親鸞に学ぶ幸福論

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二言あいさつが世の中を明るくさせる

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【言辞施(3)】

 

言辞施の一つ、あいさつについて2回にわたって話をしてきました。

さて、今回はもう一歩進んで「二言あいさつ」の話です。

二言あいさつとは、あいさつの後に何か一言添えること。

仕事場でも、営業先でも、近所でも、まずあいさつから始まりますが、こんにちは、だけですれ違うのは、ちょっとよそよそしいかなと思う時には、あいさつの後に一言添えていくことができれば、なおいいです。

「おはようございます、今日は暖かいですね」とか「こんにちは、先日はありがとうございました」など。

 

これもたくさんの友人知人と一堂に会う会場なんかで、あいさつ後に一言そえてといわれても、言葉を選ぶだけでも気苦労で、なかなか大変ですし、私も苦手の方なんですが、周りから好かれている人、人望の厚い人は、こういうことがかなりできる人なんですよね。

私の身近にも、忙しいだろうに、責任も重くて大変だろうに、あいさつのあとの一言を忘れない人があって、後輩なんですが、いつもすごいなとひそかに思っています。

やはりその彼、人望が厚く、ビジネス仲間にも恵まれているのですが、これは彼の不断の努力に他ならないと学ばされてます。

 

二言あいさつに添える言葉は天気のこととか、今ならコロナのこととか、あまり意味のない会話といえば意味がないのですが、そういった言葉が人間関係の潤滑油になるものです。

「あら、お出かけですか、どちらまで」「はい、ちょっとそこまで」「そうですか、お気をつけて」「ありがとうございます」

どちらまで、というのに、ちょっとそこまで、では答えたことにはなりませんが、別に聞いた方とて知りたくて聞いたことではない、「ちょっとそこまでって、どこですか」と追及するつもりもない、聞かれた方もしゃくし定規に目的地をその人に答えねばならないでもよく「ちょっとそこまで」でいいのです。

言ってる方も言われる方も何を言ってるんかという感じの会話ですが、こういった何気ない一言のやり取りが潤滑油になります。

逆にこういう一言がなく、やがてあいさつまでもしなくなると、潤滑油の切れた歯車のようにぎすぎすと音をたてはじめるものです。

 

「こんにちは、今日はいい天気ですね」と天気を話題にするのは、天気だったら誰に対しても無難で差し碍りなく、何も考えなくてもパッと出てくる言葉だからです。
そんな時、受け応えする方が「いい天気ですね、ってそんなこと見ればわかるだろ、何を意味のないことを言っているんだ」と言っていたら人間関係は上手くいきません。
「本当いい天気ですね」と答える、これも一つの言辞施です。

 

忙しい人でもあいさつする。

できればそこに一言添える。

結構これは慣れていないとエネルギーが要ることですが、実践して返ってくる果報は大きいものがあります。

相当その人の関係はよくなります。

 

職場でも家庭でも仲の良い職場、家庭は、たいていこうした日常生活の意味のない会話がなされているところかと思います。

 

 

 

受け取るかどうかは向こうさんの都合

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【言辞施(2)】


先回、言辞施の一つとして「あいさつ」について話をしました。

どんなにケンカで腹立っても、疲れててしゃべりたくない時でも、表情は作れなくてもいいし、ぼそっとでもいいので、最低限あいさつだけはしていきたいもの、と書いたのですが、30代のメルマガ読者の女性からメールをいただきました。

 

その方は夫婦二人暮らしでご主人とは、朝起きて顔合わせても「おはよう」も言うのでもなく、家に帰っても「ただいま」も「おかえり」もないようです。

これは気が滅入ってきそうです。

ところが今回のメルマガを読まれ「自分だけでもあいさつしようかな」と思われたそうです。

これはなかなかできる決意ではありません。

一度あいさつさえしなくなった仲が、自分から殻を破ってあいさつするのは、勇気の要ることです。

大変なことですが、お釈迦さまの勧められた布施行の実践で、すばらしいことだと思います。

 

布施の種はしあわせの花が咲く種ですから、まく人はやがて必ず恵まれます。

「まかぬ種は生えぬ、まいた種は必ず生える」

あいさつは言辞施で善い種ですから、必ず善い結果が訪れます。

あいさつをした相手から返ってこなくても、回り回って他のところから思わぬ幸せがきます。

 

あいさつしたのに向こうが返してこなかったとしても、そんなことは気にすることはありません。

別にお金や物品とは違って元手はかかっていないので損することもなし、相手が受け取ろうが受け取るまいが、それは向こうさんの都合、こちらは善い種をまかせてもらうだけです。

 

