親鸞に学ぶ幸福論

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学問と勉強との違いを解説する

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【人生の目的(1)】


「勉強」と「学問」の違いをお話しします。

明治時代、かの福沢諭吉は『学問ノススメ』で

「大いに学問をしなさい」と世の人たちに呼びかけましたが、

私の場合、「勉強しなさい」とは親や教師によく言われましたが、

「学問をしなさい」とは言われてこなかったように思います。

さて、勉強と学問は、どこがどう違うのでしょうか。

 

まず『勉強』ですが、これは「強いて勉める」と読みます。

強制的 の「強(きょう)」、強引 の「強(ごう)」、無理強い の「強い(じい)」で、

何かやらされている感のある響きですね。

 

かたや、『学問』は「問い学ぶ」と書きます。

まず【問い】“?”がある。

「なぜりんごは地面に落ちるのに、月は落ちて来ないのか?」

ニュートンはこの問いから万有引力の法則を発見したといいますが、

そもそもそういうことに疑問を持つことができるのが、非凡なところなのでしょう。

 

その問いの答えが知りたいと苦心惨憺(さんたん)、情熱を傾け、

ついに【なるほど】“!”と叫ぶ。

これが『学ぶ』ということ。

そこには感動があるはずだし、喜びがあるはずです。

 

そもそもニュートンもアインシュタインも

『勉強』した人ではなく、『学問』した人ではなかったか。

だから疲れも知らず、彼らは夢中に研究に没頭できたのだし、

あれだけの成果を残すことができたのでしょう。

 

しかしいつしか、彼らが学問をし、

血わき肉踊り、感銘覚めやらぬ筆で書いた数々の公式や文章が、

勉強で覚えなければならない教科書の暗記項目に組み込まれ、

受験生に苦しみを強いる材料になってしまいました。

「勉強のための勉強」「試験のための勉強」ではつまらないもの。

願わくは、歳がいくつになっても学問する者、学ぶ楽しさを味わえる者でありたいですね。

 

では数ある学問の中でも、究極的な問いは何でしょう。

それは

「私はどこから来て、どこへ行くのか」

「己(おのれ)とは何か」

「必ず死なねばならぬのに、なぜ生きるのか」

といった人間存在への疑問です。

これら根源的な問いの答えが知りたいと、

カピラ城を出て入山学道され、

35歳、ニレゼン川のほとり、ブッダガヤの菩提樹下で、

明けの明星を一見して「そうだったのか」“!”と大悟徹底されたのが

シッダルタ太子、のちのお釈迦様でありました。

 

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ユーチューブで「お経」について3回シリーズで話をしました。

https://www.youtube.com/watch?v=adWuVf68B38&t=36s

 よかったらご覧ください。

 

 

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