親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

底知れぬ淋しさが漂う魂の孤独

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【独生独死独去独来(1)】


こうしてメルマガを配信していると、毎日のようにメッセージをいただき、

読ませていただく中でまた書きたいことが出てきて、

メルマガを作成するということがよくあります。

 

先日、人生とは底知れないほど寂しいところである、とお釈迦さまが仰った

『独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)(経典)』をメルマガに書いたところ、

こんな内容のメッセージをいただきました。

(具体的な部分はカットしています)

「やりたいことをやって楽しんで生きるのが大事だ、と思って今まで生きてきて、

そうして生きてきたことに後悔もないし、

興した事業も順風ですし、妻と二人の娘にも恵まれ、

幸せなんですが、50歳を過ぎた頃からだったか、

底知れぬ淋しさが漂う魂の孤独を確かに感じるようになってきました」

 

この方の感想からお見受けするに、

成功された経営者のようです。

やりたいことができる経済力もあり、

奥さんと二人の娘さんとも幸せに過ごされ、

傍から見ると申し分のない境遇で、

ご本人も「幸せなんですが」と言われていますが、

一方で「底知れぬ淋しさが漂う魂の孤独」を感じておられます。

 

トランプ大統領がまだ大統領選に出馬する前、

不動産王として名を馳せていたころにこう言っています。

「人生最大の目標をなしとげた人で、その目標達成とほぼ同時に、

寂しく虚しく、放心に近い感情を抱き始めることのない人はめったにいない。

…他人の人生を見るまでもなくそれが本当だということは

私[D・トランプ]にはわかる。

私も他の誰にも劣らず、その落とし穴に陥りやすいのだ……。」

彼も言葉にできない寂しさを「寂しく虚しく、放心に近い感情」と表現しています。

 

王族の太子として生まれ、名をシッダルタといわれたお釈迦さまも恵まれた境遇の方でした。

幼少の頃から、卓越した才気を発揮し、

父母親族である王族や、家来たち、国民の期待を一身に集め、

インド一の美女と謳われたヤショダラ姫と結婚し、翌年子供にも恵まれ、

何不自由ない、人のうらやむ境遇でしたが、

やはり何をもってしても埋められない虚しさに戸惑われ、悩まれています。

 

お釈迦さまは、誰しもが密かに抱えているこの魂の孤独を「無人の昿野」と言われています。

人っ子一人いない、漠々とした荒野をただ一人とぼとぼと歩くのが人生だと、説かれているのです。

 

「独り来て 独り死にゆく 旅なれば つれてもゆかれず つれられもせず」

人生という舞台にただ一人入ってきた転校生のようなもの。

見ず知らずのところから一人やってきた違和感、寂しさに戸惑いながら、

やがて周りの人と会話を交わし、その場で生きる術を身につける。

が、それもしばらくの間。

また一人、人生という舞台から去らなければならないときが来る。

その時も誰も付いてはきてくれない。何も持って行けない。

この独り来て独り死にゆく旅を仏典に

『独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)』

と説かれているのです。

 

リーダーの責務はあまりに重い

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【生死の苦海ほとりなし(1)】

 

外出自粛、休業要請をしないとコロナ禍が拡大し、医療崩壊を招き、命が守れない。

さればといってこのまま自粛要請が続くと、生活できなくなり、やはり命が守れない。

どちらかを立てれば、どちらかの恨みを買うことになります。

休業要請するなら補償せよ、と政府は批判されますが、

その補償金が将来の国民の税金になって生活にしわ寄せが来たとき、

やはりまた政府は批判されるでしょう。

 

どうしたらより多くの人の生命と生活を守れるか、

どこに資源を集中させるべきか、上に立つ者は選択しなければなりません。

「選択する」ということは、守れない人が出てくることになります。

その人たちから見たら、そんな政策を決めた者は憎悪の対象です。

「なぜ私たちのことを考えてくれないのか」と

家族や社員を守るために必死に窮乏を訴えてくるでしょう。

怒りをぶつけてくることでしょう。

しかしその都度、情に動かされていたら、政策を実行することはできなくなります。

誰にでもいい顔していたら、どの方角にも舵を切ることのできないリーダーです。

恨みを買うのが嫌なら何もしないことですが、それはリーダーとしての職務放棄です。

 

