親鸞に学ぶ幸福論

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自利利他の精神が交渉、取引の成否の鍵となる

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【自利利他(1)】


交渉、取引はボクシングとは違います。

ボクシングなら、相手が立ち上がれなくなるまで叩きのめすにはどうしたらいいか、

を考え、そのための練習をします。

KOするか、それが無理なら判定でもいいから

「勝つ」ためにボクサーはリングに立つのですから。

しかし交渉はそうではありません。

双方の条件を出し合い、合意点を見いだすのが目的です。

お互い気持ちよく笑顔でまとまるのが、理想的な交渉なのです。

 


断じて交渉は勝ち負けで考えてはならないということです。

勝つと一時は気持ちいいかも知れませんが、長期的に見れば損をします。

ビジネスにおける最も大事な「信頼」という財産を失うのですから。

 


ディベート(討論)のプロが、交渉のプロになれるとは限らない、のもそのためです。

討論なら相手が絶句し、何も言えなくなれば、それで良しですが、

交渉においては、相手に何も言わせなくさせることに、何の意味もありません。

むしろ害です。

相手企業の怒りや恨みを買い、信頼を損ない、

結果的に大きな損害が出すことにつながるからです。

 


交渉とは、相手と自分の目指している方向性に一致する部分はないか、

模索していく共同作業であり、

交渉相手は「一緒に勝つアイデアを出し合う仲間」と心得て臨むべきです。

 


これは仏教で常に重んじられる「自利利他」の精神に通じます。

人間関係においてぜひ知っておきたい大切な心得です。

「自利利他」とは、

他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)となる、ということ。

他人も生かし、自分も生きる、のが『自利利他』の道です。

取引、交渉においても、まず私たちが心得なければならないのは、

この『自利利他』の精神でしょう。

 


米中貿易戦争の様相を呈してきた国際情勢に、世界中が緊張しています。

国家間の交渉も大事なのは「自利利他」の精神です。

アメリカも中国もこの精神を忘れずに交渉に臨めば、破綻することはないのですが、

果たして両首脳にその度量があるかどうか、ですね。

絶対死にたくない者が絶対死ななければならないという矛盾

 

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生死の一大事(1)】


人が忌み嫌い、避けたいと切に思っているものを次々と挙げてみましょう。

地震、津波、原発事故、戦争、核ミサイル、がん、認知症、脳梗塞、

借金、介護、倒産、パワハラ、リストラ、ブラック企業、いじめ、・・・

いろいろ挙がってきそうです。

 


人間の恐れるこれらの項目に共通している概念は何でしょうか。

それは「死」です。

先ほど挙がっているものは、直接、あるいは間接的に、

私たちの「生」を脅かすものばかりが並んでいるのに気付かれるはずです。

これらの諸問題は、対策を立てないと死んでしまうというものです。

 


生死がかかっていますから、これらの対策に、人は躍起になります。

地震、津波、原発事故など災害対策を重要視し、

戦争、核ミサイル、介護など国会で論じ、

借金、介護、倒産で窮地に陥らないよう、貯金もし、

がん、認知症、脳梗塞の対策のため、健康管理に余念がなく、

パワハラ、リストラ、ブラック企業、いじめなどを避けるために人間関係に神経を使い、

一生懸命「生きよう」「生きよう」とします。

言い方を変えればこれらの対策は、

人間の「死を遠ざけよう」という懸命な姿なのです。

人間の営みとは「死」との不断の戦いであるといえましょう。

 


ですが「死と戦う」というと、あまりに巨大で途方もないことなので、

私たちは「死」にオブラートをかぶせたものを問題視しているのです。

 


本質的に「生きる」とは、日々「死」と戦っている姿です。

今日一日「生きた」ということは、

今日一日「死なずにすんだ」「死に負けなかった」ということです。

しかし悲劇的なことには、この戦いはいつか必ず負ける戦いです。

いつか必ず人は死ぬのですから。

 


人間は、死に向かって進んでいる存在です。

死ぬのは嫌だ、と毎日、懸命に対策を立てていながら、

その姿は同時に、一日一日確実に死に近づいている姿でもあるのです。

 


【絶対死にたくない者が、絶対死ななければならない】

こんな矛盾はありません。

私たちはさまざまな世の矛盾を指摘しますが、

実は己自身こそが、最大の矛盾を抱えた存在なのです。

カネの憂鬱から解放されるにはどうしたものか

 

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有無同然(1)】

 

