親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

見方を変えると問題点が美点になる

f:id:kikuutan:20200131135713j:plain

 

【一水四見(1)】

 


「人の顔色を気にせず行動できる強い人間になりたい」

これは多くの人の望みです。

こんなことをしたら人はどう思うだろう、気分を害すのではないか、嫌われたらどうしようと

私たちはいつも人目を気にして悩んでいるので、

「人は人、オレはオレ」で信念を貫き通せたらどんなにいいだろう、とあこがれます。

 

しかし考えてみてください。

もしあなたがそういう人だったとしたら、あなたと接した相手はどう思うでしょう。

信念のある頼もしい人だ、と思ってくれる人ばかりではないと思います。

この人は平気で人の嫌がることを言う失礼な人だ、空気の読めない人だ、

とレッテルを貼られるかもしれません。

そうなれば自分の周りからだんだん人がいなくなり、

そこでまた困ることが出てくることになります。

 

そういう意味では人の顔色が気になる人というのは、

持ち前の鋭敏なセンサーで相手の気持ちを察知し、

人間関係を損なわないよう常に気を配っている人、と言えます。

 

人の顔色を気にせず行動できる、というのは、ある面長所ですが、

一方で、周りの人を気遣えないという短所となって表れることもあります。

逆に人の目が気になって積極的になれないという短所が、

相手の心に土足で入っていくことはない気配りのできる人、という長所にもなり得ます。

一見、短所に見えることも、実はその人の長所、

一見、長所に見えることが、実はその人の短所です。

自分では欠点だと思えて仕方ないことが、実は他の人はない強みでもあるのです。

 

 

 

臨死体験は本物か、幻覚か

f:id:kikuutan:20200127091224j:plain

 

 

【無明の闇(1)】

 

臨死体験をした人が、あの世を見てきた、死後はこうだった、と語るのを見聞きして思うのは、

「あなた、それは死後を経験したとはいえんでしょう?」ということです。

だって語っているその人は現に死んでいないのですから。

臨死体験者に、

「あなたが見たのは本当に死後だったとなんで言い切れるのですか?」

「幻覚ではないという明確な根拠は?」

と聞きたくなります。

 

美しい花畑だった、とか、すでに亡くなった好きな人がニコニコ笑って迎えてくれた、とか、

死後が明るいイメージで語られることは多いですが、

死の不安、ストレスを軽減しようと脳内物質が働くからという説もあります。

脳内物質が死の恐怖を和らげるから、死に顔がおだやかになるのかもしれません。

 

文化圏によって、あるいはその人の信仰によって、見える景色が違うのも、臨死体験の特徴の一つです。

キリスト教の土壌で生きた人はダンテの「神曲」にあるような、天使やらが出てきて、いかにもキリスト教的な体験をし、

仏教圏では仏教的な世界を語りますし、イスラム教ではその世界観が出てくる、といった風で、

これも意識の混濁で起きているからといえるかもしれません。

 

いずれにせよ、学問でどれだけ臨死体験を分析しても、それはいくつかの事例を覚え、推察しているだけで、

実際はどうなのか、の不安は、それら学問では精算できません。

臨終間際に脳内物質がどのように働き、どんな景色を見せるか、は一瞬のことなのでどっちでもいい類いのことで、

大事なのは、本当のところ死んだら私はどうなるか、です。

有るのか、無いのか、有るならどんな世界なのか、実際はどうなのか、ということです。

 

「このようになると信じたい」と、生前いくら祈願しても、

それが通用するならけっこうですが、果たしてどうでしょうか。

これもわかりません。

 

仏教ではこの「死んだらどうなるかハッキリしない心」を「無明の闇」といい、

人間存在そのものの不安をもたらす元凶である、と説かれています。

 

 

心と口・身体の関係は川の上流と下流

f:id:kikuutan:20200127122700j:plain

 

 

【意業(3)】


前回、前々回と仏教は心を重視するという話を続けています。

今日はその3回目です。

 

「心で何を思っていようが、自制して口が体に表さなければいいじゃないか」

という意見もあります。

確かに心で考えていることは言葉や行動に移さなければ

誰にも知られることはありませんし、

迷惑もかけることもないのだから、

そんなに問題視しなくていいと思いがちです。

 

しかし問題は「思っていることを口にしなければ、行動に移さなければ」という条件が付き、

これがなかなかできないのです。

心で何を思っているか、その人の言動にどうしても現れてしまうのです。

「目は口ほどに物を言う」とのことわざもあるように、特に目はその人の心が表れます。

窓が開いていて他人の家の中の様子が見えてしまうことがありますが、

まさに「目は心の窓」で、目を見るとその人の心の中が見えてしまうことがあります。

今気分を害したな、とか、苦手だと思われてるな、とか、いろいろわかります。

心を隠そうとしても、目や表情や態度、あるいは言葉や行動にどうしても表れてしまうのです。

 

相も変わらず大臣が失言して辞職する事態が続いてますが、

ある大臣はとあるパーティーで自分の推薦議員を「復興以上に大事なのはこの人」と発言し、辞任に追い込まれました。

その議員を本当に可愛がっていて、そして自分のためにも大事な議員で、

その人は本音の部分で推薦議員の当選が「復興以上に大事」だったのでしょう。

それがついポロっと口から出てしまい、

世間から、大臣の資格なしのレッテルを貼られ、辞任です。

 