大所、高所に立てば、ある面、非情にならざるを得なくなるのはわかります。

私は一庶民ですし、官僚でも管理職でもない、一個人事業主なので、

政治家の非情さが嫌だし、無神経さにも憤りを感じ、怖いとも思っていますが、

それでもあの立場に立って考えてみれば、その苦労、精神的なストレスは尋常ではないだろうな、と想像がつきます。

たいていの人は神経がやられてしまう仕事ではなかろうか、と同情もしてます。

 

「治世の能臣、乱世の姦雄」という言葉がありますが、

コロナ禍で乱世とも呼ぶべき事態、

果たしてプーチン、トランプ、習近平、安倍、メルケルといった各国のリーダーで、

後世の人が英雄、姦雄と呼ぶような人物があるのでしょうか。

リーダーの決断はことのほか重く、しかも彼らは孤独です。

取り巻きのブレーンは軍事や経済の分析をしてはくれますが、

最終的に決断するのはリーダーであり、全責任をとるのもリーダーです。

プレッシャーは、いかほどか。

重い責任に押しつぶされない強靱な精神力がなければ、

とても一国のリーダーなど務まるものではないと思い知らされます。

 

 

桃栗三年柿八年と仏教

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【因果の道理(1)】


「桃栗三年柿八年」という言葉があります。

その後に続く言葉は地域によって違うそうですが、

私の故郷バージョンでは「梨の馬鹿やろ十六年」でした。

米(コメ)は春に植え、ひと夏越えて秋になれば、収穫できますが、

桃や栗の場合、苗木を植え、せっせと世話をしても、1年では実をつけません。

2年がんばって育てても、木は少し太くなるものの、「実」という成果はありません。

3年心をかけて世話をして、ようやく実を少しつけるのです。

柿の場合はもっと大変です。

5年、6年と努力を続けても成果はありません。

「もう今度で7年目になる、今度実らなかったらもうやめよう」

とやってみたものの、やはり結果が出ない。

「もうどれだけやっても無駄なんだ、無駄な努力を続けてきたものだ」

と投げやりになって止めてしまう。

あと1年続ければたわわに実る果実を収穫できたというのに。

7年続けても、8年目を前に辞めてしまえば、

目に見えた結果を得ることができません。

 

すぐに結果が出ないからと、イライラしたり、焦ったり、

挙句の果ては結果を急ぐあまり、横車を押すような真似をして人生を棒に振る人もあれば、

投げ出したり、辞めてしまう人も数知れず、

その愚を戒めたことわざが「桃栗三年柿八年」なんでしょう。

 

ドリカムの「何度でも」にもこうあります。

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10000回だめで

かっこ悪くても

10001回目は

何か変わるかもしれない

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発明王エジソンはこう言います。

「失敗ではない。うまくいかない1万通りの方法を発見したのだ」

「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、つねにもう一回だけ試してみることだ」

 


ミケランジェロはこうです。

「私がこの作品にどれだけの労力を注ぎ込んだかを知れば、誰も天才なんて呼ばないだろう」

 

もしかしたらあなたが育てている果実は桃や栗でもなく、

柿や梨かもしれず、

あるいはもっと年月がかかるものなのかもしれない。

よくビジネス書には「努力する前に、結果の出るところを選ばねばならない」とありますが、

あなたが何が何でもその果実を食べたいのなら、

その道に人生をかけたのなら、

そんな外野の意見は無視して、

何年かかっても、何十年かかっても、それで人生終わってもいい、と覚悟して貫き通すことです。

 

 

