていきますよ、という言葉です。

敵討ち、仕返しのようなヘビの心が自分の中から鎌首あげてきた時には、

お釈迦さまの教説、

「ののしられた時ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返し、闘いを挑まれ闘い返すのは愚かなことですよ」

「怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」

を思い返したいところです。

 

 

 

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怒っている相手と接する際の大事なポイントを仏教が解説

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【瞋恚(1)】


怒っている相手に対応する際、大事なポイントがあります。

それは「こちらは怒らない」ということです。

相手が声を荒げるほど、こちらは静かな声で、

穏やかに応ずるのがよいのです。

 

2008年アメリカ大統領選挙での候補者のテレビ公開討論の際、

前オバマ大統領はジョン・マケインに失礼なことを言われるたびに

礼儀正しく返しました。

終了後、憤慨したマケインが握手を拒否した時も、オバマは寛大でした。

番組終了後の視聴者の好感度は歴然とした結果を示しました。

マケインの敗北はおそらくこの瞬間に決まった、と言われます。

 

怒っている相手に怒りで応酬するのは、

自分で「私はその人と似たもの同士、お似合いの相手ですよ」と周りにアピールしているようなものです。

怒りを怒りで返して得をすることは一つもありません。

自分の格を落とすだけです。

 

お釈迦さまは、怒りにまかせて罵ってきた男に

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その悪口雑言はだれのものになるのか」

と穏やかな表情で静かに応じられています。

お釈迦さまの意外な対応にその男、

「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」

と虚勢の声を荒げる。

「いや、そういうのは与えたとは言えない」

「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」

「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。

それらは与えたものを受けとったというのだ。

しかしその反対になんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」

「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」

動揺隠せぬ男の言葉にお釈迦さまは、おごそかに、偈(うた)で答えられている。

「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」

「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

男は、落涙平伏し、帰順した、とあります。

 

 

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根底に深く抒情を湛えた教行信証

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【教行信証(2)】


『ローマ人の物語』で知られる作家、塩野七生の言葉が心に残りました。

「私は今必要があってマキャベリの論文や手紙を訳しているが

彼の筆になる500年前のフィレンツェ方言風のイタリア語をまず声を出して何回も読んでいるうちに

マキャベリの文章のリズムというか、調子というものがわかってくる。

それが分かると日本語の訳文も自然に現れ出てくるのだ。

特に彼の文体は生き生きと躍動しているものが多く、悲哀の感情を書いても簡潔で品格が高い。

ただ自分の意図するところを文章で表す能力に自信のある人の常で、しばしば文法を無視した使い方をする。

それでかえって文章が生きてくるのだが、真面目な翻訳者はわざわざ正しい使い方に直して訳すことが多いために、

日本語訳されると愉快なマキャベリが退屈がマキャベリと化してしまうのである。

翻訳とは意訳でもよいのであって、要は原著者の魂を共有することではないだろうか。

これにはどうしたって意味は正確にはおえなくても、原文を読むぐらいの力は必要である」

翻訳のプロ精神に感嘆しました。

と同時に、前回お話しした井上靖の言葉が思い返されてきました。

http://kikuutan.hatenablog.com/entry/011115kyougyou

 

親鸞聖人は浄土三部経を幾たびも読まれ、

ここで釈迦が示されている真意をどうしたらみなにはっきりとわかってもらえるか、

その目的に一点集中され「教行信証」を著されました。

お釈迦様の説かれた説法はお経となって書き遺されているものの、

その言葉は難解で、たとえ語句の意味を知ることができたとしても

私たちには「ここでお釈迦さまは何を言われたかったのか」くみ取ることができないところが多々あります。

そこを親鸞聖人が、お釈迦さまの「なんとか知ってもらいたい」の熱い心を共有され、

私たちにもわかるよう、書き著わされたのが『教行信証』です。

 

だからでしょう、私も親鸞聖人の教えを学び始めた18歳の時、

まだ仏教のイロハが何たるかも分かっていなかった時期でしたが、

『教行信証』を初めてパラパラと読んだ時、ところどころの文章に、

言葉も文章の構造も、現代とまるで違うのに、

聖人の息遣いまで感じるような、何かすさまじい迫力と臨場感を確かに感じました。

教行信証に書かれた聖人の一文一文は、なんともいえない不思議な魅力にあふれています。

『教行信証』を哲学者の三木清は「根底に深く抒情を湛えた芸術作品」と評し、

文芸評論家の亀井勝一郎氏は「全巻に大歓喜の声が響きわたっている」と驚嘆しています。

 

 

 

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井上靖が感嘆した親鸞聖人の観無量寿経註

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【教行信証(1)】


お釈迦さまの説かれたことがお弟子の手によって書き残されたのがお経です。

その一切を「一切経」といい、その数は七千余巻に上る膨大なものです。

その七千巻の中でも、親鸞聖人が特に重視されたお経が

「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つであり、

これを「浄土三部経」といいます。

 

