親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

恩師・法然上人との痛恨の別れの際、詠まれた親鸞聖人の歌とは

 f:id:kikuutan:20180730095756j:plain

 


【愛別離苦(2)】


親鸞聖人は35歳の時、越後(今の新潟県)に流刑になられました。

時同じく、75歳の恩師・法然上人は、土佐(高知県)に流罪となっておられます。

遠く分かれて西・東、親鸞聖人は生木引き裂かれる痛恨の思いを、

一首の歌でしたためられています。

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」

短いお歌ですが、親鸞聖人の身の置き所のない悲しみが伝わってくるようです。

 


会者定離」とは仏教の言葉で、出会いには必ず別れがある、という意味です。

好きな人とはいつまでも一緒にいたいのはやまやまですが、現実はそれを許しません。

会者定離の世の中、必ず別れが訪れます。

だから人は生きる限り、愛別離苦の悲しみからは逃れられません。

 


9歳にして仏門に入られ、かねてより「会者定離」の仏説をよく聞いておられた親鸞聖人ですから、

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど」と言われているのですが、

あまりにも法然上人との別れはつらく、

とても会者定離の現実を受け止めきれなかったからでしょう、

そのあとに「昨日今日とは思わざりけり」と、痛恨の思いを詠まれています。

「覚悟していたことではございますが、あまりにも……、あまりにも、早すぎます……」

聖人にとって、法然上人との別れは断腸の思いでした。

 


親鸞聖人はこの時の別れ以降、再び恩師と会われることはありませんでした。

流刑の5年後、法然上人は亡くなられます。

訃報を耳にされた親鸞聖人は大地に泣き崩れられ、

悲しみのあまり吐血されたという伝承もあります。

 


「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」

大切な人との別れを経験された方の中には、

この親鸞聖人のお歌にしみじみと共感される方もあるかと思います。

 


別れの中でも、特に辛いのは、死別です。

散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。

もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでもかなわない、

その冷厳な事実が、さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 


考えたくないですが、死は万人の将来です。

大切な人ともやがて必ず別れがくることを、

誰しも覚悟しておかねばなりません。

しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは

「昨日今日とは思わざりけり」、

まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、

今起きている現実が受け止められず、

「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

 

 

  

=========

仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

THE 虎舞竜の『ロード』の歌詞は身にしみる

f:id:kikuutan:20180728092447j:plain

 

 

愛別離苦(1)】


THE 虎舞竜の『ロード』という歌は

「何でもないようなことが幸せだったと思う

何でもない夜のこと 二度とは来ない夜」

と繰り返されるフレーズが心に残ります。

 


夜ふと目を覚ますと、横に寝息を立てて寝ている、

あの「なんでもないようなこと」が、なんて幸せな日々だったんだろうと、

失った今、始めて気づいた、という歌です。

大切なものが大切なものとわかるのは、

その大切なものを失ったとき、というのは、皮肉なことです。

 


親はいてくれて当たり前、

給料が毎月振り込まれるのが当たり前、

家に帰ると妻や子供がいてくれて当たり前

自分の足で行きたいところに行けるのが当たり前、

食べたいものを自由に食べられるのが当たり前、

本当は当たり前のことは何一つありません。

 


身近にある幸せには気付かず、

もっと欲しい、もっと欲しい、と無い物ねだりをして

不平、不満を抱いては、身近な人や物に八つ当たりをし、

失ってしまったとき、

なんであんなことを言ってしまったのか、

なんであんなことしかできなかったのか

悔やむのが人の世の常なのでしょう。
 

 

 

 

  

=========

仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

この機会に寺の坊主は本来あるべき姿に立ち返るべきだろう

f:id:kikuutan:20130807122238j:plain

 


仏教に説かれる「法施(ほうせ)」と「財施(ざいせ)」についてお話しいたします。

「法施」とは「仏法を施す」と書くように、仏法を人にお伝えすることです。

仏法を皆にわかるようにお届けするのが「法施」です。

その「法施」一つに生きる人を、本来「僧侶」、または「坊主」というのです。

 


仏法をわかるように人に話すのは並大抵ではないので、

寺の坊主は法施一つに専念し、他のことをする時間はありません。

僧侶、坊主の使命はただ一つ、「法施」なのです。

 


