【悪口(4)】
悪口を言われたとき、どうすれば心が穏やかになれるか、
二つの仏の智恵を紹介しましょうとお話ししました。
先回はその一つ、「向上のご縁とする」とお話ししました。
的を得た批判ならありがたく反省するご縁とできます。
またそう受け止めることで、心は前向きに、穏やかになります。
しかしこれは悪口が「的を得た批判」であった時の対処です。
的外れな非難中傷だった場合は、どうしたらいいでしょう。
それが今日お話しするもう一つの方法、
「受け取らない」という対処です。
悪口を受け取らないとはどういうことか、
一つのエピソードをまず紹介しましょう、
=====
白隠の寺の門前に酒屋があった。
そこに器量で評判の娘がおり、結婚もしないのに孕んだのである。
目だつにつれ悪事千里、噂は世間に広まり父親は強く娘を責めた。
真実を告白すれば大変だと思った娘は、
白隠さんは生き仏といわれるお方、白隠さんの御子だと言えば、
なんとか事態は収まるだろうと、
苦しまぎれに、そっと母親に打ちあけた。
「白隠さんのお種です」
それをきいて激怒した父親は、早速土足のままで寺へ踏み込んだ。
「和尚いるか」と面会を強要し、
口から出まかせの悪口雑言を喚いても尚腹立ちは収まらず、
生まれてくる子供の養育費を催促した。
さすが白隠。
「ああ、そうであったか」といいながら、若干の養育費を与えた。
まさかとそれまで信じていた人達も、
これをきいてやっぱりニセ坊主であったのかと、
噂はパッと世間に広まった。
聞くに耐えぬ世間の罵詈讒謗をききながら白隠は、
「謗る者をして謗らしめよ、言う者をして言わしめよ。
言うことは他のことである。受ける受けざるは我のことである」
と、少しも心にとどめない。
思いもよらぬ反響に酒屋の娘は苦しんだ。
遂に真実を親に白状せずにおれなくなった。
親はことの真相を知って二度びっくり。
早速、娘を連れて寺へ行き平身低頭、
土下座して、重ね重ねの無礼を深く詫びた。
その時も白隠は「ああ、そうであったか」と頷いただけ、という。
=======
ここで白隠は「私は悪口を受け取らない」と言っているのですが、
これは白隠が悪口を言われたときにどうあるべきか、
お釈迦さまの教えをよく知っていたからこそ、
こういう言葉になったのでしょう。
ではお釈迦さまの教えられる「悪口を受け取る」とは、
どういうことなのでしょうか。
こういうエピソードがあります。
=====
あるとき、外教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、
さんざん、悪口を言った。
黙って聞いておられた釈尊は、
彼が言い終わると、静かにたずねられた。
「おまえは祝日に肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあ
るか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうす
るか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
その悪口雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、
どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば
打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けと
ったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、
与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。
怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順した。
=====
悪口を言われて、悪口で返すのが、「受け取った」ということだと
釈迦は説かれています。
悪口を言うか、言わないかは、向こうさんが決めること。
その悪口を受け取るか、受け取らないかは、
こちらが決めさせてもらう。
向こうが決めることではありません。