親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

老いにも屈せぬ心の平安をどうやって得るか

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【老苦(1)】


仏教に教えられた四苦八苦の一つに『老苦』があります。

文字通り老いていく苦しみのことです。

だんだん肌がたるみ、つやを失い、シワが増え、白髪も増え、歩くのもおぼつかなくなり、

自分の体さえ自分で自由にならなくなってくる、そういう苦しみのことです。

 

お釈迦様は人間の避けられない四つの苦しみの一つに挙げられており、

いつの時代、どこの国であろうと「老苦」を避けることはできないのですが、

中でも人類史上、未曽有の老苦を味わっているのが現在の日本、

といっていいのではないかと思います。

 

お釈迦様のおられた2600年前、当時のインドの平均寿命はわかりませんが、

今から1000年前、平安時代の貴族の平気寿命が男性33歳、女性27歳といわれますから、

お釈迦さまの時代でも同じようなものだったでしょう。

その頃は老苦といっても、老いる前に飢餓や病気や疫病や戦争で命を落としてしまうために、

認知症になる人もわずかだったでしょうし、

長患いして寝たきりで介護を受けるという人も少なかったでしょうから、

老苦を実感として感じる場面は今よりも少なかったのだと思います。

その時でもお釈迦様は人間の四つの苦しみの一つに挙げられていますが、

今日の私たちはお釈迦さまの時以上に切実に老苦で苦しんでいるといえます。

 

外出しても、テレビをつけても、新聞を読んでも、

四方八方から老苦の嘆きの声が聞こえてきます。

そしてそれは今後ますます深まっていくのは間違いありません。

2017年にベストセラーになった『未来の年表』という本の中には

・2020年には女性の半分が50歳以上になる

・2021年には団塊ジュニア世代の介護離職が大量に発生する

・2022年には独居世帯が全世帯の1/3となり一人暮らしの貧困高齢者が増える

・2026年には認認介護が問題になる

とあります。

認認介護とは軽い認知症の夫が重い認知症の妻を介護する、といったもので、

私もそういう現場に居合わせた経験がありますが、

部屋はカチャカチャで見ていて痛々しいほどでした。

今すでに予波は押し寄せていますが、

これからますます本格的な波が到来します。

 

現代の日本人は、日々老苦の実態を見せつけられているせいか、

人命の尊厳はどこへやらで、

「長生きしたくない」「若いうちにぽっくり死にたい」という声はここかしこで聞かれますが、

今後ますますこれら愁嘆の声は広がっていくのでしょうか。

 

どんなに老いても、いかなる病気にかかっても、たとえ死の巌頭に立たされても、

なおゆるがぬ安心、満足があることを教えられたブッダの教えが希求されています。

 

 

さるべき縁がきたら何でもしてしまう

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【さるべき業縁の(1)】

 

アメリカの大学で自殺未遂の経験を持つ60人の学生に、

「なぜ自殺しようと思ったか」理由を尋ねたところ、

85%が「人生が無意味に思えたから」と答えました。

 

自殺者や未遂者があると、周りの人は、その原因を、

家庭不和だとか、病気だとか、いじめだとか、

何らかのわかりやすい動機を特定しがちですが、

少なくとも自ら死を選ぶ本人はそんな明確な理由では片付けられないものだと思っており、

最もしっくりする動機があるとしたら

「人生が無意味に思えたから」だというのです。

 

しかも生きる意味なんてないと感じているこの学生たちの大半は

成績もよく、家族との関係も良好でした。

冷たい家庭に育ったわけでもなく、

クラスに友人がいないわけでもない、

どこにでもいる一般の学生だったのです。

周りは「こんな人だったから自殺したんだ」と、自殺をする人の特徴も分類したがります。

「自分は、自分の子は大丈夫だ」と思いたいからかもしれません。

しかし研究結果は「あなたやあなたの子供だったかもしれない」ことを示したのです。

 

殺人事件を起こす人に対しても、

世間はサイコパスだの、人格障害だの、レッテルを貼ろうとしますが、

写真週刊誌『フライデー』での数々の凄惨な事件を取材してきたあるカメラマンが

殺人者特有の共通点を見つけようと、現場を歩き、数々の事件を取材し、一冊の著書にまとめた結論は

「自分たちとの明確な違いは存在しない」というものでした。

彼も最初は、殺人犯の残虐性や異常性に目が行き「自分とは大きく違う人間」だと思ったそうですが、

取材をすればするほど、殺人に至るまでの色々な背景が見えてきて

彼らだけの特異な事象として片付けていいのかと思うようになったとのこと、

「本に書いたすべての事件は、本人の資質以外のいろんなものが影響していると感じました」と語っています。

 