次に「財施」とは、仏法を聞かせていただいたお礼です。

仏法を聞かせていただいた門徒(聞法する人)7が、

法施してくだされた僧侶への感謝の気持ちから、

財や物を施すのが「財施」です。

財施は、仏法を大事に思う門徒の尊い気持ちから出されるものですから、

財施を受ける僧侶は「浄財」(仏さまからお預かりした浄らかな財)と、有り難くいただきます。

そしていただいた財を、

僧侶は門徒に仏法を伝える使命を果たす「法施」のために使わせていただきます。

これが法施と財施でつながっている本来の僧侶と門徒の関係であり、

お釈迦さま以来変わらぬ、あるべき姿です。

 


では本堂の壁や瓦の修繕に、門徒がお金を出すのはどうでしょうか。

寺の本堂は、仏法を心静かに聞かせていただく大切な場所ですから、

聞かせていただく者が用意して当然です。

お釈迦さまの説法された祇園精舎や竹林精舎などは、

いずれも聞かせていただきたいという人たちの尊い志によって建立されています。

仏法が説かれる本堂の建築や修繕のために財を出すのは、

財施のご縁ですから、仏縁を深める素晴しい行いです。

 


では「本堂の壁や瓦の修繕に財施されませんか」と勧める坊主に

「また出せと言ってきた」と門徒が顔をしかめるのは、なぜなのでしょうか。

 


それはひとえに坊主が門徒に法施をするのを怠ってきたからです。

法施をしない僧侶に、人々が財施する気になれないのは当然です。

財施が少ないのは、法施が少ないから。

あくまでも法施があっての財施です。

 


精一杯、仏法を伝える僧なら、必ず影の形に添うように財施に恵まれます。

そんな僧が説法する寺の本堂なら、

屋根が崩れたのを門徒が放っておくはずがありません。

 


本堂の修復費用を各家で負担するよう「割り当て」を迫る寺に、

「なぜこんな高い負担金を出さにゃならんのか」と各地で不満の声が聞かれるのも、

法施をしないからです。

 


それでも門徒がしぶしぶでも寺にお金を出してきたのは、

「葬式の時、困るから」「先祖代々の墓も寺にあるから」でしょう。

 


ところがここ数年、葬式や法要を財源のあてにあぐらをかいてきた寺の泰平を破る黒船が登場しました。

流通大手イオンです。

「お葬式・葬儀はイオンにおまかせください。

 明瞭で納得のいく価格をご提示します。受付・ご相談は24時間」

寺院が独占してきた葬儀事業にイオンが進出し、

仏教界に深刻な波紋を広げています。

額が不透明といわれてきた葬儀のお布施に、安心・明瞭の料金体系を提示し、

都会を中心に人気だそうです。

 

門徒と寺とをつなぐ最後の砦であった葬式まで

民間企業に奪われつつある、この事態に、

多くの寺院は死活問題と受け止め、対策に大わらわです。

 


今にして寺院は気付かねばならない、と思います。

門徒と寺をつなぐのは葬式なんかではない、

「教え」こそ両者をつなぐただ一本の絆であることを。

 


さっさと葬儀などイオンに任せて、寺の坊主は皆

「法施」に生きる本来の姿に立ち返ったらいかがでしょう。
 
その方がずっと今より寺の坊主は大切にされるはずです。

 

 

 

  

=========

仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

お盆は民間土着の先祖供養信仰に坊主が便乗したもの

f:id:kikuutan:20070813181708j:plain

 


【お盆(1)】


まもなくお盆の季節です。

祖先の霊が家族の元に帰って来るとされるお盆の時期に

墓参りしたり、僧侶が各家を訪問し読経して回ったりするので、

お盆は仏教由来の行事だと思っている人がありますが、

それは大きな間違いです。

 


確かに「お盆」という言葉の由来は、

『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という仏典ですが、

この経典は、仏法を説く僧侶に布施をする功徳の尊さを教えたお経であり、

死んだ祖先の追善供養を勧めたものではありません。

そもそも本来の仏教の教えに「祖先の霊が帰ってくる」という教えはないのです。

仏教では、死ぬと己の業(カルマ)に応じて輪廻転生する、と説かれており、

死んだ祖先がずっと霊魂として残り、お盆になると帰ってくるというのは、

中国や日本の民間信仰であり、仏教の教えとは関係ありません。

 


お釈迦さまは「お盆には祖先の霊が帰ってくるから供養せよ」とは一切言われていません。

釈迦八十年の説法は、常に今生きて、苦悩にあえいでいる大衆に向けられています。

死者の為の葬式や仏事を執行されたことも一度もなかったといわれます。

むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、

真の転迷開悟を教示されたのが仏教なのです。

 


