親鸞に学ぶ幸福論

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人間の犯す「殺生」という罪を考えてみる

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【殺生罪(1)】

 


仏教に説かれている罪悪には、

窃盗、ウソ、不倫、悪口などと並んで「殺生」が挙げられます。

「殺生」とは動物を殺すことです。

窃盗やウソや不倫は、法律でも、道徳的にも罪悪とされますし、

犯してしまえば発覚を恐れ、びくびくしますが、

殺生の場合、そもそも罪悪だと受け止めている人は少ないようです。

 


「弱い者が強い者に食べられる、それは自然界の摂理だから殺生は悪くない」

と言う人もあります。

しかしその主張が通るなら、権力や武力を持つ強い者が弱い立場の人間を虐殺するのも、

自然界の摂理だから悪いことではない、と

民族浄化や大虐殺を肯定することになってしまいます。

 


「生きていくには殺生は仕方ないではないか」という意見もあります。

しかし「仕方ない」と「罪ではない」は違います。

殺されていく動物たちは、自分や自分の家族が殺されていくのを、

「人間たちはそうしなければ生きられないのだから仕方ない、許そう」

とは思えないでしょう。

人間の都合で「悪くない」と勝手に判断しているだけです。

 


「遊びや面白半分でする無益な殺生はよくないが、自分たちが食べる分をいただいているのだから」

と言う人もありますが、これとて「だから悪くない」とはいえませんよと、

釈迦は説かれているのです。

 


「命をいただいているという感謝を忘れず、ありがたくいただくのが大事」

という人もあります。

感謝して食べれば、罪が精算されるとでも思うのでしょうか。

これも釈迦は、殺生罪には違いありませんよ、と言い切られます。

 


いかなる理由をくっつけようとも、

死にたくない命を、こちらの都合で一方的に殺める殺生の罪は

恐ろしい罪ですよ、と釈迦は明言されています。

 


ある大学生のゼミのグループが鳥を卵から孵して、雛から育て、やがて食す、

という実体験をする研究をしました。

調理する日が近づいたある日のこと。

A君から「今はまだ鳥を殺すべきではない」という意見が出て、

ゼミ生全員が研究室で話し合いました。

A君は、鳥を一番可愛がり、誰よりも率先して小屋の掃除をしていたので

気持ちはよく分かります。

「いま卵を育てているから、卵を産み終わってから‥‥」

「ペットとして飼っていたんではないんだぞ」

「自然死してからでは」

「自然死を待っていたら、病気が怖いから、食べられなくなる」

そんな意見の応酬があって、最後は多数決となりました。

「屠る(殺す)べきではない」が2人で、

残りのゼミ生全員が屠る方に手をあげました。

 


私たちが普段目にする肉は、

すでにブロックで切りそろえられたものですから、

 殺生をしているという自覚がありません。

 


ゼミ生たちは実習で、鶏がまな板の上で鳴き叫ぶ姿、

首を絞められ、ばたばたもがく姿を目の当たりにして、

肉を食べるということはこういうことなんだ、と

強く自覚したことでしょう。

 


この研究ゼミで学んだこととしてゼミ生たちは

「命をいただいているという感謝を忘れてはいけないと思った」

「無益な殺生はあってはいけない」

などの感想を出しました。

しかしそれは表向きの回答で、

やはり彼らは、たとえ法律や道徳では咎められなくても

「これが罪でないはずがない」と心の中でつぶやいたのではないでしょうか。

 


殺生の罪の厳粛な重さを実感する機会が

現代人にはなくなってきていますが、

目の当たりにすれば、誰しも

「殺生罪を犯している恐ろしい自己」を痛感します。

釈迦は殺生罪を「人間の、どうにもならない、恐ろしく、悲しい業」と説かれています。

 

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