仏教では人間は皆、心の底には開かずの蔵(阿頼耶識)があり、

その蔵の中には無尽蔵といっていいほどの業(カルマ)を有している、と説かれています。

その中には、言葉を失うほど醜く恐ろしい業があり、

それが何かの縁に触発され、表へ出てしまえば、

どんな恐ろしいことでもしでかしてしまうのです。

 

これを親鸞聖人は

「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)

"縁がくれば、どんな恐ろしい事でも、親鸞はやるであろう"

と言われました。

ここで親鸞聖人の言われる「如何なる振舞」の中には、

窃盗もウソも虐待もある、殺人もあれば、自殺も入ります。

どんな恐ろしい事でもやってしまう業(カルマ)を親鸞は持っている、と仰ったこの歎異抄の一節は

真実の自己の姿を照らされた聖人の赤裸々な告白なのです。

 

 

自己の境遇に不平を持っている人へのブッダの教え

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【自業自得(1)】

 


これはつくづく周りの人を見ていて

私自身首をかしげたくなるときもあるほどなのですが、

よくいますよね、「こんなことをやっていてもうまくいくはずがない、やりたくない」「あんな人の下で働きたくない」

と職場の体質を批判したり、上司の言動に対してぼやいたりする人は。

 

あれでは人生つまらないだろうし、

仕事にも身が入らないだろうし、

いいこと起きるはずないのにな、と思うのですが、

それでもそれらの人が文句言いながらも

その仕事をその立場でずっとし続けているのはなぜなのだろうと思うのです。

 

いろいろ話を聞いたりして思うのは、結局のところ

「その人が実はその仕事が好きだから」なのかなと思います。

いや、好きとまでは言わなくても、

少なくとも他のことを選択するよりも今の方が居心地がいいから

その選択をしている、といえるかと思います。

 

「やる気が出ない」職場を誰がえらんだのか、

「第一志望の行きたいところに行けなかったから仕方なく」妥協したならば、

なぜ行きたい会社に行けなかったのか、それは誰のせいか。

なぜ妥協した先が今の会社だったのか、それは誰が決めたのか。

 

自己の選択が人生を作ったのです。

過去だけではありません、今もそうです。

今なお転職せず、その会社に居続けるのも、自己の選択している結果に他なりません。

 

背水の陣で臨み、その結果、成功する人もあれば、ダメになる人もありますが、

いずれにしても自己責任です。

リスクを負うのが嫌だからとその場に居続け、嫌な思いをするのも自己責任、

各人の人生は各人が選んで造った結果なのです。

誰を責めるものでもない。

「自己の選択と行動が人生を造る」

これは仏教の根幹をなす真理です。

 

 

ps

最近ユーチューブ動画で配信し始めたのですが、

まずはトライアンドエラーで何度も失敗しながら、

有効な手段を情報収集して、この道でのやり方を学んでいきます。

ライバルは20代。

今は「なんじゃ、こりゃ」かもしれませんが、見ててください。

精度を上げていきます。

チャンネル登録していただけると、うれしいです。

https://www.youtube.com/watch?v=adWuVf68B38&t=60s 

 

よどみに浮かぶうたかたの如き人の世

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【泡沫(1)】

 

イスラエル人とパレスチナ人が平和条約が結べない最大の障壁は

イスラエル人がエルサレムの街を分割したがらないところにあります。

ユダヤ民族の永遠の都であるエルサレムを分割するなど絶対に妥協できない、と彼らは主張します。

聖書には神がこう言ったと記されています。

「これはエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で取り囲ませた」。

カトリック教会はこの一節を根拠に、エルサレムが永遠の都であり、

エルサレムを中心に世界が回っているとする天動説を標榜し、

その永遠の都が異教徒に奪われたのを奪還するのは神の意志であるとし、

約200年にわたって9回もの十字軍遠征を呼びかけました。

永遠の都を護るためなら、これで神の国に行けるのなら、と人々は喜んで犠牲になっていきました。

 