仏教の教えの基本的なことだけでもわかれば、

お盆の習慣が仏教の教えとは全く違うことがすぐわかりますので、

「お盆の先祖供養=仏教の教え」のように思われている現状は、

そのまま仏教の教えが全く伝わっていない現れに他なりません。

 


ではなぜ「お盆の先祖供養=仏教の教え」となってしまったのでしょうか。

実は寺の坊主に相当の責任があります。

お盆の時期に祖先の霊を供養するという土着の信仰を利用して

坊主が「かき入れ時」とばかりに「お布施」集めに奔走してきたからです。

 


本来なら「それは仏教ではありません」と宣言し、

本当のブッダの教えを明らかにしなければならないのが僧侶の立場なのに、

民間土着の先祖供養信仰に乗っかって、

金儲けをはじめてしまった何百年という歴史が

今のような現状にしてしまったのです。

 


仏教の本来の法事とはどうあるべきか、墓参りとはどうあるべきか、

お盆のこの時期によくよく知っていただきたいと思い、まとめた記事がありますので、

知りたい方は、ごらんください。

 

 

有無同然を実証する歴史の変遷

f:id:kikuutan:20180720072210j:plain

 


【有無同然(2)】


江戸時代は幸せだった、という歴史観の根拠としてよく用いられるのが、

幕末や明治初期に日本に訪れた外国人たちの証言です。

「私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す」(ハリス)

「人々の暮らしの光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ」(米国の女性旅行家イライザ)

「江戸上陸当日、不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて出会わなかった」(オズボーン)

 


しかしこれらの声を聞いても私は、諸手を挙げて「江戸時代は幸せだった」とはちょっと言えません。

おそらくこれは現代の日本人が、南の島国の原住民の屈託のない笑顔や人なつっこさに感動して、

「日本より幸せだ」「最後の楽園だ」とはやし立てるのと同じ現象ではないかと思うからです。

 


日本人が「楽園」とレッテルを貼る原住民は

「ああ、俺たちは幸せだ」と身の幸をかみしめているか、というとそうでもなく、

「毎日毎日、魚獲って一日が終わる。

オレのじいちゃんも、オレの父ちゃんも魚獲って、一生が終わっていった。

オレもこのままではそうなるのか。。。

ああ、うんざりだ。こんな国、嫌だな。

日本の秋葉原とか行きたいな、もっと自由に生きたいな」

などと、思っているのではないでしょうか。

 


幕末の外国人も、遠い異国の地で、見るもの聞くものすべて新鮮で、

感傷的な気分にもなっていたのだろうと、私は思います。

 


江戸時代は江戸時代で、こんな世界嫌だなと、尻込みする陰鬱な部分もたくさんありました。

完全なる階級社会、長兄のみ世襲で次男以下は結婚も出来ない、

抗生物質やワクチンがなく、虫歯も治せない、飢饉が多く餓死者が多い、

これも江戸時代の一つの側面です。

 


徳川家康は、戦国の世を終わらせ、太平の世を築くために江戸幕府を開き、

幕末の志士は、日本が欧米列強の植民地にならぬよう、明治維新を成し遂げました。

確かに日本の変革に彼らの活躍があったことは事実ですが、

ではそれで人は幸福になったか、と問われると、答えを失います。

 


大化の改新、建武の新政、天保の改革、明治維新、

何とか苦しみの重荷を下ろそうと

「刷新」「改革」「新政」「維新」と理想を実現したものの、

重荷を右肩から左肩に移し変えただけで、

「変わった」が「幸せになった」感がない。

数え切れないほどの武士が斬られ、社会が変わろうと、

人類の根本的な問題は何も変わらず、

真の幸福には、近づいてさえもいない。

 


懸命に幸福を追い求めて変化してきた歴史の変遷は、

有っても無くても苦しみは変わらないと説く『有無同然』の仏説まことを証しているかのようです。

 

 

  

=========

仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

姑と一緒に住むのはイヤだと別居してみたら・・・

f:id:kikuutan:20180718110250j:plain

 

 

【今日の仏語】は『有無同然』の1回目です。


世界遺産の五箇山合掌造り集落は、

私の家から車で2時間足らずなこともあって、

何度か行ったことがありますが、

私としては、富山で一番の観光スポットだと思っています。

 