■4月3日、銀座に本拠を置く経営コンサルタント会社が破産しました。

赤字解消の商品戦略などを企業に提案してきた会社が

実は約18億円の負債をかかえていた、というのですから、

笑い話のようですが、よくある話しで、経営の難しさが知らされます。

しかもその会社は2015年10月期には約58億円の売上げを計上していたというのです。

それが2年間で資金繰りに苦しむようになり、この度の破産申請となったとのこと。

 


1ヶ月58億円の売上げと聞けば、私たちからすると

「あれだけ儲ければお金の心配から解放されて気持ちいいだろうなぁ」

と思いますが、実は金額の桁が違うだけで、

金銭の悩みはまったく変わらないようです。

そんな人は、その分人件費や設備投資とか税金とか、

やはり支出も何10億ですから、

安心どころか、常に倒産の不安にさらされています。

ゼロの桁が二つ、三つ違うだけで、

お金のことで憂鬱な思いをしているという点では一緒なのです。

 


■晩年の松下幸之助は、個人としての収入が年間約10億円だったそうですが、

やはりお金の悩みから解放されない胸の内をこう述懐しています。

「私の場合、まあ年に10億程度の個人収入があります。

ところが80%近くが税金で引かれるので残りの2億円をどう使うかというと、

個人の生活に使うわけです。

具体的な使い道を言えば、私もまず、食べていかなければならん、ということで食費がかかります。

食の他に、衣にも住にも金が要ります。

しかし何よりも大きいのは、交際費です。

例えば今はもう定年退職になっている方が多いですが、

私と同じところから働いている人が千人ほどいるわけです。

それらの方々に、家族もいれば孫もいます。

そして孫が結婚する時代になりました。

そうすると、その他冠婚葬祭が多い時は月に20~30あります。

私の立場では1万円というわけには行きませんから

仮に10万円包んだとしても、2、3百万円は必要なことになります。

年にすると、それだけで3~4千万円かかるわけです。

その他に、年に2回中元と歳暮が必要です。

そうするうちに10億という収入がみんな消えてしまう。

生活費が足りなくさえなりかねません」

 


■ゾウが一日食べる量は

青草60キロ、干し草7キロ、わら6キロ、バナナ3キロ、

パン1キロ、固形飼料5キロ、竹10キロといいます。

 


これをロバが見たら

「なんてゾウは豊かなんだ、恵まれているんだ」

とうらやむでしょうが、

ゾウは毎日これだけの量の餌が供給されなければ

たちまち餓死してしまうので、

自分のことを豊かで恵まれているとは思えないのと同じです。

 


■お釈迦様は金銭のことで悩む人間の実態を、

カネの無い者がカネが欲しくて悩むのを『無財餓鬼』といわれ、

カネのある者がもっと欲しいと苦しむのを『有財餓鬼』と説かれています。

有っても無くても、皆カネのことで苦しんでいるのです。

好きになってはいけない人をなぜ好きになってしまうのか

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【業力(1)】

 


「この人を好きになってはいけない」が恋の始まり、

「この人を好きにならないといけない」は恋の終わり、といわれます。

 


人を好きになるのは、理屈ではありません。

「私の年収はこれこれで、年齢や社会的魅力から判断すると、

同僚のA子さんにプロポーズするのが最適だ」

と頭の中で分析、計算してから、

「うお~!A子さんが好きだ~!」

と熱を上げる人はいません。

 


理性は恋の衝動の後に動きます。

「ああ、ステキな人だ!」とまず雷の一撃があり、

その後で遅ればせながら理性が活動を始めて

「でも、どうやって彼女に近づけば・・・」

と作戦を練るのです。

 


計算では、どうしても好きになってはいけない人、

理性的に判断すれば、遠ざけなければならない人であっても、

惹かれてしまい、自分で自分の気持ちがどうにもできない時もあります。

この理屈や計算ではどうにもならない、恋の衝動はどこから起きるのでしょうか。

 


仏教では自分の持っている深い「業力(ごうりき)」が、

自分を動かしてしまうのだと説かれています。

「業(ごう)」とは、インドの言葉では「カルマ」、日本の言葉では「行為」のことです。

 


私たちが過去にしたさまざまな行いが「業力」となって、

特定の「その人」を好きになってしまうのです。

それは理屈や理性では抑えきれない、ものすごい強い力であり、

釈迦が「業力は大象百頭よりも強い」と説かれているのは、そのことです。

当時インドで一番力の強い象を引き合いに出され、

大きなゾウ100頭後からよりも強いのが業力だと仰り、

誰も止められない、といわれています。

 