ABC予想は人類の未来にどう貢献するか

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【精進(1)】


19世紀は工学者が世界を動かし、

20世紀は物理学者が世界を変えた。

では21世紀はというと、識者たちは「数学者の時代だ」と口をそろえます。

車や飛行機の開発に携わる工学が表舞台だった19世紀や、

原子力や半導体など物理学が脚光を浴びた20世紀には、

数学者という存在は象牙の塔の住人でした。

「あなたの頭脳を工学に生かせば、物理学に用いれば」と惜しまれ、

「そんなことをしていて世界に何か貢献するのか」と冷笑され、

実益のない個人的関心を追うロマンチスト・変人扱いだったのが、

AI(人工知能)・ビッグデータ時代の現在、その立場は一変しました。

「役に立たない」純粋数学が何百年も経て、

とても大きな役割を担うようになり、

今やどの国も優秀な数学者を確保せよ、育成せよ、と躍起になり、

彼らは時代の寵児となったのです。

 

日本の数学界は世界でも優秀で、

このたびも有名な数学の難問「ABC予想」が、京大の望月新一教授によって証明され、世界に絶賛されました。

「今世紀、数学界で得られたいかなる業績より数段上の成果だ。この成果は何百年後にも記憶され続けるだろう」(英フェセンコ教授)

「私は世紀の大偉業だと思っている。ノーベル賞を1つや2つあげても足りないくらいではないか」(東工大・加藤文元教授)

「フェルマーの最終定理」(1995年解決)や「ポアンカレ予想」(2006年解決)の証明などと並ぶ快挙だそうです。

 

望月教授はすでに2012年に、構想から10年以上かけた646ページからなる論文をインターネット上で公開し、

これを用いればABC予想など複数の難問が証明できると主張していましたが、

それがなぜ2020年になって絶賛されているかというと、その論文があまりに難解で、

世界の数学者が査読(論文の内容チェック)するのに8年かかったからです。

それがこのたびその正しさが認められ、絶賛されるところとなりました。

ところが絶賛といっても、ほとんどの人は何がすごいかもわからないようです。

宇宙を複数考えるという構想があまりに斬新で「未来から来た論文」とも称され、

理解できた数学者は世界で十数人しかいないのですから。

 

顔を紅潮して賛辞する世界中の数学者の声に

私たちも「何かすごそうだぞ」と目を輝かせ、

「このたびのABC予想の証明により世界にどんな影響を与えるのでしょう」と尋ねると、

数学者たちはこう答えます。

「今はありません」。

「えっ、じゃ何がすごいの」と戸惑いと失望を見せる私たちの様子に

彼らは苦笑して「数学とはそういうものです」と。

数学の発見は将来の人類にイノベーションを与える可能性があるものであり、

例えば今我々が持っているICカードの技術は、

18・9世紀にかけて導き出された楕円関数論に基づいているとのこと。

だから今回の論文も人類にどう貢献するのか、難しすぎて予測すらできないのだそうです。

 

以下は吉川英治の言葉です。

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あれになろう、これになろうと焦るより、

富士のように、黙って、

自分を動かないものに作り上げろ。

世間に媚びずに

世間から仰がれるようになれば、

自然と自分の値うちは

世の人がきめてくれる。

ーーーーーーー

数学者の「今はありません。数学とはそういうものです」との言葉に、

富士山のように泰然自若とした彼らの誇りが現れているように感じます。

 

 

苦悩の元を抜く仏教

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【抜苦与楽(3)】


腹痛患者が病院に駆けつけた時、まず医者がするのは診察です。

診察もないまま、いきなり注射を打ったり、手術したりはしません。

腹痛を引きおこした原因が分からぬままでは、的確な治療はできないからです。

同様に、私たちが幸せになるためにまず大事なのは

「私を幸せにさせない原因は何か」苦しみの元を正しく知ることです。

人生を苦に染める元凶は何か、正しく見きわめ、

それを取り除いてこそ真の安心・満足が得られます。

苦悩の根元の究明こそ、人類最大の急務である、と仏教が説くのはそのためです。

 

では「あなたを苦しませる原因は何ですか」と人に尋ねれば、

どんな答えが返ってくるでしょうか。

「金がないからだ」「病気だからだ」「こんな人と結婚したからだ」「才能がないからだ」「こんな性格だからだ」.....