「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦ぞ まず笑顔せよ みな笑顔する」

布施の種まきを続けていれば、やがてその人の周りに人垣ができます。

 

 

笑顔とあいさつは先手必勝

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【言辞施(1)】


お釈迦さまは、「もらう」事を考えずに「与える」事を考えなさい、と教えられた方でした。

そしてお金や物がない人でも与えることができるものの一つに

「言葉」があると教えられ、これを「言辞施」と言われます。

 

たとえば「あいさつ」ですが、これは言辞施の一つです。

あいさつがないと人間関係はきついものがあります。

職場や親戚付き合いもそうですが、夫婦でもそうです。

「おはよう」「おやすみ」「ただいま」「おかえり」など

最低限あいさつだけはしていきたいもので、

それもしないといつしか家庭は暗く、苦しいものになります。

 

どんなにケンカで腹立っても、疲れててしゃべりたくない時でも

表情は作れなくてもいいから、ぼそっとでもいいので、

あいさつは死守しなければ、

あいさつしないともう終わりだ、くらいの気持ちでしていきたいものです。

 

あちらがしてこないからこちらもしない、という人がありますが、

あいさつはこちらから、が基本です。

立場や年齢は気にする必要もありません。

こちらがあいさつしても向こうが返してこないから

損した気分になって、いつしかこちらもあいさつしなくなった、というケースがありますが、

返ってくる返ってこないに関係なくあいさつしていると、

いつしか向こうがするようになってきた、となっていきたいものです。

 

「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦ぞ

 まず笑顔せよ みな笑顔する」

こちらがあいさつに心がけていないのに、

向こうからあいさつがないことにいきり立つ人は、

ちょうどこちらが「ヤッホー」と声をあげていないのに、

山彦が帰ってこないと腹を立てているようなものなのです。

 

 

民族差別者への問題提起『銃・病原菌・鉄』

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【御同行(1)】


お釈迦様は鉄壁のカースト制を敷くインド社会で「人類は平等なり」と宣言され、

親鸞聖人は身分制度も根強い封建社会にあって「御同朋・御同行」と大衆の中に飛び込んで仏法を説かれました。

そのブッダの教え、親鸞聖人の教えを聞き、人に伝える使命を持つ者として

興味深かった本が、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」です。

黒人男性死亡の抗議デモが激化している今だからこそ、この本をちょっと取り上げてみたいと思います。

 

西欧列強が世界を植民地化していた時代、

白人は自分たちが有色人種よりも人種的に優秀であると当然視していましたし、

21世紀の今でも、差別になるので口に出してはいけないというマナーは心得ているにせよ、

そんな優越意識を持っている白人は多分にあるかと思います。

 

「銃・病原菌・鉄」に書かれている内容を一言で言えば、そんな白人至上主義を否定した本です。

一部の差別意識の強い白人だけでなく、どこの国にも、あの人種は優秀だとか、あの民族はダメだとか、

レッテル貼る人がありますが、そんな先天的な人種の優劣はないことを学問的に丹念に考察してます。

 

なぜ著者であるダイアモンドはこの本を書くようになったのか、

パプアニューギニアで生物学の研究をしていた彼に、ヤリという現地人がしてきた奇妙な質問がきっかけでした。

その質問とは「なぜ自分たちには自分のものといえるものがないのか」というものでした。

200年前までほぼ石器時代の暮らしぶりだったニューギニアに、

白人が「積み荷」(カーゴ)を持ちこみ、

その中身は鉄の斧、マッチ、医薬品、衣服、飲料、傘など、

ニューギニア人にとって魔法の品々でした。

いったい自分たちは何をしてきたのか。なんで白人と自分たちとではかくも違うのか、それを教えてほしい、

という質問だったのです。

 

この本でダイアモンドが学問的に導き出した結論の答えは「環境要因」でした。

ユーラシア大陸生息の馬は人間に従順で輸送、軍事に多大な貢献をしたが、

アフリカ大陸生息のシマウマは気性が荒く、家畜化できなかった、とか

ユーラシア大陸には米と麦が自生していたが、

アメリカ大陸に自生していたのはトウモロコシで、カロリー差は歴然としていた、とか

他にもいろいろありますが、おもしろかったです。

本のタイトル「銃・病原菌・鉄」は、

ヨーロッパ人が新大陸をあっという間に占領するに甚大な影響を与えた三つです。

 

AI時代の思う幸福感

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【識(1)】

 


次世代に主流になるAIの自動運転では

ハンドルを握らずとも勝手にAIがハンドルを切り、

赤信号ではちゃんとブレーキをかけ、

目的地まで連れてってくれるそうですが、

今の私だったら「AIなんかに任せておれるか、もし事故ったらどうする」とかえってやきもきし、

ハンドルを手放すことはできないなと思います。

 