やっちゃいけない、言っちゃいけないと思っていても、

心の中で思っていることが口や身体に出てしまい

社会的信用を失ったり、刑務所に入っていく人がどんなに多いことか。

失恋した人、友だちを失った人、犯罪で捕まった人、会社をクビになった人、 今刑務所に入ってる人、

それらの人は心で思ったことがつい口や体に出てしまってそういう事態を招いてしまったのです。

思ってることを言わないよう、やらないよう注意していたのに、それが出てしまった、

それで刑務所で今後悔しているのです。

 

心と言動の関係は川の上流と下流みたいな関係です。

川の上流が「心」、川の下流が「言動」です。

川の上流に赤いインクを流せば川下は赤く染まり、

川の上流から青いインクを大量に流せば川下は青く染まるように、

心の中で何を思ってるかの違いが、その人の言動の違いを生みます。

もし下流の水をきれいにしたかったら、

下流だけを浄化してもだめです。

山に登って上流から汚いものを流している元を断たなければ、

もう下流の水がきれいになることはないのです。

 

同様に「この人苦手だな、嫌いだな」と心の中で思っていて

それをいかに口や態度に表さないようにと努めてもやっぱり出てしまいます。

その人と本当に打ち解けたいのならば

その人の良いところを発見し、まず自らが心を開かなければ、

その態度や口も変わることはありませんし、打ち解けることもできません。

 

 

意業(心)に一切の責任があり、すべてを生む元であると説く仏教

f:id:kikuutan:20200125103717j:plain

 

 

【三業(2)】


心で思ったことが口に表れ、体に表れる、だから心が一番大事である、

と仏教で説かれていることを前回から話をしています。

 

今皆さんがこの文章を読んでおられるのは体の行いですが、

読もうと思ってクリックした、その読もうと思われたのは心の行いです。

この文章を読んでおられる今も、

心がこの後も読もうと思われているから、今この文章を読んでおられるのです。

読もうという心がなかったら、たとえ途中まで読んでも、クリックして違うページに飛んでしまうでしょう。

 

今私がこうしてこういう文章を書いているのも、

心でこういう文章を書こうと思って書いているのです。

心で思わないことが体に現れることはありません。

今年一年どんな本を読んだか、どんなテレビ番組は見たか、どんな人とどんな話をしたか、

もっと言えば、今自分の住んでいるところも、している仕事も、結婚相手も、

その一切は自分の心が決めたことです。

心がすべての元であり、何事も心にこそ根本的な責任があるのです。

 

口や身体は心の奴隷といえます。

あえて奴隷と表現したのは、心と口や体の関係は絶対服従の関係だからです。

麻原彰晃こと松本智津夫が引き起こしたオウムサリン事件で、

事件の実行犯は彼の弟子たちであり、まだ20代の若者たちでした。

彼ら実行犯は地下鉄でサリンを撒き、多くの人を殺傷したのですから、

重い罪に問われなければなりませんが、

その犯行を命じた松本智津夫は、実行犯以上に重い罪をに服さなければならないのは当然です。

 

松本智津夫が「オレは自ら手にかけて殺したことはない、あれは実行犯がやったこと」と抗弁しても

それは通用する話ではありません。

彼が命じなければ実行犯はああいう恐ろしい事件を起こさなかったのですから。

自ら手にかけた実行犯ももちろん恐ろしいですが、

彼らをそうさせた首謀者である彼は、もっと恐ろしい罪を犯したのです。

よってその刑罰を受けなければならないのも当然です。

自分が直接手にかけて殺したのではないのだから罪がない、

と言い逃れが通るはずがありません。

 

口で言って人を傷つけたその言葉も、

身体でやって人に迷惑をかけたその行動も悪いのですが、

そのように言わせた心、そのようにやらせた心、

そこにこそ最も恐ろしい元凶があるのです。

 

 

心と口と身体の三つの行為、三業で人を判断する仏教

f:id:kikuutan:20200123105541j:plain

 

【三業(1)】

 

仏教では、その人が善人か悪人か、心と口と体の三方向から判断します。

身体で何をやっているか、やっていないか。

具体的にいえば、人を殺したとか、物を盗んだとか、不倫したとか、親切したとか、裏表なく努力しているとか、などです。

口で何を言っているか、言っていないか。

二枚舌を使ったり、悪口言ったり、ウソをついたり、あるいは温かい言葉をかけたり、感謝の言葉を述べたりすることです。

心で何を思っているか、思っていないか。

これも具体的にいえば、あの人死ねばあれはオレの物になるのに、とか、あいつは何かひどい目に遭ってくれたらいいのに、とか、どうかあの人が元気になってほしいと切に思うとか、そういうことです。

この心と口と体の三つの行為から人間を判断します。

それでこの三つの行為を『三業』といいます。

 