苦しみの原因をこれらのものだと見定めて、

何とか無くせないか、せめて軽減できないかと、

日夜努力をしているのが、私たちの毎日の生活といえましょう。

 

ところが仏教ではこれらの苦しみは「苦しみの枝葉」であり、

「苦しみの根元」ではないと説かれているのです。

「枝葉だって?バカを言え、カネがないのがすべてのつらい人生の原因なんだ」

「この病気のためにどれだけ人生、損をしてきたか、枝なんかでない、苦しみの元だ」

と私たちには金がないことや、病気であることや、配偶者のことや、性格や才能が苦しみの原因としか思えないのですが、

お釈迦さまはそれらは全部苦しみの枝葉だよ、と説かれています。

 

なぜこれらが枝葉だと言われるのか。

それは枝葉は切っても切っても、またあちこちから生えてくるように、

私たちの人生におけるこれらの苦しみも、一つ乗り越えてヤレヤレと思う間もなく

「一難去ってまた一難」で、思わぬ苦しみが次々と現れるからです。

 

ある女性が夫の暴力で苦しんでいた。

「いっそ別れなさい、まだあなたは若いのだから」と心配して周りが忠告しても、

なかなか女性はその一歩が踏み切れないでいる、そんなケースはよく耳にします。

夫が原因で苦しんでいるのなら、離婚すればいいのに、と傍から見ると思いますが、

なぜ奥さんは躊躇するのでしょうか。

 

それは、別れれば夫の暴力という苦しみはなくなりますが、

今度は、女手一つで二人の子供をどうやって育てればよいかという、

また今までとは違った苦しみがのしかかってくるのが分かるからでしょう。

たとえ思い切って離婚し、昼も夜も働いて経済的に何とかなる目処が立ったとしても、

今度は仕事の無理がたたり、病気になる、という苦しみが襲うこともあります。

 

苦しみの枝葉をやっとの思いで切ると、今度は違う方向から生えてくる。

その枝を切ると、また思わぬところから生えてくる。

枝葉を切るのも一苦労だし、

どうせまた生えるのなら、このまま目をつぶって生えたままにしとこうか、と投げやりにもなる。

切っても生え、切っても生え、色や形を変えて現れる悩みにあれこれ対処しているうちに、歳取って死ぬ。

それが人生なら、人間はなんといったらいいでしょう、

苦しむために生まれ、苦しむために生きる存在になってしまうではないですか。

 

ではなぜそうなってしまうのか。

それはただ一つ、苦しみの根元を知らないからです。

枝を伸ばし、葉を茂らすのは、養分を根っ子から吸い取っているからです。

枝を一本切ったところで、根元からしっかり養分を吸い取っている限り、

他の枝葉が成長していくだけです。

ちょうどそのように一つの苦しみを乗り越せたところで「苦は色変わる」で次から次へと苦しみが出てくるのは、

苦悩の根源があるからなのです。

この本当の苦しみの原因を知り、それを取り除いたときにこそ、

「この身になるための人生だったのか」と

真の幸福になれます。

その苦悩の根源を徹底究明されたのがブッダであり、

ブッダの教えは、その苦悩の根源を断ち切る教えです。

 

 

仏と人とでは苦しみの視点が違う

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【抜苦与楽(2)】


先回のメルマガでお釈迦様が仏教を説かれた目的は『抜苦与楽(ばっくよらく)』

『苦しみを抜いて楽を与えてやりたい』

この目的一つで説き続かれた45年間だったことをお話しました。

一方、私たちの日々の営みも『苦しみを抜いて楽になりたい』

この目的に集約されます。

 