しかしそのうち慣れていくと、AIの運転の方が確実だと私も理解していくことになるでしょう。

今日の世界では、気が散っていたり腹を立てていたり悩み事を抱えていたりする運転者のせいで、

毎年100万人以上が交通事故で命を落としているそうですが、

そんな惨事もAI運転が普及すればずっと少なくなると予測されています。

やがて私は助手席に座っていても、運転者が人間だとかえって不安で落ち着かない、

あるいは自分が運転する方がかえって事故りそうで緊張する、となっていくかと思います。

 

ではそんな時代になって、AIの指示通りの運転していたところ

人をはねて死亡させる人身事故を起こしたら、誰の責任となるのでしょう。

運転者の責任か、AI製造会社の責任か、

ややこしくなりそうです。

 

これは運転だけではありません。

企業のビジネスプランも、国の政策決定も今後AIが関与するでしょう。

AIの下す判断がなぜ有効なのか、人智ではわからないことがある。

でもその通りやればうまくいく。

そのうち自分があれこれ悩んで下す判断よりもAIに順っておけば間違いないとなり、

やがては人生のおける価値の選択、

いわゆる「何を学ぶべきか」「どこで働くべきか」「誰と結婚するべき」も、

AIのご託宣で決まる時代が到来するかもしれません。

 

ではその場合、AIのお告げに順って行動した結果、

うまくいかなかった場合はどうなるのでしょう。

AIに訴訟を起こすのか。

AIを恨むのか。

 

AIの仰せの通りに就職し、うまくやれて社会的に成功したとしてもです、

仕事している人の心が幸せでなかった場合はどうなるのでしょうか。

それで訴訟されても、AIはそんな個人の心のことまで責任持てないのではないでしょうか。

 

結婚でもそうです。

AIがあらゆるデータを元に選んだ相手と結婚した。

さすがビッグデータ通りで、傍目にはうまくいっている家庭を築いた。

しかしどうにも自分自身にその人との結婚生活に幸福感が味わえない、ということもあるかもしれない。

そんな場合は誰のせいにしたらいいのか。

 

AIが指南したとおり進んで、安定した仕事でそこそこの収入を得られたとしても、

人生に充実感は感じられないかもしれない、

「なんでこんなに虚しいんだろう」と悩むかもしれない。

AIの指示を無視して自分が決めた好きな道を進んで

たとえその一生が波瀾万丈で、傍目には不幸に見えても、

本人は充実感に満ちているかもしれない、

臨終に「幸せな人生だった」と微笑むかもしれない。

 

人間の心の幸福というのは、どこまでいっても

AIではどうにも不可解で分析できないものであろうかと思います。

 

 

 

AIへの不安と不信の元はどこから来るか

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【煩悩(1)】

 

AI(人工知能)についてわたしは関心が高いのか、

このメルマガで何回かこのテーマで話をしています。

AI(人工知能)により、ワクチンなどの薬、難病の治療法など圧倒的に進歩するでしょうし、

あらゆるものが加速度的に便利になっていき、重宝なものに違いないのですが、

どこかAIに恐怖や不安を覚えています。

 

それはターミネーターやマトリックスなど散々SF映画で描かれてきたような

「AIが人間の意に反し暴走する」恐怖ではありません。

むしろその逆です。

AIがどこまでも主人に従順で決して反抗しないからです。

人間なら主人の命令であっても、それが非人道的な命令であった場合、

勇気を出して「それはできない」と拒絶することもあります。

その指示にしたがうくらいなら死んだ方がましだと反旗を翻すことだってあります。

あるいはためらってしまい、指示通りにできなくなります。

これは人間が同じ人間に「それはできない」と思う人間の持つ共感の力であり、

情であり、誇りでもあります。

 

だからどんな力のある独裁者でも、

配下の幹部や官僚、軍人、国民の心に配慮しなければなりません。

「それはあんたが得するだけでないか」と思われたら求心力がなくなるので、

あまりに自己本位で横暴な指示は下せません。

必ず「それはおかしい」と皆順わなくなってくるからです。

 

しかしAIは違います。

主人の言うことにはどこまでも従順です。

どんな独善的な指示であろうと、

その実行によりどんな無慈悲で残酷な結果になろうとも、

冷静に強力に遂行していきます。

 

ここまで考えて気付くのは、

私はAIに不信を持って怖れを抱いているというよりも、

AIを使う主人である人間に不信を持っており、

その独善と愚かさを恐れているとわかってきます。

 