中でも仏教が最も重視するのは心の行いです。

ここは世間一般と仏教の大きな違いの一つです。

世の法律では、一番重視するのは体の行いです。

実際にやったかやってないか、アリバイはあるか、白か黒か、

やったかやってないかで善人か悪人か裁きます。

一部、偽証罪や脅迫罪など、何を言うか、の口の行いも裁判等で問題になりますが、

主に身体で実際やったことが問題にされます。

 

口で言っていることが問題視されるのは、近所付き合いや職場での人間関係などです。

ウソをついたり、人の悪口を言えば、

法に触れないまでも道徳的に「悪人」となります。

 

このように法律でも社会生活でも、その人が善人か悪人かは、

体や口の行いが問題にされますが、心までは問われません。

こんなこと思っただろう、あんなこと思っていないか、と

心の中まで指摘されることはありません。

だいたい指摘しようにも指摘できません、心の中は他の人にはわからないですから。

 

わからないことだから

「心の中ぐらい何を思っていたって、別にいいじゃないか、誰に迷惑かけるわけでもないんだから」

と私たちは心の行いを軽視しがちです。

「口で言ったら人を傷つける、体でやったら人に迷惑かける、でも心で思ってるぐらい何だって言うんだ」

という人がほとんどです。

 

ところが仏教ではその「心で何を思っているか、何を思っていないか」ここをこそもっとも重視するのです。

なぜでしょうか。

それは心が口や体を動かす元だからです。

心で思ったことが口に表れ、心で思ったことが体に現れるからです。

次回に続けます。

 

 

羽生善治名人の向上心に感銘を受けた

f:id:kikuutan:20200120200451j:plain

 

 

 

【精進(1)】


「AIが台頭して将棋界が進歩した今、残念ながら私のこれまでの経験はほとんど生きません」

これは通算勝利歴代一位の将棋棋士、羽生善治名人がインタビューで語っていた言葉です。

こう言えてしまうところに、

長年にわたってトップで居続けることができる羽生名人の非凡さがあるように感じます。

なにしろ国民栄誉賞を取るほどの棋士です、

ふつうなら「おれはできるんだ」と思ってしまいますし、

過去こうしてオレは勝ち続けてきたんだ、との自負心もあるだろうし、

なかなか新しいことに挑戦できなくなると思うのです。

 

ところが羽生名人は「これまでの経験はほとんど生きない」と自己の現状を受け止め、

「最新の研究結果を知る努力がすごく問われるようになりました。AIの手を自分なりに理解し、納得することが大事です」

と今なお、AIソフトを前に格闘し、現状を打破しようとしています。

 

「慣れない環境に極力身を置き、惰性で同じやり方を続けないようにしている」

とも語っていました。

10代、20代が台頭する将棋界で、49歳にして向上心を失わず、

自分を変えることのリスクを恐れず果敢に挑戦するその姿に

感銘を受けました。

負けておれないなと刺激を受けます。

 

人生の目的と人生の目標、生きがいとの違いとは

f:id:kikuutan:20200117165354j:plain

 

 

【人生の目的(3)】


前回と前々回のメルマガで、

人間が生きるには希望が必要であり、

その明かりを失うと生きていけない存在でもあることを、

種々の例を引いてお話ししてまいりました。

さてそのことを踏まえた上で、ここで考えていただきたいことがあります。

それはこういった「生きる明かり」「生きる希望」「生きがい」は、

「人生の目的」(人間に生まれてきた目的)と言っていいのかどうか、ということです。

 

江戸時代の農民は正月や村祭りの「ハレ」の日を明かりに「ケ」の地道な日常を過ごしましたが、

彼らがそうしてがんばって生きていった目的はどこにあったのでしょう。

私たちはGWの10連休の旅行や夏休みのコンサートを楽しみに目の前の仕事を乗り切りますが、

そのように働いて収入を得て生活しているのは、そもそも何のためなのでしょう。

晩酌しながら「これが楽しみで生きているようなものですわ」と言う人は、

晩酌を生きる力にしているのですが、そうしたもので力を得て生き続けるのはなぜなのでしょうか。

 

マラソンランナーが完走するための給水場のドリンクを必要とするように、

人間は生きる明かり、希望を必要としており、それなくしては生きていけません。

ではマラソンランナーなら42.195キロを少しでも早くゴールすることを目的としていますが、

人間は何を目的に生きているのでしょうか。

明かりや希望を力として生き続けている目的は何なのでしょうか。

そもそもなぜ生きるのでしょうか。

 

世に出回るほとんどの人生論では、

「人生の目的」と「生きがい」「生きる目標」をごっちゃにしています。

しかし仏教では「人生の目的」と「生きがい」「生きる目標」はまったく違うと説きます。

「生きがい」「生きる目標」「生きる明かり」は生きるために必要なものであり、

「人生の目的」は、なぜ生きるのか、やがて死ぬのになぜ生き続けるのか、という問いです。

明白に違います。

この違いを鮮明にし、真の人生の目的とは何か、を明らかにされた方が親鸞聖人という方でした。

 

その「人生の目的」とは何なのか、知られたい方のために書いた今の自分の精一杯の内容が以下の20回です。

https://shinran-mail.com/freemail/

 

 

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。