【無明の闇(1)】
臨死体験をした人が、あの世を見てきた、死後はこうだった、と語るのを見聞きして思うのは、
「あなた、それは死後を経験したとはいえんでしょう?」ということです。
だって語っているその人は現に死んでいないのですから。
臨死体験者に、
「あなたが見たのは本当に死後だったとなんで言い切れるのですか?」
「幻覚ではないという明確な根拠は?」
と聞きたくなります。
美しい花畑だった、とか、すでに亡くなった好きな人がニコニコ笑って迎えてくれた、とか、
死後が明るいイメージで語られることは多いですが、
死の不安、ストレスを軽減しようと脳内物質が働くからという説もあります。
脳内物質が死の恐怖を和らげるから、死に顔がおだやかになるのかもしれません。
文化圏によって、あるいはその人の信仰によって、見える景色が違うのも、臨死体験の特徴の一つです。
キリスト教の土壌で生きた人はダンテの「神曲」にあるような、天使やらが出てきて、いかにもキリスト教的な体験をし、
仏教圏では仏教的な世界を語りますし、イスラム教ではその世界観が出てくる、といった風で、
これも意識の混濁で起きているからといえるかもしれません。
いずれにせよ、学問でどれだけ臨死体験を分析しても、それはいくつかの事例を覚え、推察しているだけで、
実際はどうなのか、の不安は、それら学問では精算できません。
臨終間際に脳内物質がどのように働き、どんな景色を見せるか、は一瞬のことなのでどっちでもいい類いのことで、
大事なのは、本当のところ死んだら私はどうなるか、です。
有るのか、無いのか、有るならどんな世界なのか、実際はどうなのか、ということです。
「このようになると信じたい」と、生前いくら祈願しても、
それが通用するならけっこうですが、果たしてどうでしょうか。
これもわかりません。
仏教ではこの「死んだらどうなるかハッキリしない心」を「無明の闇」といい、
人間存在そのものの不安をもたらす元凶である、と説かれています。