たとえばドラえもん。

強力なAI搭載ロボットですが、

主人がのび太だから、またドラえもんがまっとうな情にあふれているから、

あの程度のかわいらしい結果で済んでいるのです。

もしドラえもんがどこまでも主人に従順で、

その主人がのび太ではなく北朝鮮の金正恩だったらどうなるだろう、

あるいは相模原で障がい者を殺傷した犯人や

逆恨みから京都アニメーションの会社に火をつけた犯人が主人だったら

ドラえもんをどう使うだろう、と考えてみてください。

とても少年マンガで取り扱えるストーリーではなくなってしまうでしょう。

 

結局AIの怖さというのは、人間の心の怖さ、ということになります。

 

「目には目を、歯には歯を」の危険性

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【愚痴(1)】


「あいつのせいでオレはこんなひどい目に遭った」と、

人をうらみ、憎む人は多いですが、

うらみや憎しみの感情は決してその人を幸せな気持ちにさせませんので、

その感情から早く離れることが大事です。

 

お釈迦様はうらみ憎しみの心の恐ろしさを再三再四説かれており、

その心にとらわれるな、とりつかれるな、と教えられています。

したがってこの仏教・親鸞聖人の教えを学ぶメルマガでも、

うらみ、憎しみの心を忘れよう、離れようと縁に触れ、お話ししています。

 

しかし離れろといったって、

実際あいつのせいで今こんな目に遭ったのだから、

この思いを忘れられるものか、

と思われるのも痛いほどよく分かります。

「言うは易く行うは難し」

私自身「お前はできているか」と問われれば、

下を向いてしまいますので。

 

とはいえです。

このうらみ憎しみの情は当然であり

報復は正当であり、仕返しが正義であると意気込んでしまうのは、

自分にとっても周りにとっても大変恐ろしい事態を招くのでやはり危険です。

 

そういう意味では、キリスト教、イスラム教のルーツとなった旧約聖書に

「目には目を。歯には歯を」という一節があるのも危険だなと思います。

「オレは片目を潰されたのにあいつが両目なのは許せない」

「私は殴られて歯を折られたのだから、いつかあいつを殴って歯をへし折ってやらねば気が済まない」

と思うのは確かに人間として自然な感情かもしれませんが、

問題は聖書にそれが書いてあれば、それを信仰している世界の多数の人たちが

仕返しを神がお墨付きを与えた、報復は神が望んでいる、

と取ってしまうので、危なっかしい一節だと思うのです。

 

聖書のこの一節は知らなくても

報復は正当な権利、みんな望んでいる、正義の怒りだと思い込むのは

やはり同様に危なっかしい思考です。

 

お釈迦さまはこうしたうらみ憎しみの心はバカな心である、と断言されています。

自分の首を自分で絞めている愚かな心であると説かれます。

うらみの心を起こすな、といっても人間である以上出てきてしまうのですが、

その時、その感情を「バカな心が出ているなあ」と思うか

それとも正義の怒りであり、報復をみんなが、神が、世界が待ち望んでいると思い込むのとでは

大違いです。

 

この仏教精神をよく表していると私が思うのは

勢至丸の出家の動機のエピソードです。

勢至丸は、漆間時国という武士の子でした。

九歳の時、源定明という武者がふとしたことから時国を大層恨み、

ある夜半、大勢の手下とともに時国の館を襲い、寝首をかいたのです。

騒ぎに目を覚ました勢至丸が時国の寝所に行ってみると、

すでに賊の姿はなく、血まみれの父が、臨終の虫の息で横たわっていました。

「父上、さぞかし無念でございましょう。

武士が互いに一騎打ちをして武芸つたなく敗れたのであればともかく、

寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊ども。

勢至丸が成長した暁に、敵は必ず取ってごらんに入れます」

けなげに敵討ちを誓う勢至丸に、時国は必死にこうさとしたといいます。

「勢至丸よ、志はうれしいが、それは父の望みではない。

無念の死はわが前世の業縁によるもの。

もし敵討ちが成就しても、敵の子はまた、そなたを敵と恨むだろう。

そうなれば、幾世代にもわたって敵討ちは絶えない。愚かなことだ」

はらはらと涙を流す勢至丸の手をかすかに握り、最後の力を振り絞って言葉を重ねます。

「父のことを思うてくれるのなら、出家して日本一の僧侶となり、菩提を弔ってくれ……

よいか……これが父の最後の望みだ」

言い終わるや、息絶えたのでした。

この遺言にしたがい勢至丸は仏門に入り、

のちに日本の仏教史に不滅の功績を遺す法然上人となられています。

 

 

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