【人身受け難し(1)】
2016年、相模原市のやまゆり園で起きた45人を殺傷した植松聖死刑囚は、日頃から友人たちに「障害者なんて生きる意味がない」という自論を主張していました。
彼が得意げにそう話すのを友人が「やめろよ、そういうこと言うの」とたしなめると、「俺を論破するのは難しいぜ」と言い返してきたといいます。
おそらく彼はこの自論を論破された経験がなかったのではないでしょうか。
むしろ誰もきちんと言い返せず、たしなめようとする人があってもそれは建前で、本当のところ、生きる意味は何なのか、ハッキリ答えれる奴いないでないか、と自信を深めていったのではないかとさえ思います。
いつしかハッキリその自論を主張できることが自己のアイデンティティになっていったのかもしれません。
今年3月、裁判で彼は死刑判決を受けました。
言ってみれば世の中から彼の生き方は否定されたといえます。
しかし裁判の最後、彼はいきなり演説で自己主張を始め、周りに衝撃を与えました。
裁判で被害者家族の悲しみの声をどれだけ聴いても、彼の自論は少しも変わらなかったのです。
このたびの事件の根っ子にあるのは、まぎれもなく「彼の思想」です。
ならばこの事件、どうすれば食い止めることができたか。
彼が事件前、友人や誰かの前で得意げに自論を展開したとき、それを論破する人がいなければならなかった、と思うのです。
「負けた。俺の主張は間違っていた」となるか、そこまでいかなくても「ひょっとしたら俺の自論は間違っているかもしれない」と揺らぐようなことを彼に言わなければなりませんでした。
ではどう言えば彼を論破できたのか。
いや、言い方ではない。
正真正銘、彼を論破する確固たる思想はあるのか。
強烈にこの問いを世に突きつけた事件だったと言えます。
支援学校のある教員は「意思疎通のできない者は生きる意味がない」と言い切るその男の自論に大衝撃を受けたといいます。
「そんな心はないかと教員は誰でも胸に手を当てて考えたと思います」と語りました。
今なお植松死刑囚は自説を曲げず、彼を英雄視する声もネット上に上がっています。
どれだけ死刑判決を下しても、彼の自論自体が論破されない限り、近い将来同じことは起きるでしょう。
それが今度は政治家や科学者の手によって行なわれるかもしれない、そうなれば植松被告とは比較にならない惨事です。
今、人類に「どんな人にでも生きる意味がある」と説き示す思想が希求されているのです。
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