【流転輪廻(3)】
仏教では虚しい私たちの実態を「流転輪廻」と言われます
「流転輪廻」とはゴールのないマラソンを果てしなく回り続ける様を言います。
車の輪が果てしなく回るが如く、ゴールのない競争をしている、それが私たちの実態だと説かれています。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』という小説に、この私たちの実態を「人生は狂人の主催したオリンピックである」と言っています。
オリンピックとは競争です。
金メダル、銀メダルと他者と技や力を競い合うのがオリンピックですが、私たちも同じように競争しています。
学生は成績で競争し、サラリーマンは出世で、経営者は収入で、アーティストは作品の評価で、
それぞれの立場で「勝ち組」「負け組」と、人と競い合っております
そんな競争をする私たちを芥川龍之介は「オリンピック」と表現したのですが、
ではなぜそれを芥川は「狂人」だと言ったのか、
それはまさにその競争にはゴールがないからです。
ゴールなき円周トラックを先を争って競争している人たちがあれば、おかしな人たちです。
ゴールがあるならば、意味のある競争です。
42.195kmの先がゴールとなれば、そこに向かって一生懸命走ります
400m先がゴールとなれば、そこに向かって一生懸命走ります
でもゴールのないマラソンだとしたらどうでしょう。
抜かしたり、抜かされたりすることに何の意味があるか、ということになります。
この馬鹿馬鹿しいゲームに憤慨を禁じ得ない者はさっさと埒外に歩み去れよ、と芥川は言いました。
こんな馬鹿馬鹿しいゲームなんかやっていられるか、とあきれて腹立つ人は、
さっさとこんなレースやめてしまってフィールドから降りなさい、
ということで、まるで自殺のすすめとも言える言葉を残して
彼自身、青酸カリを飲んで自殺しています。
「一生懸命やらないとダメだ」「強く生きなさい」「乗り越えてがんばろう」とみな言いますが
その「がんばって生きる」のは一体何のためなのでしょう。
どこが人生のゴールなのですか。
どこを目指して「がんばれ」と言われているのか。
ただ倒れるまで走れ、死ぬまでがんばって生きろというのだったら
それは倒れるまで走ろと強いられるマラソンと一緒ですから、
その人生に一体何の意味があるのか
何のために私たちは生まれてきたのか
どこに向かって生きたら「生きてきてよかった」と言えるのか
人生のゴールのテープを切れるのか
そのゴールって一体なんなのか
それをみな知らずに、考えもせず、「がんばって生きなきゃ」「あいつに負けたくない」「勝ち組になりたい」と走っている虚しさを芥川は「これ虚しくないか」「おかしくないか」と言うのです
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