釈迦の目的は『抜苦与楽』

私たちの目的は『抜苦与楽』

ここにおいて仏の目的と私たちの目的は合致します。

私やあなたの一番知りたいことをストレートに教えていかれたのがお釈迦様なのです。

 

ではブッダと私たちの違いは何でしょうか。

ブッダの『抜苦与楽』は

【衆生(私たち)の苦悩の根源を抜き取り、本当の幸福を与える】

ことを狙いとされているのですが、

わたしたちは

【自分の苦悩の表面を問題にし、自分の一時の幸福ばかりつかもうとしている】

というところです。

 

モグラたたきというゲームはご存知でしょうか。

次から次へとモグラが出てきてそれをたたいていくゲームですが、

人生もモグラたたきゲームさながらで

受験、就職難、失恋、出世競争、リストラ、離婚、借金、病気、老い、

と私たちは次々とやってくる無理難題のモグラを

ひたすら叩いているようなものです。

 

ところがゲームと違って人生の場合、タイムオーバーがない。

果てしなくモグラが出てきて、

やがて叩く腕も疲れてこっちが動けなくなってしまう。

 

そんなとき、モグラを止めたいと思ったら

ゲーム機の電源を抜いてしまえばいいんです。

一返に決着です。

 

お釈迦様は苦悩を根本から抜き取って

本当の幸福を与えようとなされて仏教を説かれたのです。

 

目の前のモグラに向きになっているのが私たち、

ゲーム機の電源に狙いを定めているのが仏教、とたとえることができます。

「抜苦与楽」が共通の目的ですが、

苦しみの視点、見方が違います。

仏教を学ぶ際はまずここをよくよく聴聞しなければなりません。

 

仏教を聞き、仏教を説く目的とは

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【抜苦与楽(1)】


何事も目的が大事、とはよく言われることです。

ビジネス書なんかにも、会議の際、会議の目的は何か、を参加者と共有するのが大事で、

とりわけ主催者はよくよく確認しなければならない、と書かれています。

いつしか会議のための会議になっていたり、

派閥や力関係を確認する場になってしまったりするので、

このように言われるのでしょう。

 

アスリートも、練習の目的をよく自覚することが大事だと言います。

プロの野球選手は、一回一回のキャッチボールも全て目的がある、といいます。

漫然とこなし、早く練習終わらないかな、とただ終わるのを待っているような練習であってはならない

一つ一つの練習には目的がある

それを念頭に入れて練習をするかしないかで大きく変わると言われます

 

このように何事も目的が大事なのですが、

さて仏教の目的は何でしょうか。

それはただ一つ「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。

「抜苦与楽」とは苦しみを抜く、そして楽しみを与える、ということで、

この苦しみとは、不安や不満、虚しさ、寂しさなど、いろいろな苦しみです。

その苦しみが抜かれ、楽しみを与える

この楽とは安心であり、満足であり、充実であり、幸せのこと。

それを与える、これが仏教の目的です

 

仏教を説く目的も、仏教を聞く目的も、これ以外ありません。

仏教を説かれたのはお釈迦様ですが、

お釈迦様が仏教を説かれた目的は「抜苦与楽」のため一つでした

人々の苦しみを抜いてやりたい、

人々を幸せにしてやりたい、

これが目的で、お釈迦様は仏教を説かれました

 

だから仏の教えを説く僧侶も、その目的は抜苦与楽です。

仏教を説く時は、説法する者は「医王のごとくせよ」と説かれています。

人から評価されたいとか、お金が欲しいとか、そういう目的で仏教を説くのではない、

医者が患者の苦しみを癒し、患者を健康にするために懸命に努めるように、

法を説きなさい、と言われているのです。

 

仏教を聞く立場になった時もその目的は抜苦与楽です

私たちが仏教を聞くのは苦しみを抜くため、

そして幸せになるためこれが仏教を聞く目的です。

仏教を説く人も、仏教を聞く人も。その目的は「抜苦与楽」一つです。

苦しみを抜いて幸せになる、これが仏教の目的なのです。

 

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