あの一つ屋根の下に家長を中心に30人!近く住んでいたそうです。

部屋はふすまで区切られているだけで、

食事、団らんは1階の囲炉裏のある大広間で一緒だったというのですから、

人間関係が相当大変だったのではないでしょうか。

 


そんな家に嫁いだら、そこはすでに

舅、姑、小舅、小姑、甥、姪など勢揃いしていて、

寝起きを共にしなければならず、そのストレスや如何ほどか、

お嫁さんの苦労がしのばれます。

 


そんなお嫁さんが、夫婦水入らずの生活が一般的である現代の暮らしを聞いたら、

どんなにこそうらやましく思うことでしょう。

夢の暮らしだ、なんて幸せな時代なんだ、と思うかも知れません。

 


今でも親と同居したために、嫁姑問題が勃発し、

苦しむ嫁、同じく悩む姑、そしてその両者から「なんで私がこんな思いをしなければならないの」と責められる夫、

三者三様で苦しむ家庭もあります。

 


じゃあ別居したら問題解消かといえば、また違った問題が起きます。

夫婦共働きだと、子供の幼稚園の送り迎えに困りますし、

夫婦げんかがほどほどで止まらずエスカレートしてしまうとか、

同居の時にはなかった問題が多々起きて、やはり悩んでいます。

 


合掌造りのような大所帯の暮らしでは

親が子供を虐待死させる事件とか、

引きこもりで親に暴力を振るう子供とか、

出会い系サイトで寂しさを紛らわせる、

なども起きにくいですし、

親族が仕事の斡旋をしてくれたり、縁組みの世話をしてくれたりして、

孤独な若者も今よりも少なかったようにも思いますし、

独居老人の孤独死という悲哀も少なかったでしょう。

 


どっちもどっち、「隣の芝は青く見える」で、苦しむ姿は変わりません。

これを仏教では「有無同然」といいます。

“有っても、無くても、苦しみ悩みは変わらないですよ”

と教えられたお釈迦さまの教えです。

 

 

 

  

=========

仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

仏教(ブッダの教え)は遺骨を大事にするのか

f:id:kikuutan:20180716121823j:plain

 

 


【仏舎利(1)】


オウムの教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫の死刑囚の遺骨をめぐって、

親族、教団内で争いが起きているようです。

遺骨信仰の根深さを思い知らされます。

 


お釈迦さまが亡くなられた後、

いつしかその遺骨は「仏舎利」と言われる信仰の対象になりました。

「仏舎利塔」という建物の中に安置され、

その塔に向かって合掌礼拝し、ご利益を祈るようになりました。

 


またお釈迦さまの遺骨を安置する寺院が正当とされたので、

どんどん分骨され、各寺院に仏舎利塔が建てられました。

チベット仏教でも仏舎利塔を大変大事にし、

ごま粒ほどの骨をお釈迦様の遺骨と称して、合掌礼拝しています。

スリランカ仏教の一派で日本で布教しているスマナサーラという坊主も、

スリランカにはお釈迦さまと舎利弗、目連の遺骨の安置された仏舎利塔があるが、

中国の仏舎利塔は偽物だ、と主張しています。

今日ではなにしろ各国の各寺院に仏舎利塔があり、

「その遺骨は偽物で、こちらが本物だ」と言い合っては、もめているのです。

 


もしこの現状をお釈迦さまが見られたら、なんと思われることか。。。

「何をくだらないことで論争しているんだ。つまらんものに手を合わせているのか」

と嘆かれることでしょう。

 


当然ながら、たとえその寺に安置しているお釈迦さまの遺骨が本物であったとしても、

そこで説かれている話がお釈迦さまの教えられたことと違っていたならば、

その寺の存在には何の価値もありません。

 


お釈迦様は私たちに教えを遺されたのであり、

これを「人に依らざるべし。法に依るべし」と言われたのです。

ならば仏弟子たる者、何を守らねばならないのか、尊重すべきことは何か、はっきりしています。

「教え」です。

親鸞聖人が「親鸞が死んだら加茂川に入れて魚に食べさせよ」と言われたのも、

この精神から来ています。

 


遺体を大事にしたいのも人情としてはわかりますが、親鸞聖人は

「焼けば灰になる肉体の後始末より、ずっと大事なことは、生きているときに迷いの魂の解決をすることですよ」

と教えられ、平生に迷いを打ち破って幸福に生かされる、真の釈迦の教えを明らかにされています。

 

 

  

=========

親鸞聖人の説かれた浄土真宗の教えを、分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。

 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。