しかし「永遠の都」などというフレーズは、

46億年の地球の歴史からいえばナンセンスです。

人類(ホモサピエンス)は少なくとも10~20万年存在してきたのに対し、

ユダヤ民族は長くても3000年の歴史しか持たず、

これで「永遠」を語る資格は到底ありません。

ところがこの「永遠の都」のためにどれだけ流血の歴史がかの地で流され、

今も続いていることか。

何度、不毛な十字軍遠征がなされたことか。

 

雄大な歴史絵巻といっても、地球の歴史46億年と比べたらほんの一瞬の出来事であり、

ホモサピエンス人類史20万年と比較しても、

ほんのわずかな間の出来事を記録したものに過ぎません。

まして100年足らずの人の命など泡沫(水面に浮かぶ泡)であり、

「永遠」「絶対」「大義」「これだけは譲れない」

と執着している一切も、同じく泡沫(うたかた)です。

方丈記にはこの仏教思想を

「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」

と書かれています。

 

 

人間の持つモチベーションの正体とは

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【名誉欲(2)】


親鸞聖人は「名利の大山に迷惑す」と告白されています。

“名誉欲が大きな山ほどあって、親鸞は煩い悩んでいる”

この告白は聖人お一人のことだけでなく、すべての人間の実態といえましょう。

 

「名誉欲」とは、人からほめられたい、好かれたい、認められたい、大事にされたい、無視されたくない、もっと尊重してほしい、ぞんざいな扱いを受けたくない、見下げられたくない、という人間の欲求です。

この名誉欲を満たすために、あれこれ模索し、悩み、うろたえているのが人間の実態です。

 

あの人は一生懸命だなあ、と感心する人はいますが、彼らをしてそうさせるものは何でしょう。

東京オリンピックを目指す若きアスリートたちは、

「筋肉が悲鳴を上げてからさらに続けるのが筋トレだ」と自らの極限まで追い込み、

丹念に地道な基本練習を繰り返し、

食事も肉類はボイルした鳥のささみしか食べずに体脂肪率をキープし、

なにしろ想像を絶する努力を重ねています。

 

どうして彼らはそんなに一生懸命に、一途に、ひたむきに打ち込めるのか。

彼らをしてそこまでさせるものは一体何だろうか。

彼らに聞けば返ってくるのは、

「記録を0.01秒でも縮めるため」

「日本人で初めて100メートル10秒台の壁を破るため」

「地元開催の東京オリンピックに出場するため」

「メダルを取るため」

と各自の抱く熱い夢や目標を語ります。

 

では、と「それを達成したからって、何だっていうんだ」と重ねて訊けば

この人何を言い出すのか、と唖然とした顔で言い返すだろう。

「えっ、オリンピックですよ、メダルですよ。世界に名前が刻まれるんですよ、新聞にも出る、みんなからフラッシュたかれ、拍手され、パレードだってある、感動したと称えられ、テレビに出てインタビューを受ける、何だっていうんだ、どころでないでしょう」

ということになってくるとしたら、

結局それは、人から賞賛される、ということに集約される名誉欲に他なりません。

 

その証拠には、もし無人島だったら0.01秒の記録を縮めようとひたむきに練習を重ねるだろうか、と自問自答してみたらいいです。

本当に「記録への挑戦」との純粋な気持ちだったら無人島でもできるはずですが、

応援も賞賛もなく、記録も残らず、報道もされず、それでも頑張れるでしょうか。

 

ノーベル賞を取れるような世界的な研究に従事している人は

真理への探求心がモチベーションといいますが、

もし一生涯、無人島で暮らさなきゃならないとなったら

それでも研究や論文執筆に精魂傾けるでしょうか。

 

私たちは人前に出るときに化粧したり、身だしなみも整えますが、

無人島なら化粧するだろうか、

服も着なくなるのでないだろうか。

 

実は意欲も、奮起も、根気も、ひたむきさも、その原動力は、

本人も気付いていないかもしれませんが、名誉欲なのです。

その己の実態をはっきり照らされた親鸞聖人の告白が

「名利の大山に迷惑す、恥ずべし、痛むべし」です。

 

 

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何をするにも人の目を気にしている名誉欲に振り回される人間

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【名誉欲(1)】


親鸞聖人は「名利の大山に迷惑す」と告白されています。

“名誉欲が大きな山ほどあって、親鸞は煩い悩んでいる”

この告白は聖人お一人のことだけでなく、すべての人間の実態といえましょう。

 

「名誉欲」とは、人からほめられたい、好かれたい、認められたい、大事にされたい、無視されたくない、もっと尊重してほしい、ぞんざいな扱いを受けたくない、見下げられたくない、という人間の欲求です。