「こうして、こうなれば、こうなると分かりつつ、こうなった二人」

という言葉もあります。

不倫でせっかく積み上げてきたものを棒にする人は後を絶たず、

やがてこうなるとわかりながら、なんでやめられなかったのか、と思いますが、

何者も妨げることができない強い業力に動かされているのだから、

どうにもならないことなのでしょう。

 

 

 

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さまざまな宗教の主張する「論より証拠」はあてにならない理由とは

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【信心(1)】

 


どの宗教もご利益を強調します。

「これを唱えていたら病気が治った」

「これを拝んだら家庭が明るくなった」などなど。

 


第三者からすると、論理的でもなく、根拠も乏しい、

何でそんないい加減なものを信じられるのか、と思えることでも、

その人はその人なりの救われた実体験があるからか、

強く信じ込んでしまっています。

「論より証拠」とはよくいったもので、

そういう人と話をして知らされるのは、

実体験の威力は相当なものだなということです。

 


これはパワースポットに行ったり、パワーストーンを持ち歩いたら、

運気が上がって人生が好転した、という経験のある人も同様のことがいえます。

その経験をもう一度とばかりに、あしげくパワースポットを巡ったり、

次々とパワーストーンを購入したりします。

 


私はそれらの宗教やスピリチュアルでいう「ご利益」や「運気」というのは、

拝んだり、唱えたり、ある石を手にしたり、ある場所に行ったりした行動と、

ちょうどその時節にその人に起きた幸・不幸を、

本人が関連つけてしまったに過ぎないと思っています。

 


あるいはプラシーボ効果の一種だと思っています。

プラシーボ効果とは、偽薬でも効き目があると思い込むことで病気が治癒する効果をいいます。

「これはよく効く薬ですよ」と言って、治療効果のない偽薬を飲ませると、

歯の痛み、腹痛、胃潰瘍、皮膚状態の悪化などの症状が、

なんとほぼ半分以上治るという科学的研究結果があります。

医者の格好をして薬を渡すと、さらに効果が高まるようです。

モルヒネよりも効く場合もあると言うから、かなり強力な治療方法?です。

特に痛みやうつなど、気分の影響の受けやすい痛みやうつなどの症状には効き目があると言われます。

 


漢方医学、あるいは針やツボ、気の流れなどは

「全員に効くものではない、個人差がある、だけれども、本当に治った人、楽になった人がたくさんいる」

と語りますが、これもひょっとしてプラシーボ効果かも、と思ってしまいます。

半分の人に効く漢方治療だと聞くと、かなり効き目があるように思いますが、

プラシーボ効果だと考えても説明がついてしまうので。。。

 


しかしこんなように何事も疑ってかかったら、

それこそプラシーボ効果は期待できず、己が損するといえるかも知れません。

まさに「信じるものは救われる」なのですから。

母親に全幅の信頼を寄せていた幼児の時、

母から「痛いの痛いの飛んでけ」と言われると、

本当に痛みが消えていくように感じたものです。

 


だから肉体的な痛みなどで、時にプラシーボ効果が有効なこともあるのでしょうが、

それにしたってがんからくる腹痛を、プラシーボ効果頼みで偽薬を飲まされ、

適切な治療を施さず、手遅れになったら取り返しのつかない後悔が残るだけです。

 


ソクラテスは「検証なき人生は生きるに値しない」と言いました。

自分のたった一つのかけがえのない人生を、

プラシーボ効果に依存するわけにはいきません。

信ずるものの真贋には、尋常ならざる真剣さがあってしかるべきでしょう。

 

 

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教育熱心なのに、うまくいかない原因はこんなところにある

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【布施(1)】


会社では入社式が終わり、これから新入社員研修が始まる時期です。

「社員を教育する」というと、様々な知識やスキルを叩き込み、教え込むこと

と思っている人が多いようです。

「詰め込み教育」という言葉もあるように、

短い時間でいかに多くのことを詰め込むか、が大事だと

思っている教育担当の社員もいます。

 


しかし本来の「教育」とは、どうあるべきか、

「教育」という言葉の由来から学んでみたいと思います。

 


「教育」という言葉は明治期の造語であり、

英語「education」の訳語として使われたのが最初です。

「education」とは、ラテン語の「引き出す」(educere)を由来とします。

 


「教育」とは「引き出す」ことであり、「詰め込む」とはまるで逆の概念です。

何もできない、わかっていない者に、一方的に「詰め込む」のではなく、

その新入社員が持っている長所、才能、強み、意欲を「引き出す」のが、

社員教育なのです。

 