親鸞聖人は浄土三部経を何度も読み込まれ、

そこで説かれているお釈迦様の真意を私たちでも受け取れるよう、

わかりやすく書き著わされました。

それが聖人の主著『教行信証』全六巻です。

 

『教行信証』をどのページでもいいですが、

開いてまず目に引くのは、膨大な経典や注釈書からの引用です。  

親鸞聖人はご自身のなされた解釈の後に、

それを裏づける経典、またインド・中国・日本の高僧方の著作を

縦横無尽に引用され、根拠として示しておられます。

親鸞聖人が教行信証を著されるに当たって、

どれだけ膨大な経典や注釈書を読まれたか、

中でも浄土三部経は何度読み返されたかわかりません。

 

それは作家の井上靖の以下の言葉からも知られます。

「親鸞について、最初に感動したのは、彼が書写した自筆本『観無量寿経註』なるものを見た時である。

これは国宝に指定されていて、数年前の親鸞聖人誕生800年の記念展観でお目にかかったのであるが、

有体に言って、世の中には怖いものがあるものだと思った。

観無量寿経を書き写し、その行間、余白、欄外ははもちろんのこと、

紙背全面にわたって、ぎっしりと細字で唐代高僧の経註の書き込みがある。

謂ってみれば、これは親鸞の観無量寿経の勉学ノートである。

書き入れてある経註から見て、この書写は、親鸞の流罪になる前の、

つまり35歳以前のものとみるのが妥当だとされているそうであるが、

親鸞は青年期から壮年期にかけて、このような勉学の時代を持っていたのである。

私は4、5年前に『観無量寿経註』の覆刻版を手に入れ、時に巻ものを繙くことがあるが、

いつもその度に襟をたださざるを得ない思いにさせられる。

1つのことを理解するということは、これだけの手順と、これだけの精神集中度の持続を要する作業なのだ、そんな思いに打たれる」

 

このように井上靖が感嘆した親鸞聖人の勉学の跡が今に遺るのは『観無量寿経註』だけではありません。

同じく国宝に指定されている『阿弥陀経註』1巻も、同様に親鸞聖人の学究の筆の跡がびっしりと書き込まれています。

『観無量寿経』『阿弥陀経』もかくの如し。

ましてや親鸞聖人が「真実の教」と明言された『大無量寿経』にいたってはどれほど読み返され、学ばれたことでしょう。

 

『教行信証』は親鸞聖人が亡くなるまで幾たびも加筆修正を繰り返され、

推敲を重ねられていますが、

その筆の跡には、「浄土三部経で釈迦が示された真意をなんとかすべての人に徹底したい」という聖人の熱い信念があふれています。

 

 

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丸太橋の教訓、最も不幸な人とは

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【布施(1)】


最近でこそ少なくなりましたが、

一昔前の山間部の村では、川に一本の丸太を横たえただけの丸太橋がいたるところにありました。

そこで生活する村人に伝わるのが「丸太橋」の教訓です。

お互いの主張がぶつかってけんかになりそうになると

「おいおい、丸太橋を思い出せ」といさめ合うのです。

 

丸太橋は一人しか渡れません。

左右から同時に渡れば、二人とも動けなくなるのは明らかです。

そんな時、

「先に譲った人が相手より幸せな人」

「譲られた人は、感謝して通ればまた幸せになれる」

「当然の如く通る人は、最も不幸な人である」

これが丸太橋の教訓です。

 

目的は双方が速やかに渡ることです。

どちらが先であろうが、そんなことはどうでもいいこと、

お互い譲らず、にらみ合っていたら、どちらも渡れず、お互い損するだけです。

ついこんな時、先に譲った方が負け組で、譲られた人が勝ち組のように思って、

誰が譲るか、といがみ合う事態も起きますが、

それはつまらないことです。

 

現代も丸太橋で向かい合うようなシチュエーションは相当あると思います。

こちらには「こうしたい」というものがあって、

相手にも「ああしたい」ということがある。

どちらもできればいいのですが、

時間も費用も労力も限られていて、どちらかが譲らなければならない、そんなとき、

先に譲った人の方が相手より幸せな人です。

譲られたら、それは相手の心に感謝して通りましょう、それでまた幸せになれます。

譲ってくれた人の心をくみ取ろうともせず、当たり前のように通る人は、最も不幸な人なのです。

 

 

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あと1週間の命と思って日々を過ごせ

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【人生の目的(3)】


ルソーは「人間は呼吸するために生きているのではない。何かをするために生きているのだ」と言いました。

その“何か”とは何か、はっきりしている人がどれくらいいるでしょうか。

何のために生きているかわからない人間の実態を室町時代の禅僧一休は、

「人生は 食て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる」

と詠みました。

こう聞くと「食て寝て起きて糞たれて、それだけが人生か」と思いますが、

その「それだけ」がいかに大変なことか。

食べていくのも大変です、お金が要る。

寝て起きて、だって簡単ではない、住むところを確保しなければならない。

その時にまず先立つのはお金です。

お金がなければ、そのために働かなければ。

働き続けるには、心身共に健康でなければ務まらないですし、人間関係も大事になるし、資格や才能も要求される。

そのためにはどうしたらいいか。

畢竟、人間の営みは「どうしたら金を得て生活し続けていけるか」に向けられていると言っても過言ではない。

生き続けるために人間の知力、体力、精神力はすべて注ぎ込まれています。

 