この名誉欲を満たすために、私たちはあれこれ模索し、悩み、うろたえています。

「どうしたら認められるだろうか」

「どうしたら大事にされるだろうか」

「どうしたら評価してもらえるだろうか」

労働者も資本家も、官僚も大臣も、教師も生徒も、夫も妻も、親も子供も、

お互い「どうしたら良く思われるか」の名誉欲に振り回されているのが実態です。

 

何を着ていくか、誰とどんな話をするか、

そんな一つ一つの行動も、

他人からどう見られるかを基準に決めますし、

流行や周りの空気に合わせるのも、

反対に人と違うことをやりだすのも、

人の目を意識してのことです。

世間体なんか気にしない、どう思われようが我が道を行く、と豪語する人だって、

そういう生き方をする自分を見てもらいたい、評価して欲しいという密かな願望があるのですから、

みな例外なく、名誉欲に動かされているのです。

 

 

仕事を捨てて仏法を聞こう

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【聴聞(3)】


浄土真宗中興の祖、蓮如上人が「仕事をやめて仏法を聞け」と言われたのはなぜか、

先回、先々回に続き、今日もお話しします。

「仕事をやめて仏法を聞け」といわれ、

その通りでございます、と答える人は誰もいません。

「仕事やめたら生きていけんでないか、ムチャクチャなこと言うな」とあきれるか、

汗水流して生計を立てて家族を支えている人からすると、

庶民の生活も気持ちも知らない者の言い草、としか思えないでしょう。

 

しかし考えてみてください。

もしあなたが、今晩までの命となったらどうでしょう。

「そうなったら仕事どころでない。だいたい明日の命もないのに働いても仕方ない」

となるのではないでしょうか。

 

ということは蓮如上人の『仕事やめて聞け』のお勧めに、

「そんな無茶な。できん」と反発するのは、

『明日はある』『まだまだ生きておれる』という固い信念が、

そう言わせているといえます。

 

毎日、世界で15万人が死んでいます。

いつの日か、その15万人の中の一人に自分が入る時が必ず来ます。

それがなぜ「明日ではない」と保証できるでしょう。

私たちの『明日はあるに決まってる』と頑として揺るがぬ信念は、

何か根拠があるのでしょうか。

 

親鸞聖人はご両親の突然の死を縁とされ、

その『明日あり』と思う心の迷いに気づかれた方でした。

それが9歳で出家された時に詠まれたこの歌です。

『明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』

“今は盛りと咲く桜の花も、夜中に吹く一陣の嵐で、見るも無惨に散ってしまう。

人の命は桜の花よりもはかなきもの。

どうか明日とは言わず、今日出家得度の式を挙げてください”

激しい無常の嵐を知らされ、じっとしてはおれないと、

仏道に入られた親鸞聖人の強いお気持ちをこの歌に知ることはできます。

 

盲目的に『明日あり』を大前提に生きるのと、

『今日限りの命かもしれない』と受け止めるのと、

そこが大きな人生の分かれ道です。

誤った信念は、誤った人生にしか導きません。

「明日なき命かもしれぬ」と己の生の不安定さにまじめに目を向けた時、

「今日何をすべきか」

「いや、今は何をすべきか」

真剣な答えが迫られるのです。

蓮如上人はその答えをズバリ

「それは仕事ではない、仏教を聞くことだよ」

と教えられました。

それが「仕事をやめて仏法を聞け」の一節なのです。

 

ここでまた「なんで最後の一日ですべきことが仏法なんだ」という声が聞こえてきそうです。

今日が最後の一日だったら何をするか、の問いに

ほとんどの人が用意する答えは、

「お世話になった人に感謝の意を伝える」

「人生で一度は行きたいと思っていた○○に行く」

「好きな人と一緒に楽しく過ごす」

といったものでしょう。

なぜ蓮如上人はそういったことではなく、

人生最後の一日、臨終となった時、「仏法を聞け」と言われたのでしょうか。

 

それは「この一瞬の命、生きている今、何を果たさなければならないのか」

明確な答えが説かれているのが仏教だからです。

だから蓮如上人は

「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。

世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。

(仏法は仕事を辞めて聞きなさい。

仕事の合間に仏法聞こうと思うのは浅ましい事ですよ)

と書かれた後に

「仏法には明日ということはあるまじき」

(仏法に明日はないのですよ)

と続けられているのです。

 

 

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