【生死の一大事(1)】
東京都の病院で人工透析を中止し、死亡した患者が6年間で24人あったと報道され、物議を醸しました。
院長は「医師が積極的に透析見合わせの選択肢を示したことはない」、
「透析の再開を望む患者の意思に反して再開を行わなかった事実も一切ない」と強調しました。
いわゆる「本人の強い希望により、人工透析を中止したのだ」との主張です。
「回復が望めない終末期に透析を続けるかどうか」という
人工透析の見合わせ問題は、どの病院でも大小の差はあれ、直面している問題であり、
今後、まずます高齢化に向かっていく今日の日本の直近の課題であり、
しかもこのテーマは医学だけでは解決しない難しさを含んでいます。
大きく分ければ二つの意見があります。
一つは「医師が患者に透析中止の意思を尋ねるのは“死にますか”と聞くのと同じだ、患者に判断させるべきではない」という意見。
もう一つは「医師が治療に関する説明を尽くした上で、それでも患者が望むならば、その意思は尊重されるべきだ」という主張です。
ただここで問題になるのは、そもそも患者の意思といっても、
「死にたい」となったり、「死にたくない」となったり、
患者自身の精神状況が揺れ動くので、
そこをどう判断するか、ということです。
人間の心はころころ変わりますし、
自分の本心が自分でも分からない、ということはよくあるのではないでしょうか。
特に「死」においては、それが顕著に出てくると思います。
こんな笑い話があります。
寺参りを欠かさないお婆さんが、寺に安置されている阿弥陀如来の前に座って口癖のように言う。
「阿弥陀様、わしはつくづくこの世がいやになりました。今日も嫁が私をいじめるのです。早く今晩でもお迎えに来てください」
寺の小坊主は、
「あの婆さん、また、同じことを言っておる。よくもまあ飽きずに同じことが言えるものだ」
といたずらをかんがえた。
いつものようにお婆さんが寺にまいってぼやくのを見計らって寺の本尊の真後ろに隠れる。
お婆さんが「早く迎えに来てください」と懇願するのを聞いて、
小坊主、声色を変えて「わかった!婆さん、今晩迎えに行くからな!!」と叫んだ。
すると婆さん血相を変えて「ひえー、ここの阿弥陀様は冗談も通じんわい」とあわてて逃げたと言います。
このお婆さんのように、口先では、早くこの世とおさらばしたいと言っても、
本音は、死にたくないというのがよくあると思います。
「死んだ方がましだ」「死にたい」という声は多いですが、
それは本心かどうか分かりません。
「本心だ」と本人が思っていても、それが本心かどうかわかりません。
本人が「死」をまじめに見つめていないからこそ言えているだけの言葉かもしれないのです。
生きている人間にとって「死」ほどの大問題はありません。
「これができたら死んでもいい」「いっそ死んじゃいたい」「さっさと死にたい」
とふだん何気なく使っている「死ぬ」という言葉ですが、
本来「死」は決して軽々しく取り扱えることではなく、
仏教では、人間にとってこれ以上重いことはないので「生死の一大事」と説かれます。
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