しかし「生きなきゃ」「生きなきゃ」とがんばって進む先には何があるか、といえば

やがて「生きられなくなる」だけです。

歩かなきゃ、歩かなきゃ、とただ歩いている人はやがて歩き倒れあるのみのように。

一休はこの歌で

「来る日も来る日も家庭と職場の往復で、“食て、寝て、起きて”の繰り返しでは、死を待つだけの人生ではないか」

と痛烈に皮肉っているのです。

 

では私たちは何をするために生きているのでしょうか。

何を果たすためにこの世に生れてきたのでしょうか。

 

この人生究極の問いに答えを見出すヒントを、フランスの哲学者パスカルはこう言っています。

「つまらぬ情動に流されて生きたくなければ、あと1週間の命と思って日々を過ごせ」

 

あと1週間の命となったら、ふだん私たちが、忙しい、忙しいと駆けずり回っているほとんどのことは、

どうでもよくなってしまうのではないでしょうか。

今後の生活のことを思えば、毎日の仕事も、面倒な人間関係もやっていますが、

あと一週間の命となったらどうでしょう。

嫌なことをこなすことに残された命を使うのがもったいない。

本当に「生きた」と言い切れることをして死にたい、と思うでしょう。

 

ではそれは何か。

あと一週間の命で、株や投機に走るだろうか。

マイホームを建築するだろうか?

本を読むだろうか?

服を買うだろうか?

お料理教室に通うだろうか?

英会話を習いにいくだろうか?

それが何になるのか、と思うなら、では何をやるのか?

分からない。

分からないけれど、日頃、大事と考えていたものが絵空事に見えてきて、

今まで人生の大半を、どうでもいいことに使ってしまったのではないか、と不安と焦燥感が襲います。

 

死は、一人一人の胸に「人生で一番大事なことは何か?」という切羽詰った問いを突きつけます。

そのとき自己の奥底にある闇黒の心の深淵をのぞき見るでしょう。

しかし『闇に泣いた人だけに光にあった笑いがある』ように、

これが本当の幸せになる第一歩なのです。

死を真面目に見つめることはいたずらに暗く沈むことではなく、

現在の生を日輪よりも明るくする第一歩なのです。

これを仏教では

「無常を観ずるは菩提心の一なり」

と説かれます。

 

 

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人命の尊厳の理由を問う一休とルソー

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【人生の目的(2)】


「人間は呼吸するために生きているのではない。何かをするために生きているのだ」

とルソーは言いました。

この言葉に「そりゃそうだろう」と頷いても、

「ではあなたにとってその“何か”とは何ですか」の問いに即答できる人は少ないかもしれません。

 

『日本語語源大辞典』によれば、

「生きる」という言葉は、「息をする」が由来だそうです。

赤ちゃんは生れる前、羊水に包まれたあたたかいお母さんのお腹の中ですが、

生れてまずしなければならないのが肺呼吸です。

これができねばたちまち命を落とすので、

赤子は懸命に肺で息をしようとし、

産婦人科の医師はそれを見守ります。

生まれたての赤ちゃんの吸う息、吐く息は、

まさに「生きる」行為そのものといえます。

 

呼吸できるようになると私たちは、

今度はそれを維持するための活動に入ります。

飲食し、排泄し、成長してからは読み書きを習い、仕事に就きます。

人間の営みとは、つづまるところ「生きるため」「息をするため」といえるでしょう。

 

室町時代の禅僧一休はこんな歌で人生を風刺しました。

「人生は 食て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる」

食べたら眠くなるのは、犬でも猫でも一緒で、自然の摂理です。

寝たらいつかは起きる。

休日でも昼過ぎまで寝ていると、さすがにこれ以上は、とモソモソ起きる。

起きたら、トイレにいく。

そのあと、冷蔵庫あけて、何か食べる。

寝て。起きて。出して。食べて。。。この繰り返しが人生だ、

と喝破する一休の歌は身もフタもありません。

これだけなら、犬や猫でも一緒です。

彼らもちゃんと食べて寝ておきて、子供育てていますから。

「犬生は 食て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる」

とそのまま置き換えられます。

 

では他の動物にない、人間ならでは尊厳な命の理由はあるのでしょうか。

人命の尊厳の理由をはっきりできる政治家、教職者、法律家はあるでしょうか。

あなたは教えられてきたでしょうか。

呼吸をするために生きているのではない、としたら

何をしたら、何を成したら、

「よくぞ人間に生まれたものぞ」

と人命の尊厳さを感じられるのでしょうか。

考えさせられるルソーと一休の言葉です。

 

 

 

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