親が家庭で、教師が学校で、子供を教育するのも、同じことがいえます。

子供をよく見て、話してみて、子どもの中にある素晴らしい芽を見つける。

そして、その芽を伸ばしていくことが子供への「教育」です。

 


私たちは人の欠点はよく目につきます。

特に自分ができていることを、人ができていないと、すぐわかります。

「なんであいつはこんなこともできないんだ」

「こんなこともできないようでは先が思いやられる」

とイライラしたり、心配するあまり、指摘してしまいます。

 


しかし人の長所はすぐにはわかりません。

その新入社員にも、その子供にも、自分にはない長所、強みがあるはずですが、

それはすぐにはわかりません。

大事なのは、まず相手の長所を発見することです。

そしてその長所を伸ばせるよう、力を尽くすのが「教育」です。

いま学校でも、会社でも、改めて

「能力や意欲を引き出す」という教育の役割が問われています。

 

人間の犯す「殺生」という罪を考えてみる

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【殺生罪(1)】

 


仏教に説かれている罪悪には、

窃盗、ウソ、不倫、悪口などと並んで「殺生」が挙げられます。

「殺生」とは動物を殺すことです。

窃盗やウソや不倫は、法律でも、道徳的にも罪悪とされますし、

犯してしまえば発覚を恐れ、びくびくしますが、

殺生の場合、そもそも罪悪だと受け止めている人は少ないようです。

 


「弱い者が強い者に食べられる、それは自然界の摂理だから殺生は悪くない」

と言う人もあります。

しかしその主張が通るなら、権力や武力を持つ強い者が弱い立場の人間を虐殺するのも、

自然界の摂理だから悪いことではない、と

民族浄化や大虐殺を肯定することになってしまいます。

 


「生きていくには殺生は仕方ないではないか」という意見もあります。

しかし「仕方ない」と「罪ではない」は違います。

殺されていく動物たちは、自分や自分の家族が殺されていくのを、

「人間たちはそうしなければ生きられないのだから仕方ない、許そう」

とは思えないでしょう。

人間の都合で「悪くない」と勝手に判断しているだけです。

 


「遊びや面白半分でする無益な殺生はよくないが、自分たちが食べる分をいただいているのだから」

と言う人もありますが、これとて「だから悪くない」とはいえませんよと、

釈迦は説かれているのです。

 


「命をいただいているという感謝を忘れず、ありがたくいただくのが大事」

という人もあります。

感謝して食べれば、罪が精算されるとでも思うのでしょうか。

これも釈迦は、殺生罪には違いありませんよ、と言い切られます。

 


いかなる理由をくっつけようとも、

死にたくない命を、こちらの都合で一方的に殺める殺生の罪は

恐ろしい罪ですよ、と釈迦は明言されています。

 


ある大学生のゼミのグループが鳥を卵から孵して、雛から育て、やがて食す、

という実体験をする研究をしました。

調理する日が近づいたある日のこと。

A君から「今はまだ鳥を殺すべきではない」という意見が出て、

ゼミ生全員が研究室で話し合いました。

A君は、鳥を一番可愛がり、誰よりも率先して小屋の掃除をしていたので

気持ちはよく分かります。

「いま卵を育てているから、卵を産み終わってから‥‥」

「ペットとして飼っていたんではないんだぞ」

「自然死してからでは」

「自然死を待っていたら、病気が怖いから、食べられなくなる」

そんな意見の応酬があって、最後は多数決となりました。

「屠る(殺す)べきではない」が2人で、

残りのゼミ生全員が屠る方に手をあげました。

 


私たちが普段目にする肉は、

すでにブロックで切りそろえられたものですから、

 殺生をしているという自覚がありません。

 


ゼミ生たちは実習で、鶏がまな板の上で鳴き叫ぶ姿、

首を絞められ、ばたばたもがく姿を目の当たりにして、

肉を食べるということはこういうことなんだ、と

強く自覚したことでしょう。

 


この研究ゼミで学んだこととしてゼミ生たちは

「命をいただいているという感謝を忘れてはいけないと思った」

「無益な殺生はあってはいけない」

などの感想を出しました。

しかしそれは表向きの回答で、

やはり彼らは、たとえ法律や道徳では咎められなくても

「これが罪でないはずがない」と心の中でつぶやいたのではないでしょうか。

 


殺生の罪の厳粛な重さを実感する機会が

現代人にはなくなってきていますが、

目の当たりにすれば、誰しも

「殺生罪を犯している恐ろしい自己」を痛感します。

釈迦は殺生罪を「人間の、どうにもならない、恐ろしく、悲しい業」と説かれています。

 

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